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浮遊する島

河本英夫

 島は疑似閉鎖系であり、天然の閉鎖系である。歩けばただちに果てに当たる。果ての先は海である。果てを歩き続ければ、出発点に戻る。あてどなく歩き続けても、出発点に戻る。どこかに向かっていくわけではない。どこかに向かいながらも気が付けば、到達目標の周囲をぐるぐる回っていることはしばしば起きる。それはカフカの『城』である。閉鎖系は、むしろ自動的な動きの成果であり、結果である。これを環境のモデルとしたい。
環境は、個体を取り巻く周囲の世界である。地平線や水平線、さらには山並みを含んで円形に周囲を取り巻くものが、環境である。環境は個体ごとに異なる。そのため個体は、生態的地位をもつ。どのような個体であれ、気づいたときにはすでに環境に住まう以上、環境は作為的に取り換えの効くようなものではない。生きていることにともなう世界、それが環境世界である。環境は認識主観に対置された対象の総体のようなものではない。認識主観そのものが環境のなかで形成される以上、認識主観に対置されるのは、それが形成された後になって、当初の場面に設定されたある種の認識論的倒錯である。
環境は、自然と文化と歴史の混合体である。人間の力量程度ではどうにもならないものは自然に分類され、人間の営みの刻印が残るものは文化であり、さらに自然の履歴と人間の営みの蓄積が歴史と呼ばれる。人間の行為の延長上に自然を代替する営みが「技術」であり、自然の延長上にはなく、また文化的な蓄積がないものは、「仮想現実」である。仮想現実のうち現実性の起源を記すものが「神話」と呼ばれる。起源そのものを年代記として知ることはできない。現実性には起源の痕跡は残るが、起源そのものは表れることはない。起源は歴史の中にはない。そのためここに神話が必要とされる。イザナギ・イザナミが国造りのさいに3番目に産んだ島、それが隠岐の島である。

1 隠岐の輪郭

 隠岐の島は、浮遊する。日本海には、潮の満ち引きはほとんどない。海底まで90メートルから70メートルと浅い海である。隠岐の島が浮き沈みしているのではない。氷河期には両極の氷が増大し、海面が下がる。そのため一時的にユーラシア大陸と日本列島は地続きになる。そして温暖化とともに海面は上昇し、隠岐の島は孤島になる。さまざまな推定値はあるが、海面の高さは氷河期と温暖期では、120メートルも変動すると言われている。およそ10数万年単位の周期で、隠岐の島は浮遊を繰り返している。直近の氷河期が終わったのは、1万2000年前だと言われている。
島は、火山の噴火で盛り上がったものではない。島には起伏はあるが、火山にともなう高い山はない。八丈島のように火山で盛り上がった島ではない。最高度の山(大峰山)でも、600メートルほどの高さである。水も十分にあり、ダムもあり、いたるところで水田が作られている。日本海の暖流と寒流が入り込んでいる場所であり、海産物は豊富である。冬の寒さは一時的に厳しい。だが生活全般は、どちらかと言えばおおらかである。
隠岐の島には大陸からも日本列島からも、多くの流入があり、多くの流出がある。だが交易の拠点というわけではない。拠点として広がっていくための面積も人口もない。むしろ「中継地」なのである。九州から荷物を京都に運ぶさいに、西回り航路の風向きの待ち受けのための港である。港に立ち寄り、水と食料を補給し、風を待ったのである。荷物を運ぶ者たちは、日本全国の文化を伝えていく。隠岐の港は、スクランブル交差点のようなものである。
もう一つ隠岐の文化には由来がある。聖武天皇の時代(720年代)に「遠流の地」と定められて、文化人、行政マン、政治家が流されてきた。約3000人と言われている。島人にとってみれば、彼らは一般に教養人であり、多くの文化が持ち込まれてきた。若狭地方(福井県)との交易は盛んだったので、京都の朝廷から見れば、隠岐の島流しとは、「簡単には帰れないところに行って、しばらくおとなしくしていろ」という程度の内容であったと考えれれる。放置できないものを風待ちのように一時的に係留する場所というのが、島流しのモードである。
これに対して、佐渡島には犯罪者、思想犯が流された。日蓮も世阿弥も流されているので、現代的に言えば、騒乱罪も含めた思想犯が多かった。犯罪者も含まれているが、金鉱堀のような組織的な作業に従事できるほどの社会性がなければならない。思想犯とは、自分の表現や思想に性急な社会性をもたせようとするものである。個々人の信念に留まる限り、どのように過激な思想であろうと、思想犯ではなく、変わった人に留まる。
八丈島には、強盗、殺人、放火のような凶悪犯が流された。宇喜多秀家のような戦争犯罪者も流されている。そもそも生き抜くことが難しい環境である。凶悪犯罪者は容易なことでは「人が変わる」ことはない。しかしいずれの場合でも、島の女たちにとっては、都会のイケメンの供給である。
 隠岐は、島後と呼ばれる最大の島と、島前と呼ばれる相対的に小さな3つの島(海士町、西ノ島町、知夫里町)からなる。いずれも幾重にも入り江が入り組み、砂浜は見当たらなかった。何度か氷河期を経ているせいか、少しでも高い場所は氷によって削り取られ、やがて波に洗われて絶壁のようになり、入り江となったところは良港となっている。
地域として見れば、1963年には隠岐諸島が大山隠岐国立公園に指定され、2009年には隠岐諸島が日本ジオパークに認定されている。さらに2013年は世界ジオパーク(「隠岐世界ジオパーク」)に認定され、2015年11月にはユネスコ世界ジオパーク(隠岐ユネスコ世界ジオパーク)に認定された。
島の周辺には、突き出た岩のようなものが残り、観光名所ともなる。削られて、削られて棒のようになった岩が、いくつかある。海面より20メートルの高さまで残り、その先端に夕暮れの太陽がちょうど乗っかかるように落ちかかると、巨大なローソクのように見える。この風景は、一日のなかで、時間帯としては20分程度の長さであり、この風景が実現するためには、夕方に雲がかかってはならず、太陽が海に沈む季節でなければならない。
訪れたときには秋雨前線が中国地方にかかった季節だったが、まぐれ当たりのようにこの岩の先端に太陽が下りてきた。70名の遊覧船の満員の乗客に、悲鳴に近い歓声があがる。息をのんで待ち構えているものが、ちょうどいまという感じで出現したのである。
 稀な瞬間があり、長期間の自然の履歴が、たまたまというかたちでごく特殊な装いをもつことがある。このローソク島も5万年も経てば、どこかに消えてしまうのであろう。この岩の近くにも、第二、第三のローソク島を予感させるものがある。数万年後には、ここに再度奇跡的な瞬間が出現するかもしれない。この時間の長さは、人間の生活感覚の身の丈を軽々と超えてしまう。その身の丈を超えた「たまたま」が、いま眼前にある。この落差が人間にとって、「置き換えの効かない体験」となる。

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(ローソク島)

 島後の山は一面杉に覆われており、杉のことだから数百年は維持される。正確な計算値はないが、1200年程度は生き続けるのかもしれない。そのなかには人間の想定を超えたような杉も出現する。稀に見る事態が、自然の偶然のなかに出現する。この場合には、これは「いったいなんなのだ」という理由を超えた驚きであり、起こりようのないことが起きるという人間理解を軽々と超えた事態である。
 樹齢800年の杉の樹ということであれば、珍しいことではない。根元から何本にも分岐した灌木のような杉も珍しいことではない。それでもなお何か特殊なことが起きるのである。杉の木の下に設置された説明のためのパネルでは「乳杉」(ちちすぎ)と呼ばれている。枝分かれした枝の一部が、地面の方に伸びて、宙吊りとなり、「たれ乳」に近い姿となっている。この杉のある一帯は、崩落地のため一面は固い岩盤となっており、岩盤から水を吸収することは難しい。そのため枝の一部を下方に伸ばし、大気中の水分を吸収しているようなのである。確かに杉の生え際は、湿気に包まれている。岩の間から冷やされた空気が立ち上り、峠を超えた暖かい空気が混ざると霧となり、大気中を漂っている。このあたりは杉のなかでも雪が積もっても枝が折れないウラスギであり、日本海側に残る杉の多くは、ウラスギである。冬場の雪のために、杉はすがたを変える。枝が下向きに伸びることはしばしばある。その一つが「たれ乳」である。道路そばから立ち入り禁止になっているため、それに触ることはできない。

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(乳杉)

隠岐の島の各町には、一つ以上の神社があった。言い伝えも多く残されている。小さな祠のようなものから、押し出しの良い立派な山門をもち、細かく手の入ったものまで神社も多くあり多様である。
 人間の営みは、ほとんどが思うようにはいかず、すっと進まないのが実情である。漁に出れば急に海が荒れる。大雨が降れば、崖は崩れる。実りの秋になれば、台風がやってきて水田の稲は絨毯のように倒れてしまう。思うようにいかないときには、ひと時、間をとり、粘り強くやるしかない。農業も漁業も各種職人も、ほとんど難しい仕事をしている。だからうまく行ったときには感謝し祝い、うまく行かないときには祈り、願う。自分の力ではどうにもならないもの、身の丈を超えたものには、祈らざるをえない。
そして身の丈をこえたものへの対応の仕方は、身の丈を超えたものへと向かって、自分の行為とともに「なんらかの委託」を行うことである。人間が意識をもつ存在である以上、そして意識を用いることだけでは現実に変化をもたらすことが容易ではない以上、この委託は、最後は「信じるしかない」。この委託のかたちはさまざまであるが、多くは自然神や各家族、各地域の「守り神」のかたちを取る。「苦しいときには神頼み」である。これが第一の神のモードである。
これは生活上の心のモードと呼ぶべきもので、多くの物語が語られ、そのまま教訓となる。荒波が祈りによって静まったとか、雷鳴が祈りによって過ぎていったとかである。身の丈を超えたものには、身の丈を超えたもので対応する。これが対応になっているかどうかは、誰にとってもわからない。そのため物語りとなる。私の鳥取の実家にも、隅っこの方に小さな祠があった。誰がいつ建てたものかはわからなかったが、小さい頃はその陰に隠れてよく小便をしていた。
 こうした身の丈を超えたものへの対応のモードとは異なり、地域の支配や行政の正当性を意義付けるように、大掛かりな物語が作られることがある。各地域には、一の宮が置かれ、地域の安定と繁栄を願い、それとともに行政の「正当性の由来」を示すものになっている。これが第二の神のモードである。隠岐の島では島後の「水若酢神社」がそれに相当する。黒松が周囲を囲み、近くには多くの古墳がある。通り道は蜘蛛の巣が張っているほどだから、ほとんど誰も近寄らないのだが、「前方後円墳」のようである。
 伝承によれば、景行天皇の第5子、大酢別皇子は、朝廷から派遣され、隠岐の別の酢の神になったとする説があり、また島後の僧侶一閑が室町時代に記した『伊未自由来記』によれば、次々と中央から隠岐にやってきて、土地の巫女神を娶ることで祭司権をもち、司祭者として隠岐の支配者となったとある。中言神は、おそらく中央からの指示を伝える司祭者であり、農業技術の導入を行ったとされる。このとき神社は、地域行政のための由来を説くものであり、日常眼の見える形の行政権の象徴なのである。土地の巫女神を娶るところが、地域との融合を示唆する。
 こうした物語は、いまだ世界観レベルの「説明」にいたることはない。現実社会の移り行きと、現に行われている行政の由来を系列立てて伝えてはいるが、一切の人事を超えたところから「人間一般」に関与するほどの超越神は、どこにも登場しない。そこで語られていることは、哲学ではなくむしろ歴史である。世界観レベルの世界の成り立ちを解き明かすような「絶対超越」は、おそらく人間であることの「限界」と対になったものであり、超越神は人間であってはいけない。そこへと向かうほどの物語は、少なくとも隠岐にはない。
 第三に理神論に見られるような「万物の起源と万物への超越」を基本とする神がある。このとき神は現実性のきっかけをあたえるだけになる。それを大袈裟な言葉で言えば、「創造」となる。創造は不連続な転換である。そのため自然史を断ち切り、歴史を断ち切る。歴史の最小要件は、事象の間には因果関係があるという事態である。因果関係は際限なく続く。それが因果である。だが因果関係の「開始」だけは、カテゴリーが異なる。因果関係の延長上に、因果連鎖の開始を語ることはできない。しかも同時に現実性の認識の延長上には、因果の開始を知ることはできない。
一切の万物に超越するものは、仮にそれがあったとしても、現実の総体にとっては構造的に「測定誤差」である。あってもなくても「現実の総体」に変化が及んでいるのか、及んでいないのか判定することはできない。万人にとって、この判定不可能性は当てはまっている。否定もできなければ肯定もできない。それが理神論の神である。ライプニッツの抱いていた戦略的世界像である。
 第四に分類されるのは、「絶対超越」である。日本文化からすれば、「絶対超越」(ユダヤに代表される一神教)は、不思議な仕組みをもっている。人間の経験の延長上ではどのようにしても絶対超越には届かない。だからこそそれを欠くことはできない。それを捨てれば、人間であることを止めることになるからである。こんな位置に超越神を設定してしまえば、国家も領土も測定誤差のなかに入ってしまう。一切の国家も領土もなくても、この民族は生き延びる。これは人間の限界とそれの向こう側という仕組みに支えられている。そのさいの人間の経験の仕組みが、私にはよくわからない。仕組みは理解可能である。だがそのさなかでの経験の動きをとることは容易ではない。
 旅行ではしばしば起きることだが、隠岐の飛行場で降り、レンタカーで手続きを行っていると、次の客として順番を待つ一人の男がいた。私たちは、レンタカーを借りて、遅い昼食に隠岐名物の一つである「ササエカレー」を食べ、繁華街をひとしきり様子見しながら、島後の南西端に位置するホテル「海音里」(うねり)に向かい、ホテルで手続きを行った。そのときもこの男が次の順番を待つように同じホテルにいた。ただの偶然である。挨拶したり話しかけたりするような雰囲気ではない。夕方になると数少ないホテル客のなかで、この男はただ一人、灯りを半分以上消したホテルのレストランで、黙々と夕食を食べていた。
取材のために隠岐の島を訪れたという雰囲気ではない。というのもこの男は外の景色はまるで見ていないのである。またレジャーや休養のためにやってきたという風情ではない。この男にはどうにも持って行き場のない「緊迫感」のようなものがあり、ときとして2、3度出くわしてしまうと、その緊迫感が残ってしまうような雰囲気であった。
翌日は早朝早起きして、海士町へ向かう遊覧船に乗った。2等客船で、すでに乗船した乗客たちは、思い思いに寝転がっていた。その隙間を見つけて、場所取りをするつもりであった。そのときあの男が前方にすでに座っていた。これもただの偶然である。それ以来私たちは、この男を「あいつ」と呼ぶことにした。同行したエコ・フィロソフィーの研究助手による命名である。「あいつ」は、座禅を組むように2等客室に座り続け、異様な雰囲気をまとっていた。それ以来、新たな訪問地に着くたびに、「あいつ」がいないかどうか周囲を探すことになった。「気がかりな存在」は一定頻度で出現する。本人は可能な限り目立たないように暮らし、移動している。ただそのことが「気がかり」なのである。

2 流刑地

 隠岐は、中央行政機構からみたとき、ある種の「流刑地」である。だがカフカの「流刑地」に見られるような「処刑場」ではない。牢獄は、社会である限り、どのような社会にも存在する。犯罪者を社会から隔離するための装置だからである。だが流刑になったものが、牢獄に閉じ込められていた記録は、ほとんどない。里人と暮らしていたというのが実情である。ところで京都に比べて、隠岐が暮らしが厳しいとか、暮らしにくいということは考えにくい。コメもあり海産物に恵まれているから、現在では観光地となっている。「観光地への遠流」とはいったい何なのだろう。中央政府からすれば、場所的な左遷である。職位を剥奪し、名誉を棄損しているのである。しかしそこに暮らす里人にとって、そんなことはどうでも良いことである。
そうなると本人の気持ちの持ち方次第のところが生じる。そしてこれがなかなか難しいのである。不当な扱いを受け、隠岐に流されてきたと思い続けるものは、やがて来るはずの帰還を願いながら、地元への貢献を糧に、ご赦免を願い続ける。その間井戸を掘り、灌漑を行い、多くの和歌を残し、多くの仏像を彫る。里人の女との間には、何人もの子供が生まれる。しかし帰還が許されると、その子たちのほとんどは島に置いていくしかない。稀に娘を都に連れていくこともある。これは小野篁(たかむら)の事例である。
 小野篁は、唐に向かう自分の船が差し替えられたことを不服として、遣唐使の職を辞してしまう。何度かの遣唐使派遣には乗船したが、いずれも暴風雨に遭い、そのまま引き返している。そして三度目の機会に病気を理由にして乗船を拒否し、当時の嵯峨上皇の逆鱗に触れ、島流しにされた。篁は、不当な扱いを受けたと感じていたのだろう。当時の身分は参議であり、現代の役職に当てはめれば、外務省中国局の副局長という役職である。
役人が流されたのであれば、それだけでは記録にも歴史にも残らない。篁は、多くの和歌を詠み、仏像を彫った。また池や井戸を掘った。金光寺権現堂にあるご本尊の仏像は、篁の彫ったものだとされている。篁の作だとされる「世の塵に染まぬ色こそ貴けれ しづが伏屋の軒の白梅」という短歌は、とてもうまいとは思えないが、手すさびの歌にはなっている。隠岐の暮らしに溶け込み、最大限の貢献をしながら、なお帰還を待ち続けている。篁は、おそらく誰にとっても危険な人物ではなく、実務的な「上級流人」だと言ってよい。都に返しても、それによって波風が立ち、大きな影響がでるとは考えにくい。
 ところが上皇や天皇が流された場合には、事情が異なる。ことに政変の首謀者は、それに味方するものも本土に残存しているのだから、原則帰還はないと考えたほうが良い。天皇家による朝廷と武家たちの政府である「幕府」は、はっきりとした二重行政システムである。日本国憲法では、天皇は国の象徴になっているが、行政府の力が弱まると、天皇が前景に出るような仕組みにもなっている。天照の神話時代から、天皇が直接行政を取り仕切った仕組みはない。歴史上何度か例外はあるが、天皇はつねに行政と連動するカップリングの一方である。その意味で行政当局から見れば、天皇とはシステム的には「触媒」のことである。
この朝廷と幕府の二重権力の仕組みは、征夷大将軍の任命をつうじて徐々に形成され、源実朝は朝廷内の「右大臣」にも任ぜられ、幕府は幕府で実朝の後継将軍に、後鳥羽上皇の皇子を迎えて「宮将軍」とするような構想を出していた。朝廷と幕府は、相互に他を支えあうことで、二重権力システムはしばらく安定していた。だが幕府側では、源実朝は甥の公暁に殺害され、朝廷内裏守護にあたっていた源頼茂は、西面武士に襲われて討ち死にし、そのさいにも火災によって多くの建物が失われた。この建物の改修には、莫大な費用を要するが、東国からの支援はまったく得られなかった。
政変が起きる3年前には、朝廷と幕府は、安定を取り戻す仕組みもなく、こじれ切っていた。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は、執権・北条義時の討伐を宣言し、山田重忠をはじめとする有力御家人を動員して、畿内の兵を招集して乱を起こした。いわゆる「承久の乱」である。後鳥羽上皇は、刀にもこだわりがあり、当時の刀工のなかから24人の名人クラスの職人を集め、刀を作らせている。そのなかには歴史に残る名刀もある。朝廷の大改革も進めていた。天皇・上皇のなかでは剛腕であり、藤原定家の『明月記』にはしばしば剛腕ぶりが言及されている。
しかしこの乱は二月ともたず、幕府19万人の大軍に圧倒され、後鳥羽上皇は隠岐に島流しとなった。島流しの直前に出家して法王となっている。後鳥羽上皇41歳の時である。後鳥羽上皇だけが流されたのではない。協力した順徳上皇は佐渡に流され、他に土佐に流されたもの、但馬、備前に流されたものもいる。そして夥しい数の朝廷側の公家や公家武士は、六条の河原で首を切られ、処刑された。
承久の乱は、後鳥羽上皇にとってただの惨敗だったのである。戦に敗れて逃亡したものは、どこまでもどこまでも追跡され、捕まると処刑された。逃亡の途中に自害したものもいる。ひとたび戦いで勝利したものは、どのようなかたちであれ、後の反乱の芽を摘むために一切の容赦はしない。
 そして後鳥羽上皇は、隠岐の西ノ島(海士町)で19年の歳月を過ごし、そこで没している。取り返しのつかないほどの敗北である。やり場のない思いが消えることはなかったとも思える。すでに選択肢はほとんどない。なにかをやろうにも手段がない。隠岐の19年は、途方もなく長い。時々好きな牛相撲を見て気晴らしになることはあっても、我が身に及ぶ激変に対応するようなものはなかった。隠岐には、後鳥羽院の書き置きがいくつか残されている。

たとえ魔縁になりたりとも、なにとなき小事などは、ゆめゆめすまじき也。返々まれまれ身にとどまりたる善根功徳をうしないて、手をむなしくてあらん事のかなしきは、なににもすぎたらんずる也。たとえば、ひんくなるものの、おのずからもちたるたからをうしないて、大事をいとなむがごとし。
田村二枝『隠岐の後鳥羽院』15頁

 この事態は、終生変わらなかった。いっさいの財産を失ってしかも大事をなしたいという思いは変わることはない。自分の思いと現実性の条件の隔たりが大きすぎて、どうにもならないのである。ただし隠岐の生活が、困窮していたとも思えない。この地域の豪族村上家がなにくれとなく生活を支え、他の近接する島には移動することができた。後鳥羽上皇の居住跡地の近くに船着き場がある。この船着き場は、現在では島の中ほどにあるが、当時はそこが海岸線だった。船を係留するための杉が残っている。

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(後白河上皇住居跡)

 後に居住地跡の近くに建てられたのが、「隠岐神社」である。春秋に例祭が行われ、上皇の短歌「我こそは新島守よ 隠岐の海の 荒き波風心して吹け」が、曲と振りを付けた承久楽として奉納されている。5年ごとの式年大祭では、隠岐神社から御火葬塚までの神幸祭が行われている。
 後鳥羽上皇の事件から、110年ほど経った頃、もう一つの事件が京で起きる。鎌倉時代の末期であり、朝廷と幕府の二重権力構造にも、ほころびとねじれが来ていた。朝廷側の天皇の継承は、兄弟の多い分だけ、簡単には決まらなくなる。そこで暫定的な取り決めとして、後伏見天皇の系統の「持明院統」と亀山天皇の系列の「大覚寺統」の二系列で、交互に10年単位で天皇を出し合うというような取り決めが行われていた。
後に隠岐に流されることになる後醍醐天皇は、自分の子供を天皇につかせることができなかった。天皇に即位するときから、自分の次の天皇は決められており、この皇位継承プランを鎌倉幕府も承認していた。鎌倉幕府も、「持明院統」系列の将軍が職についていた。そこで武士の間でも、幕府側につくか、反幕府側につくかで、入り乱れていた。情勢はさまざまな思惑が飛び交うようなスクランブルだった。
 正中元年(1324年)に後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、六波羅探題は、天皇の側近を処分する。後醍醐天皇、36歳のときである。その後も後醍醐天皇は、倒幕計画を何度も立て、寺院勢力を味方につけながら画策するが、これも六波羅探題が知るところとなり、後醍醐天皇は、三種の神器をもって女装して京都を脱出し、笠置山で挙兵する。武士は武士で、楠木正成は倒幕に加担するが、足利尊氏や新田義貞の当時の鎌倉幕府軍は、後醍醐天皇を捕縛する。先例にならって後醍醐天皇は謀反人とされ、正慶元年(1332年)に隠岐の島に流されることになった。後醍醐天皇の隠岐での居住地が、「隠岐国分寺」であり、強固な警護が付いていた。

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(隠岐国分寺)

約1年後、後醍醐天皇は、隠岐を抜け出して、伯耆の船上山で挙兵する。そのさい後醍醐天皇の島抜けと挙兵を支えたのが伯耆の豪族名和長利である。武士でも反幕府の勢力が全国に残り、後醍醐天皇を担ぎ出す機会を狙っているものたちがいた。
これを平定するために鎌倉幕府から派遣された足利尊氏は、逆に後醍醐天皇に味方して丹波で反旗を翻し、幕府直轄の六波羅探題を攻略した。同じころ東国で挙兵した新田義貞は、分倍河原の戦いで勝利し、鎌倉を陥落させてしまう。時の執権、北条高時ら800人余りは自刃し、鎌倉幕府は消滅する。
天皇家の権力争いに、武士も入り乱れて離合集散を繰り返すようなスクランブルが実現した。後醍醐天皇にとってそうした激動の時代のなかで起きた、寄り道のような隠岐の島流しであった。その後、後醍醐天皇は自分で権力を掌握し、自分で行政を行うという「親政」を行った。歴史上極めて稀なことである。さらに南北朝という朝廷が二つに分かれて維持されるという前代未聞の例外的な時代が続く。その中心にいたのが後醍醐天皇だった。

3 無いものはない

 地方創成を語るさいに、島前の海士町は、一つのモデルケースとなっている。そのとき掲げたスローガンが「無いものはない」という語であった。海士町には、大都市で期待されるようなものは何もない。洋服の種類もない。コンビニもない。シャレたカフェもない。ディスコもない。こう並べてくると「無いものはない」は、ある種の居直りに聞こえる。ただしこうした便利で快適で必要と思われるものが何でも揃うような大都市には、逆に何かが欠けている。
いったい何が欠けているのだろう。たとえば「経験の広さ」という語を設定してみる。大都市の生活のなかでは、たとえば庭先で、芋の栽培を行った経験のある人は、おそらくほとんどいない。田植えをし、稲を刈った経験のある人もほとんどいない。日の登る前に、「刺し網漁」に出たことのある人もほとんどいない。雲の流れをみながら、大雨になるのか、ただ通り過ぎているのかを感じ取る機会に立ち会ったことのある人もほとんどいない。
高度に機能化した社会では、あらゆるものが取り揃えられているようにみえながら、多くのものを捨ててきたから機能化しているという面には気づきにくい。快適で多くの選択肢に開かれているように見えながら、経験はとても狭いものになっていると感じている人は、潜在的にはかなり多いのではないかとも思える。知的選択肢は多いのに、経験が狭いのである。
 個々人の経験の多様性という面で言えば、さまざまな経験をもつひとたちのそれぞれの多様性を持続可能なかたちで形成していくことは、言葉では美しく聞こえるが、実はこれも容易ではなくなっている。またそのためには、どうしたらよいのかも正直わからない。仕事をつづけながら、時としてリセットしていくことが必要となる。私個人で見れば、哲学研究者として長年やってきた。だが年齢的に、能力、体力の限界があり、いつまでも同じことはできない。研究者が同じレベルの研究能力を長期間維持することは、ほとんど無理難題である。個人的には、理論哲学ではなく、歴史研究に軸足を置かなければ、体力的には間に合わなくなっている。能力ではなく、経験の蓄積に力点を移す。
そうすると一般にリセットの場所が必要となるが、どこかでそれを用意しておかなければ取り掛かることさえ難しい。またリセットの場所が多く用意されているとも思えない。こうして「ただ生きているだけ」ということが起きる。「ただ生きているだけ」でも悪くはないが、どこか工夫が足りない。「生きる力」が存分に活用されているとは思えないのである。こうした課題は、実は潜在的には多くの人が抱えている問題ではないかとも思える。アイディアだけではなく、現実に実行するための場所が必要なのである。
 地方創成とは大都市圏とは異なるかたちの地域ごとの選択肢をもち、それらを持続的に展開可能なかたちにすることである。だがこれが容易なことではない。後白河上皇が晩年をすごした海士町は、人口減少が続いた。平成の大合併のさいに抱えていた借金は、100億円近くある。財政再建団体に指定される直前まで来ていた。そこから多くの工夫がなされた。海士町唯一の港である菱浦港には、町民が気軽に集まれる場所をつくり、そこから情報を発信していく試みがなされた。
ごく少数でも良い。人が入り、起業し、なにかを行い続ける。当初は、信じられないほどのささやかな試みである。それがしばらく持続可能になれば、同時に選択肢を広げる。現在はっきりと判別できるいくつかの企画が進行している。そして海士町は、人口増加に転じたのである。
「巡の環」(株、代表阿部裕志)は、「海士五感塾」を開き、大手企業の労働組合を中心に、人材研修プログラムとして活用されている。地元漁師の話を直接聞く機会を入れたり、観光業の工夫を入れたりと、体験的な経験に触れ、それに響応するような場面が導入されている。情報を知ることと、体験することの間には、極端に大きな隔たりがある。この隔たりを埋めていく作業なのである。
また「めぐりカレッジ」は、地域コーディネータを要請するプログラムである。グローバル化していく世界のなかで、可能性としてはグローバル化していく方向と、地域の固有性を追求していく方向は、いずれも欠くことができない。そしてこの両方向は論理的に折り合わせることは難しい。一般性・普遍性から降ろしてくれば、個々の地方は特殊な問題となり、個々の現場から立ち上げるだけでは、あくまで特殊事例に留まる。普遍と特殊の間に「個別」があるはずなのだが、この個別がどのようなかたちになるのか、論理的、数学的には決めることができない。
実はこの問題は、上から降ろす(トップ・ダウン)のか、下から持ち上げる(ボトム・アップ)なのかを競うような仕組みでは、うまくとらえられないことを意味する。トップ・ダウンもボトム・アップも、観察者から眺めたやりかたであり、外から物事を見ているのである。この外から見た位置から、個体に到達する事態を描こうとしたのが、ヘーゲルの論理学であり、壮大でほとんど無駄な記述を作り上げたのである。つまり普遍と特殊の間に「個体」が出現する仕組みを、特殊が自己規定を獲得して自己個体化する仕組みとして考えようとした。いわば特殊の自覚が高まるように描いたのである。こんな仕組みが当てはまる事象は、ほとんどない。
あらゆることに適応可能な一般的な規則は、基本的には存在しない。ことに人間を含む事態には、機械的な規則の適応はできない。そこで一般的な規則をとりあえず、目安として頭に入れておく。そこから個々の問題解決に取り組んでみる。個々の問題が複数のやり方で解けるようにプロセスが見えてきたところが、分岐点である。この分岐点のところで、さらに前に進むことのできる選択をする。そこでは展開可能性だけが、指針となる。
このとき持続可能な展開可能性だと見えているものが、「普遍」であり、その本体は、行為のさなかで行為を誘導する「イメージ」である。個々の手続き的経験のなさかで、普遍はそのつどイメージとして獲得され、かりにこれが数学的な定式化を受けるのであれば、原型的なイメージとなる。数学的な定式化は、とても有効な比喩なのである。またプロセス総体に対して数学的定式化が説明をあたえるとすれば、数学的、論理的定式化はプロセス総体の影になっている。
このふたつの方向をつなぐ仕事が、「地域コーディネータ」である。こうしたプログラムをつうじて、個々の地域課題にどのようの取り組むかを実践的に習得するのである。当然ながら地域の声を聴きとらなければならない。インタヴューを行いながら、それを冊子に編集する仕事もこなしている。これらは地方創成に携わる人に向けた人材養成プログラムである。
他方、実際に海士町でも仕事を創り出さなければならない。たとえば特売品の開発であり、サザエカレーも良く売れたアイディア商品である。乾燥ナマコ工場建設と乾燥ナマコの生産は、2007年に島の後継者の仕事場として、町長が議会を説得して開始している。農業のつらいところは実質的に季節労働になることである。忙しいときには信じられない忙しさだが、仕事がないときには毎日暇である。そこで「マルチワーカー」という仕組みを導入している。特定人材派遣法をうまく活用して、春には岩牡蛎の出荷、夏は宿泊業、秋には海産物の冷凍処理、冬にはナマコの出荷と継続的に仕事があるような仕組みでできるだけ多くの人を雇用できるようにしたのである。
 また教育でも、新たな試みを行っている。隠岐の島には高校がひとつしかない。正式名称は、「島根県立隠岐島前高等学校」である。生徒総数160名であり、島外の生徒が79名で全員が寮で生活している。そのうち県外から来ている生徒が66名で、出身地は北海道から宮崎までと幅広い。授業科目も個性的で、「夢探求」(通称夢ゼミ)という授業では、地域の課題を取り上げ、問題解決型のアイディアと討論を積み上げる仕組みを導入している。

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(隠岐國学習センター)

高台にある高校に向かう坂の入り口に「隠岐國学習センター」が置かれている。高校の補習授業と個々人の学習目標を明確にした指導を行っている。たとえば一般的に日本全国にある島の人口は減少していて、後継者不足になる。ところが人口減少は島だけの問題ではなく、日本全体の問題でもある。それぞれの理由はかなり異なるが、身近なところから課題設定を行い、そこから順次次元をあげて、より複雑な問題を考察する仕組みを導入している。
ここには地域再生の一つのモデルがある。一般的なモデルを適応しないこと、現在の地域社会の課題を取り出して、そこから問題解決のためのプロセスの設定を行うこと、さらにはその途上に分岐点のように選択肢を増やしていくことである。ひとつひとつはささやかなものだが、気が付いたときには局面が変わっているほどの変化をもたらすことがある。システム全体を外から観望するようにして、総体を組み換えることは、人間に特有な「革命的倒錯」である。外から変化させるものは、もう一度元に戻しても良く、その転換がなかったということにもできる。システムという点で見れば、経済合理性に貫かれたシステム総体を覆すように変えることは、どこか筋違いである。むしろそれに対しては選択肢を増やすようにサブシステムを断続的に立ち上げることが必要となる。それはシステム総体にとって弾力を増す方向で機能するはずである。

参考文献

今川文雄編訳『明月記抄』(河出書房新社、1986年)
小河原和世『日本の神社 水若酢神社』(DeAGOSTINI, 2015年)
カフカ『雑種』(酒寄進一訳、理論社、2018年)
野津龍『隠岐島の伝説』(日本写真出版、1998年)
田邑二枝『隠岐の後鳥羽院』(後鳥羽院顕彰事業実行委員会、2014年)
田邑二枝『隠岐の後鳥羽院抄』(海士町役場、2005年)
巡の環『あまのききがき』(Vol.1,2009, Vol.2. 2009, Vol.3.2010, Vol.4 2011)
藻谷浩介『里山資本主義』(角川新書、2013年)
藻谷浩介『デフレの正体』(角川書店、2011年)

A fluctuating Island 
Hideo KAWAMOTO



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