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トワイライト・アイランド―-佐渡周遊

河本英夫

 佐渡は東京23区の1,6倍の面積があり、人口も10万人程度である。かりに島流しになってもそこで生きていくことができるだけではなく、この地で新たな活動を繰り広げることができる。日本最古の歴史書でもある『古事記』の国生み神話には、大八島の7番目として登場し、『日本書紀』の同じ神話には「億岐州」(隠岐)と「佐度州」(佐渡)が双子として、5番目に登場している。奈良時代にはすでに佐渡は一国と認定され、「流刑地」の一つに定められていた。行政的には、鎌倉時代以降、本間氏が守護代として佐渡を支配していたが、1589年(天正17年)に上杉景勝の侵攻を受けて滅亡し、上杉の支配地となった。その後徳川幕府の直轄地となる。現代的に言えば、「経済特区」の指定であり、長崎や大阪とともに指定されている。
島流しは否応のない新天地への強制赴任に近い。畑作も水田も漁場も佐渡の人口を支えるには十分である。そこにはすでに生き延びてきたものの知恵があり、新たに流入してくるものの対応の心得も備わっていたに違いない。だがそれでも島に特有の「陰り」はある。金鉱山で浮かれるほど栄えた往時があり、栄華がある。そして過行くものの姿を残響のように残しながら、新たな社会生活の模索は続く。これは裏合わせになった「憂鬱と努力した明るさ」でもある。人の移動は当初より島という地形条件で限定されている。新たな流入も流出も限られたものである。それでもなお限られた選択のなかで模索は続く。

1 歴史的陰影の再編

 いくつか典型的なポイントがある。歴史の遺跡をそのまま現代的な視野に組み替えるものである。一般的に言えば、過去の遺物を「観光」に活用するのである。だがそれでも稀に見る景観になることもあれば、陰るままに維持される生活もあり、歴史の証言者になることもある。

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(北沢浮遊選鉱場)
 鉱山跡地の近くの開けた場所に岩石の選別所が残っている。遠景で見ると、まるで階段状の要塞だが、そこに蔦が絡まり、緑の窓を具えた地を飛ぶ軍艦のように見える。前景の芝の上に浮き上がっているほどの緑の要塞である。1989年に正規の鉱山からの金銀の取り出し作業は終わっている。かつて鉱山を運び込み、上から順々に鉱物を粉砕し、金銀の含有の多そうな岩とそうでないものを判別し、さらに選別していく。それが階段状に設置された分別機である。
工程の一部には、水の流れを利用して、水に浮くゴミや水流ではまったく動かない石を取り除く。そのため水流を使いながら上流から下流に流していく仕組みが必要となり、もともと斜面であったところに階段状の建物を設計したようである。作業が歴史的に完結したとき、階段状の建物の天井を外し、なかの器機を取り外して外部に運び出した。そして外枠の外壁だけが残った。そこを蔦が夥しく覆ったのである。

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 遺跡の光景であるためには、蔦が前面を覆い、廃墟そのものが覆い隠され、変容していかなければならない。そしてそれを「軍艦」様のまとまりとして知覚できるための「距離」が必要となる。
距離は、比喩を生み出す装置である。人の顔を「かたち」として見るためには、それに相応しい距離が必要である。また視野の形成のためには、隔たりが必要となる。遺跡を軍艦として見るためには、それに相応しい隔たりがいる。この隔たりのなかに空間的距離と時間的距離が含まれており、そこに歴史の知覚と事物の視野が入り込む。この隙間は、解釈の母体であり、構造物に堆積する地層だと言っても、構造物の由来を語る伝承だと言っても、ほとんどのことが当てはまっている。隙間そのものの歴史さえ成立し、それこそすでに構造物全域に浸透したイメージである。この構造物は、圧倒的な巨大さを直示するために、訪問者にとっては偶然に出会う異物でさえある。それじたいで端的に面白いのである。そしてこの構造物の由来への思いが、沈めても収まることのない喚起力を醸し出している。正直、不思議な感動である。

佐渡の南端付近に「佐渡国小木民族博物館」があり、保存するように指定された古びた集落がある。かりに保存指定しなければ、歯が抜けるように更地となり、空き地になっていく。保存とは、時間の流れを緩やかにすることであり、場合によっては停止させることである。この古民家群は、中央を流れる小さな川沿いのびっしりとひしめき合った古民家の集落であり、隙間の空き地では、猫の額のような、家庭菜園が作られている。小さな川には生活排水も流されているようだが、流れが速いためか、臭いが漂うことはない。集落のなかにはすでに空き家もあれば、老人がひっそりと暮らしている家もある。小さな川と小さな路地に囲まれて、間に家が建っている。路地は、道路というより、長年かけて形成された生活の通路である。
路地と路地の間には、三角のかたちをした家がある。まるで前方から船を見るような姿になっている。そこには初老の人懐っこいおばあさんが住んでいて、何度も外に出て来ては、小木村の成り立ちを説明してくれた。この人には、ほとんど方言がない。おそらくひと時本州のにぎやかな都市部で暮らし、老後にこの小木村に帰ってきているようである。この村でひっそり暮らしたのでは、手持ち無沙汰になるという賑わいの老婆である。この三角の家の右側の角に吉永小百合が立って紹介写真が作られており、有名になっている。今回の視察チームでは、研究支援者の岩崎大君が、ポーズを決めた。塩の専売所の看板は、戦後しばらく続いた昭和の痕跡である。当時、塩は特定の場所でしか手に入らなかった。いまではどこのスーパーにも置いてある。

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(船様式の古民家)
 この集落を抜けた高台に博物館があり、そこに木製の「千石船」が復元されている。船大工を集めなければ、やれない作業である。復元作業は平成9年から開始されており、この時期の船は、大半はすでに金属と合成樹脂で作られており、多くの船大工が残っているとは考えにくい。原則釘を一本も使わないで大型帆船という構造物を作りだすのだから、寺院を作る宮大工と並び、洗練された特殊技能である。岩手の大船渡市から7名の船大工を招き、作業に当たっている。船じたいは巨大で、江戸期に作られていた「千石船」の設計図をもとに復元されている。歴史の再現であり、多くの歴史的「再現」に見られるように、時代的な「異物」でもある。150年を一挙に飛び越えるのだから、それじたい推移するものの圧縮でもある。この圧縮には莫大な人のエネルギーと資金が必要となる。
 千石船は、貨物船についてのこの地域での呼び名であり、全国的な名称は「弁財船」である。佐渡は、西回り航路の中継地の一つであり、弁財船は速度を競う上方型弁財船と、多くの荷物を積むことができる北前型弁財船に分かれる。西廻り航路が開かれ、西日本や北陸の文化が伝わってきたこと、また配流者が伝えた文化も含めた貴族文化や武家文化、町人文化が一体となって、佐渡特有の文化を形成していったといわれる。
大阪から江戸へ荷物を運ぶ際には、江戸中期以降すでに速度が問題になっていた。この港(宿根木)の千石船が、はじめて記録に現れるのは、1774年のことである。かつて船主や船頭をやっていたところには、仕切帳、造船資料、航海文書などがあった。だがこれらの資料は、戦後顧みられることもなく、忘れられ捨てられていった。この高台の宿根木小学校が廃校となり、そこを博物館にしたおかげで、民具類や文書が収集された。そのなかに千石船の設計図があったのである。
人物(畑一成君)の後ろにあるのが、舵取り用の操舵尾で、帆を立てる柱は、博物館の天井を突き抜けるほどだから、船の中央表面に折りたたまれている。博物館の外に建てられた石碑の文字によれば、船の建造費は1億4年万円とあるので、多くの寄付がなければ成立しない一大事業である。作業に取り掛かる前には、誰にとっても「夢物語」であったに違いない。それが実行に移され、とことんやりきってしまうところが「歴史」である。物語は、歴史的距離の再編のことである。物語にしか出現しない幻の船が、ここにこうして現物として存在する。それが驚きなのである。

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(千石船 白山丸)

能舞台は、佐渡の多くの地域に残っている。人口当たりの能楽堂の数でみれば、おそらく日本一の数である。電気のない時代のことだから、夕暮れから宵にかけて、篝火を焚いて能の舞台装置にしたと思われる。狭い空間に火を焚いて陰影の前後を作り出す空間は、どこか佐渡という島の在処に釣り合っている。あるいは夕暮れの小さな漁船のなかの雰囲気でもある。闇夜の中の火は、人を興奮させ、熱狂させるところがある。夜間の火事では、近所の人たちが別人のように力を発揮する。火事場の馬鹿力は、闇夜の火事に相応しい。これは夏祭りの花火でも同じである。
 世阿弥は、室町幕府の三代将軍足利義満の寵愛を受け、能楽を大成させたが、六代将軍足利義教の怒りにふれ、1434年に佐渡に流された。世阿弥72歳の時である。佐渡の多田に着いた世阿弥は、長谷寺を経て新保の万福寺に配所されている。在島中に世阿弥が著した小謡集『金島書』に書かれている元号から、1436年までは佐渡に滞在していたことが分かっている。比較的短期の滞在であった。
 世阿弥以前に、佐渡では「舞楽」が行われており、左衛門尉貞泰が、園中将という人の舞楽興行の申請に応じて、領域内の勧進を許可するという内容の資料が残っている。毎年3月15日には舞楽が予定され、寺中の繁盛や仏法の興隆を讃える口上が述べられている。年数から見ると、1351年の日付になっているので、世阿弥が生まれる以前のことである。舞楽は仮面を着けて踊る曲名が多い神事なので、舞うための仮面を必要とする芸能社会が、14世紀の中頃には、久地郷に生まれていたことになる。神事として舞楽がすでに行われており、能楽のための予備的な設備は整っていたと考えてもよい。
 世阿弥が流されて以降、約100年後(1553年)には、観世元忠が、河原田の城主に招かれ、一座を連れて興行を行ったという資料がある。この時期には、すでに能の興業が広範に行われていたことを示唆している。記録によれば、世阿弥の玄孫にあたる観世元忠が、門人の「市若彦九郎」「保生七郎」「服部又四郎」「服部三太夫」を連れて、猿楽を行ったとある。名前の作りから見て、芸能社会の「芸名」のような作りであり、新規の参入者も多く、能はすでに伝承される芸能になっていたようである。

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(白山神社境内 能楽堂)

 能は、おそらく当時でも蓄積された事前知識の必要な洗練された芸能になっていて、現在ではそれほど敷居の低い芸能ではない。それは佐渡ばかりではなく、日本全国でも事情はほぼ同じである。能のような高度な熟練と洗練を具えた文化は、間口が狭く奥行きが際限なく深い。江戸時代の最盛期には佐渡に200箇所ほどの能舞台が作られ、現在でも30か所程度残っているようである。季節に応じて実際に篝能も行われている。他方盆踊り風の大衆身体表現は、多くの人の参加が主眼になるので、見るものではなく、自分でも踊るものになっていく。

2 ゴールドラッシュ

 佐渡は、「今昔物語集」にも記録されているように、昔から金が採れる島として知られていた。江戸時代に入ると、経済的利権を確保するために、徳川家康が幕府直轄(天領)として指定し(1601年)、翌年には大久保長安が奉行となった。明治維新後、宮内省御料局財産から、民間の三菱金属に払い下げられたが、長期にわたり佐渡奉行所が管理したいわゆる「経済特区」である。
 鉱山の繁栄によって日本各地から山師、金穿り、大工、測量技術者、商人、漁業者などが集まり、当時人口が急増し食糧需要が増えた。そのため鉱山の技術を応用して海岸段丘上に新田開発も行われた。また鉱山で使用する炭・木材等の生産資材確保のため、山間部の森林も御林(官有林)として、奉行所によって管理が行われている。
 金銀産出のピークはいくつかある。幕府直轄の当初が最初のピークであり、この時期の銀の産出は、6万キロから9万キロと試算されており、当時の世界産出量で見て15%に相当するようである。すさまじいゴールドラッシュである。奉行からヤマを請け負って稼業するのが、「山師」であり、「「山主」とも「山元」とも呼ばれたこともあるが、いずれにしろ現代的には「起業家」である。
山師は、有望そうなヤマを見立てて、多数の敷人足(坑内労働者)と岡人足(坑外労働者)を雇い事業を起こしている。このゴールドラッシュ時には、100人近い山師がいたと言われている。山師は苗字、帯刀も許され、管制「企業家」であり、出身地は丹波、石見、若狭、備前、備後、但馬等にもおよび、全国から寄せ集まってきたというのが実情である。そのなかに味方但馬というのがいた。但馬は、関ヶ原の戦いで戦功があり、500石の知行を得ていたが、それを捨てて山師になり、佐渡で57か所の鉱区を稼働させ、それ以外に多田銀山、奥州南部銀山でもヤマを請け負ったらしい。現代的に言えば、公務員を捨てたマルチ・ベンチャーである。
 元禄時代(1680-1709年)には、一時激減した産出量が、再度大幅に回復した。湧水を取り除く水道(南沢疎水道)が開通したことによる。金鉱採掘の妨げになるのは、掘った坑道が水に浸かってしまうことである。雨が降れば坑道に流れ込み、掘り進めば湧水が出現する。水に埋まったのでは鉱物を取り出すことはできない。しかし南沢祖水道が開通したことで坑内の水を入り口まで運び出さなくても、地下排水路を使って水を海まで流すことができるようになった。この大土木工事を指揮したのが、静野与右衛門であり、資金勘定を行ったのが時の佐渡奉行、荻原近江守重秀である。これによって水汲み人足の数は実質的に大幅に減った。
敷人足にとって危険な条件がもう一つあった。坑内の酸素不足である。坑内は基本的に昼間でも真っ暗である。岩を読んでいくためには、かなりの明るさが必要である。そのため松脂やロウを燃やして、坑内を明るくしている。空気坑を掘っても、簡単に空気環境は改善しない。そのため坑内労働者は、労歴10年が限度だとも言われている。
狭い範囲に莫大な労力を投入するのが、鉱山の仕事である。現在的に言えば、限りなく密な仕事場である。農民も水汲みに駆り出されたが、文政5(1822)年には労役に代えて、農民からの拠金に置き換えられている。相当額のお金を支払えば、水汲みの割り当てが免除されるようになった。現代で言えば驚くことではないが、ここには時代の大きな推移が見られる。「現物経済」から「貨幣経済」への移行である。
 金によって幕府財政が支えられるようになると、生糸や織物を中心とした商品作物の生産拡大が各地で続いている。ことに上州での商品作物は多かった。商品経済は元禄のころから明確なかたちをとり始め、金貨、銀貨にささえられて貨幣経済とともに急成長した。それまで現物で納めていたさまざまな取引は、貨幣をつうじての取引に置き換わり、経済の姿が変わってしまった。貨幣経済になると、貨幣さえもてばそれだけで仕事になる金貸しや、それに群がるものたちが同時に出現してきたのである。
貨幣の動くところには、賭場が立ち、貨幣を求めて流浪するものたちが出現してきた。いわゆる「無宿人」である。この時代の無宿は、たんに住所不定のもののことではない。人別帳(戸籍)から除外された「帳外」のもののことである。そのため各地の領主にとっては、この者たちに対して、取り締まりの権限も監督権もない。領主にとってはそもそもいない人間である。これが「無宿」である。このなかには伝説となるようなスターも含まれている。「国定忠治」や「鼠小僧次郎吉」である。
無宿人にとって、生きていく場所は、かなり多く用意されていた。街道筋もそうであり、雲助のような交通労働もそうである。領主からすれば、無宿人はそもそも捌きようのない制度的、構造的な「アウトロー」である。必ずしも無宿は、犯罪者とは言えない。貨幣経済への移行によって、無宿は貨幣に寄り付き、寄生するものたちで、経済システムの変換とともに夥しく出現してきた。しかも自然災害や一揆とともに、騒ぎに便乗する者たちも出た。アウトローにとっては、騒ぎはいつもチャンスである。現在でもコロナ禍の騒動のなかで、公的補助金に便乗して詐欺を行う者たちが夥しく出現する。騒ぎのなかに金蔓となるチャンスが見える者たちがいる。おそらく無宿の中にそうした人たちが一定頻度で潜んでいたのである。
 無宿人の佐渡送りが開始されるのが、1778年である。江戸は、すでに当時世界有数の大都市である。
大都市は、無宿の生存の機会を高めてくれる。そして江戸という大都市そのもののリスクをおのずと高める。勘定奉行の石谷淡路守は、「江戸市中を徘徊している無罪の無宿者に、幕府は処理に困っているので、佐渡金山に送り込みたい」という意向を漏らしている。佐渡奉行側の受け止めは、「江戸でさえ処置に困っている者を、佐渡で受け入れるわけにはいかない」というものである。いくつかのやり取りの後、無宿者の佐渡送りが決定された。江戸の治安維持の確保と佐渡での人足の確保という、一挙両得だから最初から落ち着きどころは見えていた。こうして無宿というアウトローの逮捕が進められることになった。多くの無宿は犯罪者ではないが、犯罪予備軍ではある。江戸と周囲の関八州に、無宿の逮捕の通達が出された。
 佐渡金山では、過酷労働のためか、病気やケガで頻繁に死者がでる。無宿佐渡送りも同じである。だが無宿者には、戸籍はなく、名前も定かではない。死ねば葬らなければならないが、そもそも葬る場所がない。

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(無宿人・墓地)

相川の金鉱山跡地入り口から坂道をしばらく下ったところの山間に、無宿たちの集合墓地がある。弔うものがいるのか、枯れていない花が供えてあった。金銀が大量に採掘され、市中に出回ると、商品作物の生産とともに、貨幣経済が広範に広まる。貨幣と現実の生産活動の隙間に、大量の無宿人が発生した。金融経済の規模が大きくなれば、金融にまとわりついて生業とするものたちが出現する。利益を狙っての抗争も起き、抗争のどちらかに加担することで、そのことを金に換える者たちも出現した。いわゆる「渡世人」である。これは江戸という大都市のリスクを高めることになった。幕府から見れば、佐渡送りには金融に寄生するもの(高利貸し、博徒、盗賊)たちを実労働に戻す機能があり、同時に江戸処払いという治安維持の機能を併せ持っている。無宿人からすれば、貨幣経済という自分たちを生み出した構造的変化の一部をさらに加速させる仕事に、あらためて佐渡で着くことになった。そして無宿として一括りされた「無名の死」を迎えたのである。

3 思想断層

 佐渡への島流しになった人物のなかでは、日蓮が名高い。日蓮の島流しは、1271-1274年の3年間であり、日蓮の49歳から52歳にかけてである。ある意味、日蓮からすれば勲章のような歴史的事件であり、新たな布教の場所を得た新天地への転身でもある。
実は1261年から1263年まで、日蓮は幕府によって拘束され、伊豆の伊東に流罪となっている。伊豆流罪中、日蓮の監視に当たったのは伊東の地頭・伊東八郎左衛門祐光である。伊東八郎左衛門裕光はもともと日蓮が終生攻撃を続けた「念仏者」だったが、ある時病気になり、そのとき日蓮の祈念によって快癒したので、日蓮に帰依するようになった。日蓮にはこの類の逸話が多い。危機のタイミングをうまく活用し、自分の介入を自他ともに過大に評価するタイプの宗教者であった。危機の時代を生き延びる天性のレジェンドだった。
 佐渡送りのさいの事件も、相当に生々しい。佐渡送りになる3年前の1268年年1月に蒙古と高麗の国書が九州の太宰府に送りつけられ、この文書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はそれを朝廷に回送している。蒙古文書は、日本と交易を求めながら、武力侵攻もありうるという内容である。日蓮は、蒙古文書の到来を、外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実だとして、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱らの幕府要人のほか、極楽寺良観、建長寺道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に書簡を送り、仏教諸宗との公場対決を要求した。ともかくも騒ぎを利用して、自説の展開を図る典型的なやり方である。
 騒ぎが続くので、1271年9月に幕府は、日蓮を召喚して尋問を行い、その後武装した数百人の兵士を率いて日蓮の逮捕に向かっている。平頼綱は内々で日蓮を斬首する意志を固め、日蓮を龍の口の刑場へと連行した。日蓮が斬首の場に臨み、刑が執行されようとする時、江の島方面から強烈な光り物が現れ、太刀を取る武士の目がくらむほどの事態になって、刑の執行は中止された、と伝えられている。良く出来すぎた話である。この後、佐渡への流罪が決定された。
 日蓮の体質には、他の教団への激しい非難が含まれている。ことに念仏と禅宗に対しては容赦のない批判を繰り出した。1271年6月、日蓮は、当時関東における真言教団の中心者で、非人の労働力を組織し、道路や橋の建設、港湾の維持管理などの事業を行っていた極楽寺良観が、当時起きていた旱魃への対応として、幕府によって降雨の祈願を要請されたことを知った。そして日蓮は、良観を相手取って、7日の間に雨が降らないなら、法華経に帰依せよ、と降雨祈願の勝負を申し出ている。そして実際雨は降らなかった。こんなことをやり続ければ、多くの方面から恨みを買うに決まっている。
実際に静岡の伊東に流されたとき、親切にしてくれた少数のものを気づかう感謝の手紙を残してもいる。日蓮と親しいことが周囲にばれないようにした方がよいという助言も述べている。「地頭も民衆も、日蓮を忌み嫌うこと鎌倉より甚だしく、わが姿を見れば眼を離さず、耳にする者は敵視している時、ことに五月の頃とあれば米も乏しかったろうに、日蓮を内々に養って下さったこと、日蓮の父母が、伊豆の伊東、川奈という所に生まれ替り給うたか」(「日蓮消息」木下順二訳)。周囲敵だらけでも、臆している様子も、方針を変える様子もない。
日蓮は、天台教学を「迹門の妙法蓮華経(法華経)」であり「理の一念三千」と呼んだ。天台の体質が思弁的、観念的であることを批判し、自分の教義を「事の一念三千」として、実践的行為であることを強調している。また日蓮は、法(真理)をよりどころとすべきであり、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いている。さらに仏教史を克明かつ批判的に検討し、念仏、禅、真言宗だけではなく、天台密教も批判するようになった。天台宗の密教化をおし進めた第3代天台座主の慈覚大師円仁、5大院安然、恵心僧都源信と並べて「師子の身の中の三虫」と断定してもいる。東密(真言宗)だけでなく、台密(天台宗)までも批判の対象とするようになったのである。自分自身の思いや考えを「立場」として明確にすることは、一般に自分自身の選択肢を狭くする。その場合には、教義から別の通路を付けなければ、閉塞してしまう。この別の通路こそ「現実の政治」である。
こうした多くの批判をつうじて、日蓮に対してもかえって反批判、敵対行動が出現したことはむしろ当然である。信徒への弾圧も続いた。それによって、それを糧にして教団の団結が強まる方向と、教団そのものが分裂していく方向を生んだ。少なくとも傾向として、周囲と折り合いを取りながら宗門の維持を図ろうとする出仕組(受派)と、法理の純粋性を維持しようとする非出仕組(不受不施派)がはっきりと分かれてくる。後者は、法華経の信者でないものからの供養やほどこしは受けないという断固すぎる方針である。
ここまで先鋭化すれば、さらにおのずと分断が進む。公儀の眼が厳しいのだから、表向き体裁状は「受派」を装っても、「不受」を続ける信念を持ち続けるものには寛容であるべきだとするのが、「日指派」であり、これに対して「津寺派」は、外の混濁に対しては徹底抗戦すべきだという立場である。日指派は、内浄を優先し、津寺派は外濁との戦いを強調した。組織に対しての外圧が強ければ、しばしば起きる組織防衛にための岐路でもある。
自然災害にさいしても、幕府が邪宗を抱えこくことで起きていることだとして、幕府に対しては、邪宗を排し、自分の主張する「法華経」を中心に据えるように要求した。そのため当初より日蓮宗は、政治的動向を強く帯びることになった。本性的に政治的であることが、宗教活動の中心となっている。禅宗のように身体修養を中心として、政治や国家とは独立の固有のネットワークを形成していく場合には、ほとんど政治化することはない。だが日蓮は違った。幕府の失政は、邪教を取り立てて擁護していることにあるのだから、それを変更せよという政治的要求となった。これはどのように理由づけされようと、幕府批判である。これで「危険視」されないはずがない。こうした政治性は、今日では創価学会と立正佼成会に引き継がれている。創価学会は、「公明党」という政党さえ形成している。宗教団体が、それじたいで政党を作っているのである。
政治の前線は、言葉による論争である。鎌倉幕府や他の宗教を批判したとして日蓮は、1271年に佐渡に流されて、塚原の三昧堂という荒れ果てた墓地の小堂に配所された。後に市野沢に移されるまで半年間そこに住んでいた。ここでも他宗の僧たちとの間で、「塚原問答」を戦わせ、「開目抄」を著し、市野沢に移されてからは「観心本尊抄」を著し、初めて日蓮宗の本尊とされる法華曼荼羅をあらわした、と言われている。
内面に向かうというよりは、ともかくも論争を挑み、そこから新たな展開を作り出していくタイプだった。論争は、勢力を拡大するさいや、教団の内部に不満がたまり、分裂寸前のときにはしばしば起きる。だが日蓮は、論争をつうじて自分の教説を形成していった。佐渡での書簡には以下のような記述がある。「仏法において、おだやかに軽悪を受け入れ説得する摂受と、威力を以って重悪を打ち砕く折伏とは、時に応じて使い分けねばならぬ。例えば世にいう文武二道のようなもの。されば昔の大聖は時によって然るべき法を行った。・・・・破戒や無戒をやっつけ持戒や正法を行おうとするからには、諸戒を堅く守らねばならぬ」(「佐渡御書」)。こうした戦いは、どこかで終わるような性格のものではない。戦いが次の戦いを引き出し、それに果敢に対応することで、さらに次の戦いが準備される。
もう一つ政治性を含んだ宗教的体質に、「末法思想」の取り込みがある。法華経の「久遠本仏の常住」、「遣使還告の譬」、「勧持品二十行の偈文」を「末法悪世の相」に相当すると解釈し、法華経の使命は、衆生の救済を目指すものだと訴えていった。日蓮にとって「末法重病の衆生」を救済することのできる唯一最良の薬は、「法華経」のみである。「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」のように激しく他宗(真言、禅、念仏、天台)を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが、末法において衆生を救済する唯一の教義であり、他の教えはかえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という強い自己主張となって表明されている。

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(日蓮宗・根本寺境内・太鼓堂)

 日蓮宗のお寺は、佐渡にも多く残っている。根本寺は、広大な敷地であり、訪問した日曜日は実質的に閉館だった。それでも投げ銭のように観覧費を置き、入ってみた。他に拝観しているものはない。どこまでも奥行きの続く道である。境内の長い通路には、どこか緊迫感や緊張感がある。それが戦いのさなかのひとときの休養なのか、さらに布教を展開するための準備なのかはわからない。休息のない休戦のようにも感じられる。波乱万丈のさなかのひとときの空白が、いまなお続いているという感触である。


参考文献

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梅原猛他『日本の古典⒓ 親鸞・道元・日蓮』(河出書房新社、1973年)
門田岳久他『生活文化研究フォーラムNo.1』(生活文化研究フォーラム、2020年) 
計良勝範他『佐渡の文化史』(両津市郷土博物館、2003年)
佐渡名販『佐渡の昔ばなし』(佐渡名銘、2020年)
永井次芳著、荻野由之校閲『佐渡風土記』(臨川書店、1941年)
テム研究所『佐渡金山』(2001年、株ゴールデン佐渡)
テム研究所『図説佐渡金山』(ゴールデン佐渡、1985年)
白山丸友の会『時代に帆を揚げて』(白山丸友の会、平成16年)
松本清張『佐渡流人行』(新潮社、1976年)
山本修之助編『佐渡叢書 第二巻――佐渡志、佐渡志附録図』(佐渡叢書刊行会、1972年)
山本修之助『佐州巡村記:佐渡市民風俗他』(佐渡叢書刊行会、1977年)

(2020年10月20日)
Twilight Island ---- Sado



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