Ⅱ 環境科学を学ぶ
今日の環境問題にかかわるさいに、文明の形態あるいは人間の生活形態を変えなければならないという主張は、繰り返しうんざりするほど述べられてきた。だがどの方向へと、どのように変えていくのかは、それほど明白ではなく、またどのような構想がもっとも有効であるかも吟味されているわけではない。生活を禁欲的に浪費型ではない方向に進めることも、あの懐かしいトンボやホタルの飛び交う自然を回復することも、汚染された湖沼を回復することも貴重な活動である。植林を行い緑地面積を拡張し、あるいは燃費の良い動力機関に代替していくことも重要な選択である。そしてそれらはほとんど、今日の環境問題のパースペクティブのなかに配置された見慣れた選択肢である。基本的動向として、破壊されたものの回復と、環境負荷の低減が座標軸となっている。そのとき次のような疑問がわく。現状での選択肢は十分に提示されているのか、あるいは選択肢の座標軸は十分に開かれたものであるのか。そして問題解決手法として、破壊されたものがあれば回復する、あるいは負荷が大きければ減らすという、いわば対症療法的な対応は、十分な展開見通しをもつのかという点である。
こうした問いを少しまもとに受け止めてみようと思う。というのも環境問題には膨大な課題があり、一つ一つの課題は、直接実践課題となるほどにすでに展開されている。ボランティが相互の協力のもとで河川の清掃を行う。みんなで里山の下草刈りを行う。子供たちを連れて沼の清掃を行う。いずれも貴重な活動だが、何かが足らないと感じられる。それはこうした活動には、創意、工夫の余地があまりなく、存分に自分自身の活動であると感じ取りにくいことに関連しているように思われる。環境問題の多くは、既存の環境を維持するための守りの課題である。こうした局面で、環境デザイン論、より一般的にはシステム・デザインは、より多くの人間の可能性を発揮できるようなデザインを行うことが、すなわち文明と生活形態の改善につながると考えるのである。破壊されたものの回復ではなく、むしろ新たなデザインを創出すること、環境負荷の技術的、禁欲的抑止ではなく、環境内に新たな選択肢を提示すること、問題解決手法として、直接的対応ではなく、間接的に問題そのものが解消するようなデザインの仕方を試みることを構想するのである。もっともわかりやすい事例で言えば、エレベータの燃費を改善し、エレベータの利用を極力控えるのではなく、エレベータに乗るよりもさらに面白い階段を設計すること、そしてその階段を登れば、個々人の健康や能力の開発について、エレベータに乗るよりもはるかに優れているような階段を開発することである。そのためそれは人間の創意に訴えるような企てとなる。そのためのいくつかの基礎的な事項と基礎概念を習得しておきたい。
1 基礎概念(1)――エントロピー
地球温暖化のさいに基本となるキータームがある。それがエントロピーであり、熱力学第二法則で定式化されている。洗面器に水を入れ、そこに青インクを一滴たらす。するともやっと拡散していき、数日後には一様に混ざってしまう。逆に一様に混ざってしまったものが、自動的に一滴のインクにまで凝縮することはない。このとき自然界のプロセスには方向性があることがわかる。この方向性に対して、自然状態ではプロセスに非可逆性が生じる。自然界は、おのずと均質さの度合いが増すように推移する。この均質さの度合いを表わすのが、エントロピーである。エントロピーじたいは、相対量であり、相対的な度合いの変化の方向を表わしている。インクの混ざった洗面器では、それ以上インクの拡散が起こらず、全体が均質になったときその系の状態をエントロピー最大という。
地球全体の生命活動の源は、太陽からくる光である。その事実には直観的に歴史上多くのものが気づいており、太陽を崇める自然信仰は多くの部族に見られる。ところで太陽光が毎年地球に降り注ぎ、それが生命活動のかたちで蓄積されれば、地球全体は毎年温まっていくはずである。そしてどんどんと太陽光のあたる地表付近の温度は上がるはずである。ところがここ数千年そうした事実は見られない。それは地球に注がれた太陽エネルギーは、同量のエネルギー分だけ大気圏外に捨てられているからである。その主な仕組みは、海水が蒸発するさいに大量の熱を含み、水蒸気が大気の上層へと移動して、やがて雨となって降るさいに、含まれていた熱エネルギーが大気圏外に捨てられることである。水の大循環を用いて、熱エネルギーを地球外に放出している。こうして太陽から光のかたちで受け取ったエネルギーは、熱のかたちで大気圏外に放出され、エネルギー収支では等量になっている。
このときそれでは毎年稲が実り、小麦が生産され、森林の樹木が一回り大きくなり、多くの生き物が育つ活動の源はなんなのかという問いが生じる。大陽から受け取るエネルギー量は、植物や動物の生命活動の結果熱となり、同じ量だけ大気圏外に捨てられているのだから、生命活動はエネルギーの落差によるものではない。とすると光エネルギーと熱エネルギー間の落差に生命活動の源があると考えられる。大陽光はもっとも良質のエネルギーであり、熱は劣悪なエネルギーである。この良質から劣悪を特徴づけているのが、エントロピーの増大である。大陽光はエントロピーが低く、さまざまなエネルギー形態へと転換するが、熱はそれ以上にかたちを変えることはできず、均質さの度合いが最大となり、いわばそれ以上使い道のないエネルギーである。かりに熱にさらに使い道があるのであれば、それじたい有望な資源であるが、残念ながらもはや活用できないのである。熱にはそれじたいのなかに選択肢がない。エネルギー形態で見れば、熱はエネルギーのなかのゴミである。このゴミが地表付近の大気中に増大した二酸化炭素に閉じ込められてしまう。そのため地表付近の気温が上昇するのが、温暖化問題である。そこで熱を含んでしまう二酸化炭素量そのものを減らそうとする課題が現実に生じている。この場合、二酸化炭素量の低減に問題の焦点が絞られがちだが、実は熱のような選択肢のないエネルギー形態そのものにも問題があり、選択肢を含んだ状態を維持し続けるような文明や生活のありかたを模索するという課題も生じる。この課題の方向に進んで、新たな環境の選択肢を模索しつづけるのが、環境デザインである。
ちなみにエントロピーは系全体のマクロ指標だが、これを系の要素の挙動で見るとどうなるのか。洗面器に混ざっていくインクは、ごく小さなインク分子の集合である。分子の集合で見たとき、エントロピーはどう解釈されるのか。このことを定式化する物理学を、「統計熱力学」という。インクの分子は、一様に水に混ざる方向に動いているのではない。インク分子は、ただランダムに運動しているだけである。分子のなかには相互に密着する方向へと動くものもある。ただランダムに動いているものがどうして結果的に一様に混ざるのか。それは極端な挙動をするものは相互に打ち消しあい、統計的に見れば一定の分子間平均距離に近づくものの頻度が、もっとも高くなることによる。一様に混ざるというのは、相互が一定の距離にあるような分子の頻度が確率的にもっとも高くなる、ということを意味する。このとき規則的な傾向というのは、もっとも確率的に起こりやすい事態のことであり、規則とは最大確率頻度の出現を意味する。
それではどのような系であっても、それが最終平衡状態に達していないのであれば、たとえ小さな確率的頻度であれ、マクロな規則性に逆行する可能性も含まれているはずである。この規則性に逆行する確率的傾向を、「揺らぎ」という。揺らぎは、時として増幅されて系全体が別の状態に移っていくことさえある。こうした系そのものが新たな状態へと変化していく事態を、揺らぎを介した自己組織化という。自己組織化では、単純なエントロピー増大ということは起こらない。竜巻や入道具も、そうした自己組織化によって形成されるものである。つまり揺らぎを介して、新たな傾向や形態を作り出すことはできる。この場面が、環境デザインを行うさいの一つの手掛かりとなる。この自己組織化の仕組みは、溶液内から結晶が突然出現してくるような事例をモデルケースとして、語ることができる。結晶化の開始には、揺らぎを介した偶然が関与する。ひとたび結晶化が開始されれば、「生成プロセスが次の生成プロセスの開始条件となるようにして接続する生成プロセスの連鎖」が自動的に出現する。これが自己組織プロセスの最小の定義であり、どのような自己組織化であれ、こうしたプロセスの連鎖がどこかに含まれている。このプロセスの連鎖のなかで生みだされ、プロセスに対して外的になったものが均衡構造(通常の結晶)であり、生みだされた構造がプロセスそのものの持続を支える場合が、散逸構造(竜巻、入道雲等)である。
2 基礎概念(2)――二重安定性
一般に水のなかのインク分子のような系では、分子間に衝突以外の特異な相互作用が働かないこと、また系そのものは全体として閉じていることが前提となっている。だが多くの現実の系は、異なる要素を含み、異なる要素間では特異な相互作用が働き、また洗面器のように閉じた系ではなく、周囲はなだらかに開かれている。その場合には、エントロピー増大の規則にはしたがわない。今日の環境問題に取って重要な系が、そうした内部で相互作用する系である。
生成プロセスでの複合的なモードについては、「二重安定性」という仕組みが今日明らかになっている。これは、(a)同じ要素から成るシステムでも異なるプロセスを取る変化のモードがある場面と、(b)複合的な要素のなかである要素が起動するまでに周辺条件が整うことが必要であるような入り組んだ作動のモードがある。
(a)実際に、オランダのベルエ湖の富栄養化過程で観察された事例で、一般的には湖水リン濃度が増大すれば、湖水表面の植物の割合は低下する。リン濃度を急激に上げた場合には、ある段階で植物は激減するが、逆にリン濃度を徐々に下げた場合には、別の経路をと通って植物量が徐々に減少する。これは可逆過程になっておらず、水質汚濁と環境修復には別の回路を取らなければならないことを意味する。(図1) (b)同じように池の水の透明性について、湖のアオコの増殖のような場面では相転位が含まれる。アオコの量(単位体積あたりの密度)が臨界点である「ある量」を超えると、水質が一挙に濁る。そして自律回復は困難になる。ところがコイの放流その他でアオコを減らしたとき、この「ある量」よりずっと小さい値にまで戻さないと透明化のプロセスには入らない。また富栄養物質の増加に応じて、植物プランクトンは漸次的に増加するが、一定量のプランクトン残存下では富栄養物質を減らしても、しばらくはプランクトンは増える。つまりバイオマスは、二つの安定状態の極をもつ。(図2)
同じように牛の放牧によって草の量が激減したとき、牛の数を減らしても牧草が回復しないことはよくある。三日月耕法によって水と肥料を蓄え、農地の状態を変えることで回復することも知られている。これらの事例のなかに含まれている事態を二重安定性という。
二重安定性をもつ系は、定状だと見えているもののなかに、一定幅を内蔵した修復機構があること、つまり安定とは一定幅の中をつねに変動していることである。またこの修復機構には、系の複数の状態を規定する複数の変数があり、この変数の変動経路によって系の状態は選択される。つまり均衡状態からはずれると平衡点を移動させて、ただちに均衡状態に戻るような仕組みになっていない。平衡状態そのものが一定幅の変動のなかにあるのだから、平衡状態に戻ろうとするときにも、複数の回路がある。その複数の回路がどのようにして選択されるかは、そのときどきの偶然ではなく、その手前の状態が関与する。つまり履歴が効いてくる。
この場合、目標とされる特定の状態、たとえば水質の透明化の回復というより、回復するための手順やプロセスの設定が重要になる。生態環境の修復というとき、たんに元に戻すことはできない。むしろどの変数を有効に変動させるかが問われる。安定性を支える変数が少なくとも2個以上になっているのだから、どの変数をまず変えるかで、次の変数の変わり方が決まる。これは生態学的なトンネル効果とでも呼ぶべきものである。
二重安定性のある系では、この安定性が維持される範囲にある間は、一般に系に変化が及んでも自律回復できる。ところがこの範囲を超えると、系は一挙に別のものになってしまう。こうした局面を相転移という。一般に、自律回復が困難になる臨界点を見極めることは難しい。そのことが環境問題を難しくしている。つまり過度の憂慮と過度の楽観が両立する。ところが二重安定性の限界付近では、数学的に相転移の起こる場面に、特有のカオスの乱れのような状態が出現する。ここでは複雑さが混乱に代わるような波形が出現する。つまりカオス力学による数学的な近似から、臨界点の予測が可能になると考えられる。
カオス力学とは、一般に規則性だと思われているもののなかにも、非規則的、非周期的な挙動が含まれていることを示す仕組みのことである。たとえば雨が降れば、樋を流れて落ちていく。このとき雨水は樋を一定量ずつ流れていくのではない。ちょろちょろと落ちていくときもあれば、一挙にどさっと落ちていくときもある。つまり通常規則的な挙動だと思われているものでも、オーダーを一段階上げると、非規則的、非周期的な挙動が出てくるのである。人間の血流も、毎秒同じ量だけ、同じ間隔で流れているのではない。血流の量は、刻々と変動している。一定の複雑さが維持されていることが、健康ということの意味である。血流が一定の定型に近づくのは、むしろ認知症の人や老衰の人である。こうしたカオス力学を用いると、限界点で極端な乱れが出てくることが知られている。そのことを用いて、相転移が起こりそうな臨界点を予測することができる。こうした予測は、これまでほとんどできなかったもので、複雑な系に対応するさいには高度な力学系を用いることが必要となる。
3 生物多様性
ここ数年、生物多様性という言葉が頻繁に語られるようになった。[1]もともとこの語は生態学に由来する専門用語である。自然状態に近い森林を思い浮かべてみる。いく種類かの丈の高い樹木があり、その下に丈の低い灌木がいく種類も生い茂っている。巨木の下は、日当たりが悪いので湿潤性の草が何種類も茂っていて、そのなかには多くの虫が生息している。こうした生態系は、さまざまな環境変動に対して、維持能力が高いことがわかっている。生息する虫の種類が少々代わっても、少し平衡点がずれただけでシステムは維持される。また害虫によって特定の巨木が枯れても、別種の巨木が生き残っていれば、その本数が増えてシステムは維持される。こうした系での種は、相互に共生関係にある。
逆に系の均質化の度合いが高いと、わずかの変化に対して一挙に全体の均衡が崩れて、激変が起きてしまうことも良く知られている。均質さの高い土地の典型が、耕作地である。農地で同じ作物を何年か続けて作っていると、作物に病気が出やすくなる。しかも一挙に耕作地全域に広がる。そこで大量に農薬を使うことになる。だがそれによってさまざまな地中微生物も除去されるので、ますます均質化が進む。
生態系には、珍しい種の生息する系が多々ある。そのなかには絶命危惧種に指定されているものがある。かりにこの種が絶滅しても、生態系そのものは維持される。この場合には、生態系の持続可能性はあるが、生物多様性は必ずしも維持されてはいない。持続可能性と生物多様性の維持は、すでに地球サミットの国連・環境と開発に関する世界委員会(1992年)で提起されており、日本ではその翌年に批准されている。そしてこれらは環境保護の二つの大きな指針ともなっている。だが実際のところ、生物多様性の維持の方が、持続可能性よりはるかに困難な目標であり、広範な要因にかかわる課題でもある。それ以上にきわめて曖昧な課題でもある。
生態系の持続可能性には、一定度の多様性が含まれていた方が優位かつ有利であることには間違いないにしても、必要条件と言えるほど強い関係ではない。つまり生物多様性の維持に関して、個々の系においてどの程度の多様性が維持されるべきなのかは、実際のところほとんど確定しようがない。日本の植林された針葉樹林の場合、多様性の度合いは自然林に比べれば低い。だが自然林の多様性は、本当に多様性の指標になるのか、という疑問は残る。というのも自然状態で一般に特定優先種だけが支配的になることは、系の本性だからである。放置すれば、草原のシカは際限なく増え、なんらかの理由で紛れ込んだ強い外来種は、またたくまに特定の生態系を占拠する。
自然生態系は、ほとんどの場合多様性を増大させる方向には向かってはいない。もちろんこうした生物多様性には、多変数的な環境要因を含めて考察しなければならない。環境要因を含んだ生態系の多様性を、生態多様性と呼んでおく。実際、サウジ=アラビアの生態多様性とアラスカの生態多様性、赤道直下の生態多様性が、多様性の維持に関して同じシステムの仕組みで扱うことは直感的に困難だと思われる。同じ多様性の尺度を使うことができるかどうかも不明である。環境問題が、最終的には「人間問題」である以上、人間の生存に必要とされる多様性の度合いを決めることができれば、「対応可能性の方向性」が出てくるはずである。ところがそれを確定することはほとんど困難である。ここにはおそらく、多様性をめぐる多くの典型的な疑問が含まれている。生態多様性の維持に関して、個々の生態系に対して、どう対応したら対応したことになるのかは、直感的に見て漠然としすぎている。言葉での意味は理解できるが、事柄が理解できない。あるいは意味の理解が、行為による対応可能性につながらない。この場合、生物多様性をめぐる議論は、しばしば争点を誤って設定される可能性が出てくる。ここにこの問題のやっかいさがある。
ある生息地の多様性の度合いを計量化してみる。生息地①には、A,B,C,D,Eの5種の生物が生息しており、隣接する生息地②には、A,E,F,G,Hの5種の生物が生息しているとする。このときモデル的に、3種類の多様性の指標を設定することができる。各生息地多様度5、生息地横断多様度8、生息地間多様度1,6となる。最後の生息地間多様度は、生息地の間の隔たりの度合いのことであり、横断多様度を分子とし、各生息地の多様度を分母とする。[2]いま生息地①に、強力な外来種Iが入り込み、ここでの生物種がA,Iの二つだけになった場面を想定する。すると生息地多様度は、①が2、②が5、横断多様度は6、生息地間多様度は、①でみたとき3、②でみたとき1,2であり、この数値は外来種の進入による相対的格差が一時的に広がる場面を示している。この外来種が生息地②にも入り込み、生息地②の生物種がAとIだけになった場面では、横断多様度は2、生息地間多様度は1となり、大幅に均質化した場面になっている。
これらの数値は指標でしかない。だがそのことの内在的理由は、確認しておいたほうがよいと思われる。まずスケールの問題がある。数え上げられている生物種は、人間の日常生活上での知覚をつうじて判別されているものである。ここには当然ながら、細菌やバクテリアの種数は算定されない。階層的に区分される生命水準そのものは、同じような生活資源を活用する集団が切り取られて成立する。これは分類単位とは一致しない。階層関係が一定であるとは、個々の生物にとって生息環境が一定であることを含む。つまり比較的安定した環境条件のもとでしか成立しない指標である。種数の変動する場合には、生息地そのものの境界が変わることがあり、そのため算定しておかなければならない階層の幅が変わることがある。
また空間的スケールは、生息地の範囲を決めている。とするとたとえばA,B,C,D,Eの種で、微妙な生息地の違いは当然含まれてしまう。ことに動物の場合は、種によって行動半径が異なっているので、各種はそれじたいで領域形成する。一般に生息地を指定しているのは、観察者である人間であり、それは観察者による大まかな境界区分である。だが種ごとに微妙な生息地をもつというのが、生態学の常識である。トキの主要な餌のひとつであるヤマアカガエルは、オタマジャクシからカエルになるときに森林の林床で暮らすことが知られており、オタマジャクシの住む水辺から半径300メートル以内に森林が十分な量存在しないとヤマアカガエルの生活が成り立たないことがわかっている。同じカエルでも、モリアオガエルは半径1キロ以内の森林量の割合が高いと繁殖率が高くなることがわかっている。人間に近い生態系はまだ理解できる。海洋や深海は、いったいどの程度の生息地を見積もればよいのかがほとんどが不明である。
さらにスケールの問題のなかには、時間的スケールの問題がある。種数の算定がどの程度の時間幅で行われたかである。算定のための観察が1日なのか1月なのか1年なのかは、多様性の維持への対応可能性にいくぶんか効いてくる問題である。世界的な蟻の研究者であり、昆虫の社会生活についての大部の記録を残したエドワード・ウイルソンは、生物多様性を守るためのアピールを『創造』という表題の著作で発表している。そのなかで以下のような記述を行っている。「本来的な自然と非本来的な自然を区別するにはハードデータが必要というのであれば、熱帯雨林を考えるのがよいでしょう。その面積は、アメリカ合衆国の地続きの四八州を合わせた面積にほぼ等しい大きさ、地球全地表の六%ほどに過ぎないのですが、そこは陸上生物の多様性の中心拠点であり、現時点で知られている動植物種の半数以上の種を擁しているのです。そこには、熱帯雨林で研究するすべてのナチュラリイストたちが知り、また語る通則があります。いま視野の中にいる動物あるいは植物種に、あなたは同じ日にもう一度会うことはないし、翌週、あるいは翌年も会えない可能性があるという通則です。それどころか、どんなに長くかつ熱心に探しても、二度と会うことはないかもしれないのです。熱帯雨林は、そのような希少で発見の難しい生きものたちの、膨大な数にのぼる種の生息地となっているのです。」[3]
熱帯雨林での経験をもったことはないので、この記述をありうることだと理解する以外にないように思える。おそらく誇張ではなく、事実に近いのだと思う。こうした環境内では、種数の算定が困難になっている。また生息地の範囲という領域設定も容易ではない。生息地をどんどんと変更しながら生存する生物や、特定の地点には数ヶ月に1回の頻度でしか登場しない生物もいるのかもしれない。最大の問題は、このような種の密集する地域での知覚では、生態系に慣れていないことがある。おそらく最初の数ヶ月では、発見に継ぐ発見のはずだが、それは当初多くの生物を見落としているからである。しかしこれでは種数の数え上げが容易ではない。
生態系の回復の指標として、種の数ではなく、特定種の生息を暫定的な指標とすることがある。人間の生息地に近くに森を作ろうとする場合、この森に生息する種数を目標値として決めるのではなく、コゲラが住む森にする、というように設定するのである。この場合のコゲラを「指定種」と呼ぶ。かりにコゲラが住むような森になれば、およそ何種類の小鳥が住めるかを推定することはできる。
また生息地内の種の変化の問題もある。進化論的にみると、ダーウィンの生態系の設定では、生物である限り、二つの条件を満たすことが必要である。第一に各個体は生き延びることができる以上の子供を生む。第二に生まれた子供は、すべて少しずつ違いがある。いずれも観察可能な事実だが、一般化するとある種のシステム的な原理となる。つまりこれらはダーウィン進化論からみた、生命の定義なのである。この二つの定義から個体集団を考えると、何世代か経るうちに、この個体集団の平均的形質は変わっていく。この集団の生息する環境により適合的なものは、おのずと生き残り、そうでないものはおのずと子孫を残すことができず、小数になっていく。ダーウィンは、こうした環境適応の仕組みで、種の平均的形質は変化していき、十分な世代を経た後には、出発点での平均的形質と異なる個体集団が形成されていくと考えていた。これが自然選択をつうじた進化と呼ばれるものである。今日的に言えば、個体集団の平均形質は、自然選択というある種の自己組織化の仕組みを用いて、自動的に変わっていくのである。
ところで個体集団の多様度で見ると、環境に大きな変化なければ、その環境に適したものの生存頻度は増えるはずである。とするとダーウィンの自然選択の仕組みは、特定形質を集団全域に広め、確定していくように働くはずである。つまり自然選択は均一性の増大の方向に働き、特定形質を固定するように機能するが、集団の多様度を増大させるような創発の仕組みとは、相容れない。自然選択は、一般に創発を含めた個体集団の多様性を増大させることとは逆行する働きをする。[4]これは個体発生時の遺伝子の偶然的条件を付け足し考慮しても、事態ほぼ同じである。遺伝子のランダムな変化は、変異の幅が小さく、兄弟間に見られるほどの一般的な変異幅にとどまる限り、環境適応によって支配的な個体群が決まっていく。遺伝子の変異幅が大きければすでに生態環境を支配的に利用している動物に抗して新たな優先種となるのは、気の遠くなるほどの偶然に恵まれなければならないであろう。少なくても変化した遺伝子に相当する形質の変化に見合うように、近接する形質が都合よく変化してくれなければならない。足の骨だけ長くなり、関節や靭帯が変化しないままであれば、生存可能性はむしろ小さくなる。遺伝子の偶然的な変化に対応して周辺の形質が連動して変化することは、それじたいは偶然的変化ではない。
ダーウィンが『種の起源』の議論に活用したのは、ガラパゴス諸島のフィンチの嘴のように、島ごとに微妙に形質が異なっていく事実である。これは島ごとに生存環境に違いがあり、それぞれの環境に適したものは、固定されていくという事実と、環境が異なれば、それに適応するものの形質が異なっていくという事実を含む。とするとこうした仕組みで生物多様性がもたらされるのは、環境側の変化要因であることになる。自然選択は、一般に、ここでも多数者の形質を固定する側に働く。
生態学的事実として、自然状態が維持されれば、生物多様性が維持されるということは、ありえないことである。一面コスモスの植えられた畑と雑草が生い茂った草地とでは、草地の方が多様性が高いというような指摘が時としてなされる。だが雑草の草地も放置すればまたたくまに均質化する。つまりまさに人間が介在することによって、均質化が進むというのではない。
北海道のエゾジカには伝説のようなエピソードがある。19世紀の終わりごろの北海道の豪雪で、エゾジカは一時絶滅寸前まで激減する。エゾジカを餌にしていたエゾオオカミはエゾジカに代えて開拓団の馬を襲うようになり、ストリキニーネによる薬殺と捕獲奨励金が付いたことで、またたくまに絶滅した。頭数の減ったエゾジカは、禁猟となり、ごく少数のまま生きながらえる。20世紀の70年代に回復基調になったエゾジカは、保護政策のもと、保護の上限が決められていなかったことによって、またたくまに北海道全域を生息地とするような増大を示している。
この場合、できるだけエゾジカに対しては人間の手の及ばないように保護政策がとられている。だがこのことによって部分的に草地が消滅するほどエゾジカは増大している。個体密度が増大すると、現にある餌を可能な限り食べておこうという資源の利用方法が支配的になる。この水準では、エゾジカは必要な量を食べるのではなく、餌があるだけ食べようとする。私もかつて小さなヒヨコを、50匹ほど狭い檻で飼っていたことがある。個体密度は各個体にとって窮屈なほどである。このときヒヨコは次に餌にありつける保証はないのだから、食べたいだけ食べるのではなく、あるだけ食べようとして、喉に餌をつまらせて数匹死んだ。一時的に豊富な資源を一挙に使い尽くそうとして、繁殖力を高めるr淘汰の適応戦略の一部に見られる振る舞いである。だがこのことによって、生態環境は均質化する。r淘汰は個体密度増大による競争の強化をつうじて、個体集団の均質化を進めると同時に、環境を均質に活用する方向へとドライブをかける。[5]焼畑の後に雨が降ると特定種の植物が一挙に芽吹き、それを活用するためにバッタが繁殖率を高めて増大する。環境の均質化は、r淘汰をつうじて個体の特定化を招き、均質化は相乗効果的に進行する。このとき繁殖は低年齢化し、もっとも極端な場合には生まれる以前の母体の中にいる状態ですでに自分の子供を宿しているような昆虫が出現する。
ところで里山という語は、すでにそのまま英語になっている。里山とは、人里に近い森林と、その周囲にあるため池や田んぼのような景観のことである。ヨーロッパの多くの森林に比べても、多様性の度合いが高い。それは基本的には、肥料や燃料のために定期的に雑木林の木を切ったり、落ち葉を集めたり、下草を刈ったりしているからである。つまり人間生活に即した人間による撹乱要因が、里山の多様度を維持している。一般的には競争による排除の抑制が、こうした撹乱によってもたらされていることになる。一定頻度の撹乱要因があったほうが、生態多様性が維持されやすいことは事実である。サンゴ礁は、多くの微生物から多種の魚まで、多くの生物の住処を提供していると言われている。サンゴ礁の生態系は一年のなかで何度かの台風や低気圧による大雨で撹乱され、生態系の隙間(ニッチ)がリセットされることによる。生態多様性の維持のためには、その系に内在しない要因での一定頻度の撹乱が必要である。こうした撹乱要因が、人間の生活のかたちで組み込まれているのが、里山である。
生物多様性のシステムの必要条件について考えてみる。
(1)自然生態系は、おのずと均質化する傾向をもつ以上、競争排除の抑制の設定が必要である。ここにはいくつもの小さな仕組みが必要となる。外来種で強力すぎるものへの対応、生息地の規定種(巨木)を複数化すること等である。とりわけ特定種の密度増大は、均質化の速度を変え、モードを変える。そこには臨界点と呼ぶべきものがあると予想される。
(2)個々の生息地には、いくつもの隙間(ニッチ)が必要である。隣接する生息地が、少しずつ条件を変えてモザイク状に配置ざれるように、条件の異なる生息地の設定が必要となる。たとえば森林の規定種は、そのもとに潅木が育ち、潅木の下には雑草が生え、そこに多くの昆虫や微生物が住まうような系を支える種である。この規定種を異にするようないくつかの異なる生態系を設置してみる。ちなみに新種の出現と安定は、10万年から100万年単位の出来事だろうと予想されている。アフリカのシクリッド湖のように50年程度で新種が出現するのは極端な例外であり、それはニッチが多いことに由来している。ただしこの場合には、住み分け分化に近い。種の出現は、人間の文明の変動からみて、オーダーが異なり過ぎる。
(3)各生息地に、複雑性の増大を図るような要因を組み込めるデザインを設計する。これは既存の生息種にとっては系の撹乱要因となるが、各種が新たな生存可能性を見出すことにつながる。海岸近くに入り組んだ隙間の多いブロックを埋め込むだけでも生存領域は変わる。このデザインは時として大掛かりなものになることがある。磯焼けに近い漁場の均質化は、元を辿ると微生物や有機化合物の均質化に由来することが多い。川を通って流れ出る水の水質が貧困化しているのである。磯焼けは、沿岸海域だけの問題ではなく、川の上流の森林が維持されていないことにも依存している。
(4)絶滅危惧種には、固有で詳細な対応が必要である。ひとたび絶滅してしまえば、現状では人為的に新たに作り出す手順はないのだから、少々のコストは測定誤差の範囲に入る。
生態系が人間にもたらす恩恵の総体を、生態系サーヴィスという。一般にそこには四つのサーヴィスがあると言われている。(1)食料や燃料などの資源を供給するサーヴィス、(2)水の浄化や災害保全などの調整的サーヴィス、(3)喜びや楽しみのような精神的充足をあたえてくえる文化的サーヴィス、(4)第一次生産や生物間の関係を支える基盤的サーヴィスの四種である。(4)は、(1)、(2)、(3)を支えるための仕組みに関わっていて、直接的なサーヴィスとは異なる。また(3)は、文化的な相対差が大きいと予想される。それでも人間が生態系から恩恵を受け取っているという事実は、おそらくよほど強硬な議論を持ち出しても、否定できそうにない。[6]
するとサーヴィスを受け取る以上、誰が誰にどのように支払いをするのか、という問題が生じる。またそれはどの程度の対価なのかという問題が生じる。これらは生態系サーヴィスへの支払いのコスト負担と負担割合のさまざまな問題をめぐってなされる協議であって、直接的には生態多様性の維持とは別の問題である。ただしコストを抑え、資源を維持するという点で生物多様性の維持につながる。そこには自然は有料であるという確固とした確信がある。
たとえば開発途上国では資源を活用する技術も必要もなく、利用するための技術を設定する資金もないとする。それに対して先進国では、資金はあるが、資源はない場面を想定する。すると生態系サーヴィスに対して、先進国は資源利用費、資源が枯渇しないようにするためのコスト負担が生じる。そしてここに国益、企業利益がからむのは避けられそうにない。自国の取り分を最大にしようと競えば、何も決まらなくなるのは当然である。
資源の価値は技術との相対関係でしか決まらない。石油精製の技術がなければ、石油はただの泥水である。生物資源も、遺伝子を確保しておき、将来医薬品にもなるという可能性はある。そこで世界で最も種数の多いと言われるグアテマラから、先進国が競って珍種、奇種を自国に持ち帰るということが続いた。こうした動向は徹底したもので、微生物を含んでいると思われる各地の土地さえ持ち帰ったのである。途上国がなんらかの対価を求めても、これらは商品ではなく、また市場で売買されているものでもない。つまり支払いの仕組みがないのである。こうした場合には、資源持ち出し禁止の法を定めても、闇取引が横行する。
2010年10月に名古屋で行われたCOP10では、当初から今回もまとまりそうにないという雰囲気が漂っていた。[7]それにも十分な理由があった。同年7月には、カナダ南東部のモントリオールの国際会議場に各国交渉官が集められ、予備協議が行われている。COP10での決裂を避けたい日本政府が5000万円以上の費用を出費して急遽開催したのである。そしてこの予備会議の様子から、名古屋での会議はほぼ失敗すると予想された。会議終了の前日である10月28日の夕方での各部会での審議の進捗状況は、ほとんど何も合意できていない、というものであった。そのまま審議を続ければ、もはや何一つまとまらなくなる、という漠然とした予感が広がった。最終日の29日朝8時から議長案の提案があり、各地域代表が、呼び込まれて文書が手渡された。アフリカ以外の地域代表は29日午後2時には合意、承認を告げた。その後アフリカ代表の委員20-30名程度が会議室に呼ばれ、ようやく承認を告げた。そこから全体会合での文書の採択の手順となる。最終日夕方から行われた文書採択の全体会合が終わったのは、翌30日の未明である。47か条の文書を採択するのだから、この程度の時間はかかる。京都議定書の場合も同じようなものだった。議長が、なにが何でも取りまとめるという不退転の決意を示さない限り、このタイプの議定書を採択することは難しい。文書が採択されたときには、議長である松本龍環境大臣をはじめとして、3週間におよぶ会議の参加者たちは、抱き合って喜びあったという。ただしこれだけの手間隙をかけても、ごくわずかの基本方針しか決められないのである。
COP10の成果は、生物の利用や利益配分の枠組みを定める「名古屋議定書」と世界の生態系保全目標である「愛知ターゲット」の二つからなる。名古屋議定書では、この議定書発行以前の生物取得への利益配分は認めないこと、つまり過去に遡っての利益配分は認めないこと、先住民から聞いた薬効成分等についての知識にも発行後には利益配分を認めること、不正取得を監視、審査する機関を義務化することなどが明示された。愛知ターゲットは、目標設定であり、「2020年までに生態系が強靭で基礎的なサーヴィスを提供できるように、生物多様性の損失を食い止めるため、実効的かつ緊急の行動を起こす」という主文にまとめられている。保護地域については、陸地17%、海域10%となった。生息地の損失スピーを半減させることや、絶滅危惧種を保護し、状態の改善を確認している。
他方、生物多様性をめぐる企業側の対応は、迅速であり、対応可能性の幅も広い。[8]ここにはいくつもの理由がある。日本では想定しにくいことだが、欧米各国では各種NPOやNGOの監視が厳しく、三菱電機のアメリカ支社にはかつて全米の小学生から、「熱帯雨林の森林を伐採しているような企業の製品は買いません」という手紙が届いたという。ここにはアメリカのNGOが裏で動いていたということであり、しかも企業連合の菱形のロゴマークが同じなので、三菱商事と三菱電機を取り違えていたらしいのである。ここまでくればほぼなんでもありだと考えてよい。ちなみにアメリカのNPOのシー・シェパードは、日本の捕鯨調査船を妨害することで有名だが、あのような無法行為もよほどの支援者と支援金がなければ、自前の船で南極近くまで出向くことはできないはずである。
もうひとつの企業対応の大きな理由は、比較的小額のコストで、生物多様性に配慮した企業というイメージを作ることができる点である。これは同業他社との違いを作り出すための宣伝コストだと考えればよい。しかも社会貢献を含むのだから、企業イメージの刷新にも役立つ。場合によっては少し大規模な開発も手がけることができる。トヨタは世界で100国程度に工場をもつ世界企業だが、フィリッピンにもトランス工場を置いている。フィリッピンはかつて国土の70%が森林だったが、現在は18%ほどに縮小している。そこで国の要望でもある植林に、トヨタは6年間で3億5千万年を出資しており、2010年9月には第二期植林活動の調印を行っている。アメリカの野球場に宣伝用の看板を出すことを考えれば、極端に安いのである。しかも将来的にはフィリッピン国民の生活向上は、間接的に車の購買力上昇に貢献する。
また「札幌ドーム」の周辺には、人工の広大な里山がある。これは大成建設が清水建設と組み、札幌ドーム建設にさいして、「敷地内の生物種の数を建築前よりも増やし、自然の質を高めて市民に利益還元する」という札幌市のコンペでの宣言が功を奏して、受注した成果であり結果である。用地となる農業試験場の跡地は、羊が丘と呼ばれ、市民の散歩コースになっていたため、札幌ドーム建設のさいには反対運動が起きていた。そこで生物多様性緑地の提供をプレミアムとして、建設の受注に成功したのである。つまり企業は、生物多様性が付加価値として活用できることをすでに確認しているのである。
生物多様性に関連する企業の活動は、いくつかのタイプに分けることができる。
(1)生物多様性の維持を、企業活動の付加価値だとすると、生物多様性は活用できれば活用したほうがよいビジネス・チャンスとなる。このタイプに属する活動は際限なくあり、大手企業は競うようにして、自前のガイドラインを発表している。たとえば大和ハウス工業は、「生物多様性宣言」を策定し、「生態系に配慮した活動に努め、人と自然が『共創共生』する社会の持続可能な発展に貢献する」というような基本理念と、5項目の行動指針を発表している。この生物多様性の維持にかかわる経済規模は、実は小さなものであり、本業での利益を圧迫しない範囲にとどまることが普通である。
(2)再生可能性を保障したさまざまな認証制度が形成されている。森林木材では、生態系に配慮したことを認証する世界的な制度(FSCとPEFC)がある。日本のように樹木を伐採するとそれに見合うだけの苗を植えるような林業は、世界では例外中の例外であり、多くは伐採すれば自然生育を待つだけである。そこで再生可能性が保障されるような林業の仕組みから購入されたことを示す認証制度が、発達することになった。認証された木材を用いているということは、その会社の製品が生態系維持に関してブランド品であることを示している。いわば相対的な価値の違いを作るために、企業はこうしたブランド品を活用することができる。認証されていない木材を用いているからといって、別段処罰の対象になるわけではない。製品は安くてよいものであったほうが良い。認証制度の保証を得た資材を用いることは、ある意味での保険である。保険のかかった製品を用いているので大丈夫だという発想に近いのだろうと思われる。生物多様性ブランドは、単品でもすでに成立している。人気商品としてプレミアムとなっているものがある。兵庫県豊岡市の「コウノトリを育むお米」、新潟県佐渡市の「朱鷺と暮らす郷づくり認証米」、宮城県田尻町の「ふゆみずたんぼ米」はすでに有名ブランドである。
(3)企業活動の環境負荷への評価を自前で行い、こうした評価を行うことで、みずからの活動の正当性をあらかじめ確保することができる。すなわち事前に十分に配慮された企画であることを社会的意義として強調し、データとして示すことができる。横浜市瀬上沢の里山開発に先駆けて東急建設は、「ハビタット評価手続きを」を実施している。現状の瀬上沢の「生息環境の価値」を100とし、ゲンジボタル等の指標種を4種選んで数量化するのである。東急建設の事業計画では、ホタルの生息環境価値は65%に低下するが、生態系に配慮しない系では35%程度に低下する。また東急建設が撤退し、地元業者が虫食い状に開発を行った場合には、ヤマアカガエルの生息環境価値が17%に低下すると算定している。数字はいつの時代も、魔力である。評価は、東急建設の相対的有効性を明確に示している。こうした数値を少しでも改善するために事業計画の一部を変更することもできる。計画そのものに手を入れるさいの指針ともなるのである。
(4)大規模開発を行うさい、そこで消滅した生態多様性を、別の地域で代替的に確保するバーター取引のようなやり方がある。「オフセット」と呼ばれるもので、かりに一つの森林をつぶしてしまえば、別の箇所に森林に相当するものを作る作業を、ワンセットとするのである。生態多様性は、総量としては維持されているが、開発する面積はある意味で2倍になり、コストは一地域の開発の場合から見て微増である。というのもつぶしてしまう森林の木を土ごと他地域に移すからである。代替用地を確保し、ストックしておく生物多様性バンキングも、アメリカでは成立しているようである。代替用地の取引を行うブローカも存在する。オフセットは派生的に、新しいビジネスを生み出している。
こうしてみると、ビジネス化できるものは徹底的にビジネス化するという基本的な流れのなかで、生物多様性もビジネス・チャンスとなっている。そのことが同時に間接的に生態多様性の維持に貢献するのであれば、それを止める理由は別段ないように思われる。経済規模としてはいまだ小さなものである。だが、小さなコストで配慮の仕方さえ変えれば、生態多様性の維持には、多くの回路と価値を見出せるようである。
注
1、膨大な文献があるため、入門書から専門性の高いものまで、選択的に列挙してみる。鷲谷いづみ『<生物多様性>入門』(岩波書店、2010年)、井田徹治『生物多様性とは何か』(岩波書店、2010年)、ラズロ『カオス・ポイント』(吉田三知世訳、日本教文社、2006年)、池田清彦『新しい環境問題の教科書』(新潮社、2010年)、石弘之『地球環境の事件簿』(岩波書店、2010年)、松田裕之『環境生態学序説』(共立出版、2000年)、岩佐庸『数理生態学』(共立出版、1997年)、藤倉克則、リンズィー『深海のフシギな生きもの』(幻冬社、2009年)、西田陸編『海洋の生命史』(東海大学出版、2009年)、加藤真『生命は細部に宿りたまう――ミクロハビタットの小宇宙』(岩波書店、2010年)
2、宮下直、矢原徹一編集『なぜ地球の生きものを守るのか』(文一総合出版、2010年)
3、エドワード・ウイルソン『創造』(岸由ニ訳、紀伊国屋書店、2010年)43-44頁。
4、自然選択とは異なる創発の仕組みを構想しようとする企画は、断続的に続いているが、種の出現のような大問題は簡単には解けない。ファリア『選択なしの進化』(池田清彦監修訳、工作舎、1993年)、カーシュナー、ゲルハルト『ダーウィンのジレンマを解く――新規性の進化発生理論』(滋賀陽子訳、赤坂甲治監訳、みすず書房、2008年)
5、r淘汰とK淘汰については、スティーヴン・グールド『個体発生と系統発生』(仁木帝都、渡辺政隆訳、工作舎、1987年)第9章。K淘汰は、人口密度上昇には抑制的だが、均質化に対して抑制的とは言えない。
6、鷲谷いずみ『<生物多様性>入門』(前掲)20頁。
7、COP 10にいたるまでの事情については、八木信行「サステナビリティの生物多様性1,2」『サステナ』第15、16号、36-39、44-47.
8、生物多様性に関連する企業活動については、日経エコロジー編『生物多様性読本』(日経BP社、2009年)、同編『70の企業事例でみる生物多様性読本』(日経BP社、2010年)、足立直樹『生物多様性経営』(日経新聞出版社、2010年)
4 制作
環境デザインとは、こうした最先端の科学的な手法を用いながら、環境そのものに選択肢を増やしていくような構想である。持続可能性とは、同じ状態が維持できることではないはずである。あるいは同じ状態を維持できないことが、人間の文明の形成であった。物を作り出すさいに、人間はつねに身の丈を超え出ていく存在になってしまっている。人類進化史で見れば、約10万年ぐらい前に、道具を作り出してしまう傾向が一挙に顕在化すると言われており、物を作る遺伝子が作動を開始したと言われている。このとき以来環境は極端な変化を遂げている。ちなみに人間の言語の起源は、比較的新しく約5万年前だとされており、体系的な宗教の成立は約4000年前である。
物を作るというのは、人間にとって何であったのか。霊長類、類人猿で棒状の木や石を道具として使うことのできる種は存在する。丸棒を両手で回転させて観客を楽しませるクマもいる。だが高等哺乳類で、道具の制作にまで進んでいる種はないようである。ヒトが食料としているもののうち、八割は取ってそのまま食べることのできないものである。食料の採取とともに、道具の製作は進行し、同時に食性のモードも変えていることは事実である。
人間学のゲーレンによれば、物を作ることをつうじて同時に人間に出現した事態は、以下の二つである。(1)機能代替(負担免除)――たとえば手作業をスコップに置き換えることで、身体的負担を軽くしている。身体的作業の一部を、道具(制作物)へと移譲、代替する。このさい身体の働きも認知の働きも変化する。道具は、身体の外に出た身体類似物であるため、身体の動きはその範囲での身体体勢を常態とするようになる。棒をつうじて地面の起伏を確認しながら歩くとき、手で感じ取っているのは、地面の凹凸であって、棒の振動ではない。棒をつうじて棒の先の地面を直接知るのであって、いわば道具は、認知の場面では認知の媒体としてそれじたいが透明となり、道具の先で環境を直接知覚する。これは認知の手段を一挙に拡大することを意味する。
さらに(2)過剰代替――たとえばスコップでの作業能力は、手の作業能力を大幅に上回り、コンピュータは計算能力だけでみれば、人間の計算能力を大幅に上回る。このとき(a)制作された道具の機能性に身体そのものが背伸びするように適応しなければならない。(b )そのため道具は身体の延長上ではなく、道具の機能性に応じて、身体そのものの作り変えがおのずと進行する。つまり道具の制作とともに人間はもはや身の丈にとどまることができなくなってしまっている。道具とともにある身体は、道具の機能性に特化して形成された身体であり、道具の機能水準に否応なく適合させられている身体である。
このことによって持続可能性の内実が、人間の場合、同じ状態が維持されることではないことを意味する。しかも制作をつうじて、人間は他の可能性を同時に開くように文明を形成してきていることがわかる。この開かれた他の可能性が有効に活用されているかどうかが、環境デザインの起点となる。この場面で、人間の文明は、いまだ身の丈を超え出ていくことの多様な可能性を活用できていないと考えているのである。
そこには制作とともに出現した身体の可能性の拡張とは別の極限的な意味を知ってしまうという知そのものの変容がある。制作とともに進行する現実の理念化もしくは理念の現実化というプロセスがある。平らな面を作ろうとして、何度も凸凹を均していく作業を行っても、簡単に平面は実現できはしない。微妙な起伏を含めれば、物理的に平面を作ることはほぼ絶望的に困難である。しかし「平ら」が何であるかはその作業のなかで捉えられている。この捉えられているものを単独で取り出すと、それが「平ら」の意味となり、制作作業のなかで、実現できないがそれとして知られているものとして成立している。現に実現されてはいないが、それがなんであるかをよく知っているというかたちで、いわば行為に組み込まれた意味の世界が出現している。この意味は制作行為にとっては、行為を方向付ける予期として働く。さらに幾何学の手前の意味の出現によって、現実のなかでの生活をつうじて、意味は身体行為とともに獲得される。
たとえば平らが何であるかは、言語的な意味の習得に先立って、身体とともに体験をつうじて理解されている。たとえばデコボコの床で眠っているとき、よりなめらかであること、より平らであることが何であるかは、身体とともに体験され理解されているのであって、眼で見てはじめて知るようなことではない。制作行為の出現とともに、身体行為や身体体勢とともに理解された意味は、生活をつうじて身体とともに伝承する。それは遺伝や言語的情報(ミーム)とは異なる回路で、いわば生活世界のさなかで継承される。遺伝とも言語・記号とも異なる仕組みで継承されるものがある。
ところがこの意味は、言語・記号的な定式化を受けると、まさに意味に適合的な制作を強く誘導し、その結果たとえば幾何学的な平面に身体を適合させるようなことが起きてしまうのである。フッサールが近代科学批判をおこなったとき、数学的に定式化されることによって人間の生活世界的な意味が失われることをターゲットにして論じている。またフランクフルト学派は、制作知にともなう対象制御的な知の特権化をターゲットにして、近代科学技術を批判的に論じている。これらとは異なり、環境デザインは、意味の本来的な多義性へと向けて、現行の文明が人間の能力にとって最大限それを発揮できるような制作にはなっていないことをターゲットとしている。そしてオールタナティヴな選択肢を提示し続けることを課題とするのである。能力の開発と能力の発現は、一切の人権の基礎にあるもっとも基本的な権利であるはずだが、現状ではこの権利が満たされるような環境設定になっておらず、またそのことに気づくことのできないようになってしまっているところに、問題の根の深さを見ているのである。
たとえば平らであるとは、リーマン幾何学では、一定の曲率をもつ球面の一部のことである。地表付近で平らであるとは、地球の重力中心から等距離にあることである。実際、水平に見える電車の線路も、長距離に及べば地球の重力中心から等距離にあることが、現実に水平であることの意味である。すると「平ら」の意味そのものも本来多様であるはずである。本来意味内容としても多様であったはずのものが、ユークリッド幾何学の定式化以来、むしろ一義的な幾何学世界として樹立され、それが後の制作を強く誘導することになった。事実、小さな道具から巨大建造物まで、直行三次元空間が組み込まれている。ところで人間の身体や人間の生活は、そうした直行三次元空間にすっぽりと納まるようなものなのだろうか。それらは直行三次元空間で、もっとも生き生きと能力を発揮できているのだろうか。
カオス力学の定式化する幾何学では、次元が整数次元になることを疑問視し、次元というのはもっとも複雑なものであることが語られ始めている。つまり3,12次元、3,26次元のようなものが現実にありうることが語られている。このことは、たとえば複雑な立体の表面積(二次元量)を決めようとすると、面積を決めることのできない領域が残り、その未決定の領域が無限量になるという手続き的な操作で半ば必然的にでてくる。この事例では、二次元の次には三次元が来るのではなく、二次元と三次元の間には、整数次元には解消できない多くの次元があることになる。そうだとすると生命体や身体を三次元で扱う必然性はなく、また三次元では生命や身体にふさわしい捉え方になっていない可能性が出てくる。そのとき直行三次元空間の家屋のなかで育つことは、気がつかないままに背中に雨戸をくくりつけたような育ち方になっている可能性もでてくる。そしてこれはおそらく事実に近いのである。
制作の場面で、人間の行為は身の丈に留まることができず、かつどのように身の丈を超え出ていくかについては、確定されておらず、多くの選択肢に開かれていた。だが現実の制作物の系列は、快適性や利便性に著しく収約されていく。これは人間の本性上やむないことでもある。そのことは環境設計、環境設定にさいして、人間にはすでに貧困な選択肢しか残されていないような状況が出来上がっていることを意味する。このとき環境内にモデルケースのようなかたちであれ選択肢を増大させることは、文明や生活のオールタナティヴな選択肢を増やすだけではなく、どのようにすることが問いへの豊な取り組みであるのかを同時に理解させるようなものとなる。これは実践課題であると同時に、問いそのものへの模索という哲学的な課題でもある。
システム・デザインの課題指針を、環境デザインに関連付けて設定すれば、以下のようなものとなる。
(1)現状の環境設定は、十分に豊な選択肢があたえられているとは言えない。つまり既存の選択肢の中で、開発ではなく保存を優先するという発想も、現状での不備は科学技術の改良によって克服されるというエコ技術の発想も、狭い選択肢の中から選ばれたものである。むしろ環境内に、たとえモデルケースのようなものでも、より多くの選択肢を設計することが課題となる。
(2)環境問題への対応は、個々人の日々の生活から立ち上げられるものである以上、個々人の創意を誘導し、生活の充実を同時に図るようなものであることが望ましい。すなわち選択肢を増やすさいに、環境問題だけの解決が図られているわけではない。環境問題への技術的な対応だけであれば、さまざまな方途がある。どの方途が選ばれるかは、幾分かは個々人の価値観に依存する。その価値観の多様性を認めた上で、個々人の創意や生活の充実を図るような選択肢の設定を課題とする。
(3)環境問題への対応が、たとえば個々人の健康の増進に同時に寄与し、個々人の能力の開発に同時に寄与するようなものであれば、そのような選択肢の設定は、二重課題となっており、たとえば能力の開発に寄与することがおのずと同時に環境問題への対応となる、というような事態が出現する。このときたとえば無邪気に遊ぶことが、同時に能力の開発であり環境問題への対応でもあるというような、間接的問題解決の回路を作り出すことができる。間接的問題解決は、つねに配慮されねばならず、それは哲学の伝統で言えば、問題を解決するというより、気がついたときにはおのずと問題が解消されているという事態に対応する。ちなみに環境問題は、生活形態と生活の実践そのものにかかわっているのだから、日々の意識的な努力によってだけでは、まさに環境問題によって個々人は息苦しくなる。環境内での生活は、主要には身体と行為にかかわり、身体の可能性と行為の可能性を拡張する方向での対応が必要となる。
(4)科学技術は、それ自体の内部に多くの多義性と展開可能性を含む。自己組織化の科学やカオス力学は、その典型であり、科学技術そのもののなかに多くの可能性が潜んでいる。たとえば重力というとき、体験される重力に対して定式化できるのは1/3 程度であり、光は体験される光に対して1/4程度しか定式化できない。つまり科学技術の内部にさらに選択肢を開くように環境や物の設計を行うことができる。