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鉄の途

河本英夫

 出雲は、縄文時代、古墳時代の文化的な代表地区の一つである。朝鮮半島を経て、大陸の文化は断続的に入り、独自の産業を形成していた。大和朝廷による全国統一のさいにも、出雲には独特の配慮が見られる。歴史の詳細を確定できない時代だが、現在にも残存するいくつかの資料から、出雲のイメージを描いてみる。産業の中心にあるのは、製鉄である。タタラ製鉄という語で示された製鉄業は、砂鉄から作られた独特の工法をもつ。『出雲風土記』に出てくる「片目の赤鬼」のイメージから、高温に触れる作業をやっていたものがいたということは推測できる。しかも製鉄のような多くの人数を要する作業を賄うためには、生産基盤や働くものの生活を支えるほどの農業技術が準備されていなければならない。また製鉄法から見て、広大な森林が必要である。奥出雲には相当に大きな経済圏が出来上がっていたとみるのが適当である。この製鉄は当時の世界水準で見ても水準が高かった。『延喜式』には、税を鉄の塊で納める記述もあり、豊富な生産量があったことがうかがわれる。
文化人類学者によれば、日本の多神教は水田の耕作に由来している、と言われている。稲には微妙な条件が多く絡む。花の咲くころには微風が必要であり、夏には十分な水が必要であり、水を落として実を引き締める頃には、大型の台風は望ましいことではない。多くの願いが、自然神のかたちで象徴化されている。ところが日本の文化のなかに、鉄文化の神の系列があることが明らかにされている。在野の民俗学者、谷川健一が明らかにしたもので、この系列は、まったく質が異なる。鉄文化は日本各地に入り込んでいる。その代表が、出雲のタタラである。鳥取県の県境にある安来市には、鉄の神を祀る「金屋子神社」があり、南に下って奥出雲に行くと、「目刀保タタラ」「菅谷タタラ」等がある。菅谷タタラは、ごく最近まで運用されており、この仕事の全貌をうかがい知ることができる。

1 出雲の輪郭

出雲に隣接する西側に三瓶山があり、麓には自然博物館や三瓶山の噴火によって埋もれた杉や田畑を掘り出した「埋没林」の公園がある。この小豆原地区には約4000年前の噴火活動で埋もれた巨木群が存在し、「三瓶小豆原埋没林」として国の天然記念物に指定されている。森林がそのまま埋積されたもので、大きなものでは高さ12m、直径2.5mを超える幹が直立している。火山の噴火によって火山灰が山積みとなり、一挙に酸素と水を断ったために、缶詰状態のまま、数千年前の杉が地底に直立のまま保存された。これは世界でも稀なことで、地中の樹木が発見される場合には、根本で折れ巨木の付け根だけが地中から掘り出されることがほとんどである。
地中で巨木が立ったまま維持されるためには、いくつもの偶然が重ならなければならない。噴火にともなう火山灰が薄っすらと積もり、火山の噴火とともに出現した土石流が下流を堰き止めて、流れてくる土石流を堆積させ、地面そのものを嵩上げされて、スギがそのままの姿で埋もれてしまったというのが土壌調査でわかっていることである。
この地区は大雨が降った後、川岸付近で、地中から大きな杉の先端が突き出ていることが報告されており、何か大きな堆積物があることは、かなり以前より知られていた。だが実際に掘ってみるまで、どのような状態なのかはわからなかった。発掘作業は、まさに4000年を掘り返すようなものである。地中に掘って作られた公園は、4000年前の植生を横から見るようなところがある。

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(地底巨杉)

石見国と出雲国の国境に位置するこの三瓶山は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」にも登場する。国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山と共に国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭だとされている。『出雲国風土記』は、地名の由来、伝説等を網羅的に調べ上げた「地域記録」である。奈良時代の初頭(713年)に官命が下され、郡郷名に字をあてること、郡内の物産の品目リストを作ること、土地の肥え具合、名前の由来、古い伝説などをまとめることという通達が出され、それにそって記録が作られた。「風土記」のうち記録が残っているのは5つの風土記であり、完本で残っているのはこの『出雲国風土記』だけである。そこでは三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。
 さらにその西側に、石見銀山の銀を掘り出した跡が残っている。銀は重金属のために、健康にとってはいくぶん危険な物質である。だが希少な鉱山資源でもある。銀鉱山が活発に開発されたのは、戦国時代から江戸時代にかけてである。利権を争うように争奪戦が行われ最終的には毛利がその地を確保している。豊臣秀吉によって「全国統一」の姿が作られて以降、毛利は大量の銀を献上している。
 『古事記』(712年完成)は、『日本書紀』(720年完成)と並んで、日本の起源を記したものである。歴史は、そこに時代編年史が含まれる以上、起源を描くことはできない。起源は突如始まる。人間の能力では、生成のプロセスを見ることができず、生成の結果しか知りようがない。生成のプロセスの開始には、いまだ記録がない。この隙間を埋めるのが、「神話」であり、神話はいずれにしろ終わった後になって、出発点を描く試みである。また統一されてきた大和朝廷の由来から見た「正当性の理由付け」でもある。この意味で、神話はそれじたいは物語であるものの、政治の一つの機能を果たしている。『古事記』も『日本書紀』も、開始の混乱と収束を描く物語である。
 そこにはスターが登場する。そしてスターたちが活躍する現実の舞台が必要となる。国造りによって国土が作られて後、最初の神が出現する。それが天照大神(女性)であり、光と太陽の神である。また高天原が舞台である。高天原が、どこなのかは諸説があり、決め手がない。特定の場所でなくとも、どこかの場所をイメージしていたはずである。天照大神の弟が、スサノウ(須佐之男命)である。またスサノウの6代後の子孫が、オオクニヌシ(大国主神)であり、全国平定の役割を担っている。この二人は、『古事記』の冒頭場面でのスーパースターである。
 スサノウはやんちゃで暴れん坊であり、天照大神の水田を壊して高天原を追放され、さまざまな土地を放浪し、それでも多くの戦いを勝ち抜き、歴史のなかにイヴェント(事件)を創り出していく。困った人たちがいれば、スサノウは戦いを挑んで勝ち抜く。その一つの逸話が、奥出雲の斐伊川でのヤマタノオロチ(八岐大蛇)退治である。川は一般に上流では細く険しく、下流では広く緩やかになる。だが奥出雲の斐伊川は、だっだ広く、ゆったりと流れている。現在では川の両側に桜並木が作られ名所でもある。いくつもの支流が入り込み、ゆったりとした流れになっている。たしかにオロチの出そうな雰囲気はある。

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(斐伊川・ヤマタノオロチ記念碑)

 『古事記』の記述によれば、スサノウが斐伊川の上流にささかかったとき、川の上流から箸が流れてきた。そのもとを訪ねると、老夫婦が娘を挟んで泣いており、老人は出雲の地の守護神でいわゆる山の神だと言う。自分の八人の娘は、毎年オロチに食べられて、残るは一人になってしまった。オロチの姿は、眼は赤く、頭は八つ、尾が八つ、身にはコケ、ヒノキ、スギが生え、身体の大きさは八つの谷、八つの峠を越えわたり、腹は血が滲んでいると言う。
 そこでスサノウは、オロチを退治するための作戦を立て、オロチに強い酒を飲ませて、眠っているところを十拳剣で切りつけると、なにか固いものにあたり、十拳剣の刃が欠けてしまうほどであった。オロチの尾から素晴らしい剣が出てきたのである。これが「草薙剣」であり、スサノウは姉の天照大神にこのことを報告し、剣を献上した。この剣は、後に皇位の印である「鏡」、「勾玉」と並んで、三種の神器となる。
当時すでに、立派な剣を作ることができるほどの製鉄技術があったのであり、オロチを切りつけると斐伊川が赤くなるほど川には鉄分がすでに存在していたと考えることができる。川そのものに鉄分があるのではなく、周囲の山から鉄成分が流れ込み、砂鉄の状態で川底に堆積していたと考えてよい。
 技術では、制作的行為をつうじて制作物となった途端に、誰によって作られたものかは基本的に消滅する。制作物はつねに無名であり、その意味で制作物は文化よりも自然に近い。反復と複製可能性を備えたのが技術である。制作物のなかで、絵画や彫刻には固有名が残る。だがその場合でも複製可能性は残る。そのため贋作が成立する。制作者を留め、それを言葉で再現しようとすれば、つねに一つの比喩に留まってしまう。
スサノウは、八人姉妹の残った一人を娶って、雲南市に宮殿を作ったとある。その地を「須賀」という。こうして物事を言葉の世界、とりわけ名詞に落とすと、人間の営みがことごとく覆い隠されてしまう。その言葉の世界に、さらに特異な言葉の世界が付け足されていく。
スサノウが須賀の宮を作って以降、その地から雲が立ち上がり、そこで日本最初の和歌が作られたと言われている。それが「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」である。言葉が音楽的速度とリズム性を獲得し、言葉の組み合わせが別の原理で作動するようになる。言葉を音楽として使うことは、語の接続運動に快をもたらすことであり、祭祀の打楽器とは異なる語の音楽が形成される。これによって言葉の向こう側の世界はまずます覆い隠されていく。言葉はどこまでも言葉であるが、つねに言葉の向こう側を余韻として残す。だがそれが何なのか、もうほとんどわからなくなる。これは言葉がそれとして自律していき、言葉に言葉が回付していく場面の成立であり、言葉が現実以上の現実になっていく分岐点でもある。
 オオクニヌシは、他の風土記ではオホモノヌシという名で、全国平定の働きを行っている。オオクニヌシはある種の官職名だと考えてよい。出雲のオオクニヌシは、おそらく朝廷と地域の融和の仕事をしていたと思われる。出雲の文化水準、経済水準から見て、争いがあってもおかしくないところに、大規模な争いの跡がないのである。オオクニヌシの元の名は、オオナムジノカミと言い、各地の八十神(ヤソガミ)に何度も襲われ、実際に二度殺され、一度は瀕死の重傷を負っている。その程度のいさかいはあったのだろう。印象として、オオクニヌシは善意の人のようだが、どうにもひ弱で、それでも黙々と働き続ける人という輪郭が浮かび上がる。
 オオクニヌシにまつわる話のなかに、因幡の白兎の話が出てくる。隠岐の島から本土(因幡)に渡りたいと思っていた白兎が、ワニ(サメ)を騙して、一列に並ばせ、総数を数えあげると告げて、並んだサメの背中伝いに移動する。ところが最後につかまり、全身の毛を抜かれて、さらに対応を誤り、全身皮膚病になる話である。塩水に濡れたまま身体を乾かすと、」塩害の植物が枯れるように皮膚表面が破壊される。こうした物語からも、地域の融合のさいには、いろいろ行き違いがあるのだろうと推測できる。また多くの男を騙してきた隠岐の女が、最後にはさんざんな目に遭うというようなことを、物語的なイメージとして活用しているのかもしれない。
そこに通りかかったオオクニヌシが、ウサギの身体を真水で洗い、ガマの穂綿で白兎を治してやるという話になっている。そしてオオクニヌシは出雲に入り、出雲大社を建立するということになっている。しかもその出雲大社は、現行の物より2倍近くあったということなので、巨大な神社だった。おそらく出雲文化圏のなかでの大和朝廷のランドマークだったのである。

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(出雲大社正殿)

2 タタラ

 日本での鉄の生産は、縄文時代末期から古墳時代にかけて開始されたと言われている。当初は鉄鉱石から鉄を取り出すやり方であり、大陸経由の技術であった。鉄鉱石と言っても、花崗岩由来の岩石や宇宙から落ちてきた隕石に由来するもの等がある。鉄は、アルミニウムに次いで地中に多く存在する元素である。しかも特定の地域だけに分布する元素ではない。銅、銀、金に比べて精製が時期的に遅れるのは、精製術が大掛かりだからである。
日本に多く存在するのは、土に混ざった小さな鉄粒であり、さらに小さくなると砂鉄となる。ここから鉄の塊を創り出す作業が、製鉄である。「タタラ」という言葉じたいは、製鉄のための家屋全体についての呼び名であったり、道具の一部である鞴(踏鞴)の呼び名であったり、当てられる文字も変化してきたが、現在ではこの「製鉄法」の名称として使われるようになっている。
 まず山の中から見つかる細かな鉄成分を、泥や混合物を取り除けるようにして、集めてこなければならない。それが鉄穴流しである。やり方は簡単だが、骨の折れる作業である。山際に水路を引き、山を崩して土砂を水路に導き、下手の洗い場に運び、そこからさらに大池、中池、乙池、桶と順次流しながら、軽い土砂を取り除いていく。要するに、ただ比重を使って分けているのである。重い鉄は沈む。軽いほこりや泥は、順次下流に流す。そうなると膨大な泥が排出される。
一般の河川に流し込めば、稲作にも支障が出るばかりでなく、そもそも生活用の水が濁ってしまう。そのためこの作業は、秋の彼岸から春の彼岸に限定して行われていた。それでも大量に泥は出る。そのため再度土を集めて、新たな田畑の開墾に使われたようである。崩した山に土を運んで田畑に作り替えるのである。山を切り崩して棚田に作り替えているところもある。実質的に起きていることは、土壌で見れば、山を崩し、その土地や別の土地で田畑を開墾することだが、その間に土壌に含まれている鉄成分を濾し取るのである。
また鉄の塊を作るさいには、膨大な木炭が必要となる。そのため当初は、場所移動を繰り返しながら、製鉄場所を移動させている。これが「野だたら」と呼ばれている。輸送方法の改善により、特定の場所に製鉄装置を設定する場合が、「永世たたら」であり、高殿を築きそこに固定して作業を継続するようになった。
 こうして砂鉄を大量に集めて乾かし、酸化鉄のかたちになっているものを還元させなければならない。しかしただ還元して放置しておけばただちに酸化が起きる。安定させるためには炭化させておくのがよい。炭素と化合させなければならないが、高濃度の炭素と温度が必要となる。これを効果的に行うために作られているのが、「高殿」である。砂鉄から巨大な鉄の塊までの形成は、膨大な作業である。

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(製鉄粘土容器・高殿)

 安来市にある「和鋼博物館」では、砂鉄から鉄の塊(鉧と呼ばれる)までの製鉄過程が再現され、映像化され放映されていた。係員にビデオ撮影をしたいと申し入れてみたが、この博物館はそもそも日立金属所有の博物館であり、現在では安来市教育委員会が管理している形だが、展示物はすべて日立金属から借りている状態なので、一切の撮影はできないと断られてしまった。
博物館の入り口には、巨大な鉧が置かれていた。また入り口の左には、実際に使われていた鞴が置かれていた。相当に大きな装置で、両足を交互に踏ん張り、一人で踏み続けることができるようなものではない。1日の作業のなかでも、何人もの人が交代しながら、作業していたと思われる。これは歴史的には、17世紀の終わりに出雲国で作られたもので、「天秤鞴)」と呼ばれ、たたら製鉄の効率を上げることになった。両端に支点のある2つの踏み板を真ん中に立つ1人ないし2人の番子(鞴を踏む作業員)が交互に踏む方式であり、送風量の増加と番子の負担軽減をもたらした。空気を送り込むことは、炭火の燃焼温度を一定にして、鉄分に化合している酸素を取り除くための還元反応を促進することになる。

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(巨大フイゴを踏む)

 製鉄のビデオ映像によれば、粘土質の土を大量に用意して、まず窯を作る。これが高殿と呼ばれるものである。地面も粘土質にしておく。薪も大量に用意して、窯を高温にする。煙に取り囲まれることを防ぐために、薪は炭にしておく。そのため大量の炭が必要であり、棟梁の家系では、広大な森林を所有していた。その薪の上に、乾かした砂鉄を注ぐように繰り返し入れる。そして窯の側壁から、連続して空気を吹き込む。砂鉄は高温となり、酸素が分離し燃えた炭素と化合して、流体状となり、窯の底部に沈んでいく。温度を見ながら、さらに砂鉄を足していき、数日夜を徹してこの作業を繰り返す。火の温度を一定に保たなければならず、空気も恒常的に入れ続けなければならないので、かなりの人数が必要な作業であり、しかも村下(むらげ)と呼ばれる棟梁が、注入する砂鉄の量や炭の量を指示し、3日間もしくは4日間徹夜で作業を行う。
炭化された鉄は液状になり、窯の下部で順次積み上がり、鋼の塊となる。その後、火を断ち、冷やして後に、窯を崩していく。窯はそのつど作っては崩し、次の作業でまた作られる。3日間あるいは4日間の作業でも、巨大な鉧ができる。これが鉄の母形であり、刀や金道具の素材となるものである。一定量の鋼や銑ができると、火を断ち、冷やして後に、窯を崩していく。窯はそのつど作っては崩し、次の作業でまた作られる。

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(巨大な鉧・和鋼博物館入り口)

実際には用いる砂鉄の質と作業の長さによって、さまざまなタイプの鉄ができる。一般的には粒の細かい砂鉄を炭火の中に投入することによって短時間で還元吸炭が進み、また比較的低温で加熱するために、リンや硫黄などの有害不純物の鋼への混入が少ない。ところが化合する炭素量と温度によって、いくつかのタイプの鉄ができる。生産された錬鉄、鋼、銑鉄は、近代以降には洋鋼に対して、それぞれ「和鉄」、「和鋼」、「和銑」と呼ばれるようになった。鋼は、叩いたり、伸ばして鍛えることができるので、刀、刃物、工具とし活用され、銑(ずく)は含有炭素が多くもろいので、鍛冶場で炭素を取り除き、包丁や農業工具が作られていた。材料も少し異なり、鋼では真砂砂鉄、銑では赤目砂鉄が使われたようである。工程も、鋼では3日、銑では4日かかるが、この違いは含まれた炭素量に関連している。
奥出雲の「菅谷タタラ」は、現在もなお使われていた当時の姿が残っている。重要文化財に指定され復元されたのである。作業員たちは、近隣に住み集落をなしていた。山内(さんない)と呼ばれる集落である。かつて持続的に操業が行われていた時期には、山内の人口は34戸、160人近い集落だったようである。

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(タタラ製鉄所建物再建)

 またこれだけの作業工程であるので大小の事故は起こったと思われる。そのための祈願の象徴も必要だったに違いない。それが「金屋子神社」である。金屋子神社に伝わる奉加帳によると、その信仰は安芸、備後、美作、播磨、伯耆、出雲、石見などにおよんでいる。各タタラ集落である山内では、祠や高殿に神棚を設け、金屋子神社から分霊して祀り、タタラの操業が安全で収穫が多いこと、さらには、不調のときには呪力によって正常に戻るように念じ、それが現実となったという伝承は多いとのことである。

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(金屋子神社)

3 鉄という自在

 製鉄の起源は、アジアにある。ヒッタイトのボアズキョイ遺跡からは、製鉄の痕跡が見つかっている。紀元前2000年頃のことである。その後インドで技術は高度になり、中国に伝搬したと言われている。秦の始皇帝の頃には、鉄を扱う官・職人の配置が命じられ、表面加工の技術も進んだようである。また加熱用には、薪や炭の代わりに、石炭が使われてもいる。
朝鮮半島では、紀元後1世紀頃、青銅器の武器が鉄製の武器に置き換わっていく。3世紀頃には、朝鮮半島の技術が日本に伝わったとみられるが、日本国内の遺跡からは、6世紀頃からの製鉄の跡が見つかっている。この時期の鉄製品は、大陸から持ち込まれた製品を分割したり、崩したりした後、再度製品に加工したものだと言われている。日本国内での最初の製鉄は、古墳時代の中期頃に開始されたと言われており、吉備で始まったとされる。実際に山陰では砂鉄を使ったものが多く、山陽では鉄鉱石が原料に使われることが多い。
 鉄は、銅、銀、金のような貴金属に対して、「卑金属」と呼ばれることがある。どこにでもあるからである。ところがこれだけ汎用性が高いとことをみると、鉄にはそれ固有に何かあるのである。刀や大砲の筒や橋げたは、容易なことでは変形してはいけない。包丁は研いで多くの用途に応えなければならない。針金は容易に形を変え、かつ簡単に切れたりしてはならず、かつ多大な重量に耐えなければならない。これらはすべて鉄製品である。同じ鉄から、多様な製品が作られる。これが鉄の特性である。それはいったい何に由来するのか。
 基本的な目安は、炭素含有量である。鉄の製造過程では、炭素含有量を調整することができる。鋼は、炭素量0.1-1.7%であり、そのなかでも炭素量の多い鋳鋼は、刀、刃物、工具となり、固いが折れたり割れたりする。炭素量が減るにつれて、バネ、車体、船体につかわれる。固いが変形が効くのである。さらに炭素量が減り「軟鉄」となると、釘や針金となり、展延性が大きく、割れたりちぎれたりはしない。
炭素量が減り、純粋に鉄の原子の結合体になると、どうして柔らかくなるのか。常識とは、かけ離れているようにみえる。実は炭素量が減ると、鉄の結晶がきれいに並ぶ。するときれいに並んだ面に沿って、伸ばしたり曲げたりが容易になる。だから「軟鉄」と呼ばれる。きれいな結晶構造は、力学的な変形が容易である。簡単には解けたりちぎれたりはせず、融点も高い。だが融点がくれば鉄であっても流体状になり、結晶構造は組変わってしまう。
また鋳鉄は、炭素量2%以上であり、融点が低くて溶けやすく、加熱しながらの加工が簡単である。鉄鍋や鋳物に使われている。一般には、炭素の含有量が増えれば、融点が低くて過熱による加工が容易で、逆に炭素の含有量が減れば、柔らかく伸びやすい。
鉄の性質は、炭素含有量が決定的だが、物性としては、炭素が減れば固くなるわけではなく、逆に炭素が増えれば固くなるというわけでもない。ここから炭素を含む鉄の結晶構造は、一意的ではなく、さまざまな結晶構造があると考えた方が実情に近いことがわかる。そうなると過熱して加工することで、多くの鉄の性質を引き出すことができる。その一つが刀であり、鉄の結晶構造を変化させ、焼き入れ、焼き戻しによって、実際鉄にはさまざまな性質をもたせることができた。名刀は、刀の姿、形の問題ではなく、素材の性質そのものに多様性があるために、何度も焼き直すのである。安来鋼は、日立金属安来工場が開発したもので、切削用工具、機械の工具用に使われている。また磁力をあたえて鉄に磁性をもたせることができる。ところが熱すると磁性が消えてしまう。これは結晶構造が組み変わったことに由来する。
 さらに鉄の有用性は、合金を作るさいに、結晶構造の多様性に対応して、多くの有用な合金を作り上げることができることである。このさいにも物性としては、奇妙な性質が出現する。不純物を多く含む合金は、並んだ結晶の面に沿って移動しにくく伸びはなく、固い。ただし合金がどのような結晶なのか、それぞれの合金で結晶は一通りのかたちなのか、よくわからない。KS鋼は、鉄にコバルト、タングステン、クロム、炭素を加えて作られている。結晶構造が変化しにくいらしく、永久磁石鋼として利用されている。カンタルは、鉄にクロム、アルミニウム、コバルトを加えて作ったもので、電熱線などに使われている。ステンレス鋼は、さびにくく、野外で使うものや厨房設備や電車の素材に使われている。鉄-クロム系と鉄-ニッケル-クロム系とに大別される。
 これだけ性質が多様だと、作り方のわずかの違いによって、多くの鉄製品ができてしまう。タタラ製鉄が、ある種の職人芸、名人芸になるのは避けようがない。3日間もしくは4日間の不休、不眠の作業が、どこか常軌を超えた神業のような雰囲気をもつことも、かえって自然な様相を帯びる。わずかの条件で異なる鉧や銑ができてしまうのである。また製鉄の仕方に改良が加え続けられることも、むしろ当然であるように思える。
中世以降のタタラ製鉄には間接製鋼法である「銑押し(ずくおし)」と直接製鋼法である「鉧押し(けらおし)」とが存在した。銑押は、中世から近代の半ばにかけて全国で広く行われた方法であり、鉧押し16世紀初頭になって登場した播磨国の「千種鋼」を始まりとすると言われている。
銑押しは、たたら炉で炭素濃度の高い銑鉄を作り、それを大鍛冶場(おおかじば)と呼ばれる別の作業場において脱炭精錬して錬鉄や鋼にする方法である。ここで行われているのは、まず不純物を取り除き、鉄のまとまり(銑)を作る。その後別の場所で、炭素量を調整する。炭素量の調節は、温度と酸素に依存する。鞴で酸素を送り、炭素と化合させて、鉄の炭素含有量を減らすのである。タタラ製鉄では、この銑押しが中心となっている。
 鉧押しは、直接鋼をつくるために不純物が相当に多く混ざっていると考えられる。全体の日数は短縮できるが、実質的にはある種の合金である。そうなると炭素含有量だけではなく、冷却の速度によって、結晶のかたちがかわってくると考えられる。また混ざっているものの違いにより、わずかずつでも違いがでる。不均質さの度合いが異なるのである。
明治に入っても、しばらくは中国地方産タタラ鉄が鉄製品の大多数を占めていたが、明治20年の釜石鉱山製鉄所、およびその十数年後の八幡製鉄所(後の新日鉄)の創業により急速にその比率が低下していく。タタラ製鉄は19世紀の初めには成熟期を迎え、幕末から明治中期にかけて国内製鉄の中心だった。しかし明治30年代、安価な輸入鋼材の流入、および国内で洋式製鉄が普及して、急速に衰退していった。
ヨーロッパでは、すでに14-15世紀に高炉法に転換していた。高炉というのは窯の丈が人間の背丈を超えて、巨大な炉になるということである。ドイツのライン河流域のジーゲルランドでは、川の水を利用した。高炉の利点は、木炭で燃やした火が高くまで立ち上ることであり、窯全体が高温になることである。実際に還元された鉄は、温度が高ければ活発に炭素と化合し、炭素含量が増えれば融点が下がる。これによって大量生産が可能になる。問題は、この高さになったときに、還元のための空気を大量に送ることができるかどうかである。その時利用されたのが、水車で巨大な鞴を動かして、空気を送り続ける仕組みである。水車を動力として活用するという力学がすでに行われていたのである。
また木炭が量的に間に合わず、16世紀末には、掘り出した石炭が使われるようになっていた。ところが石炭は、一般に硫黄成分を多く含む。そのため硫黄を含む鉄ができてしまうが、このため脆い鉄になる。そして鞴を動かすために、ほどなく蒸気機関が活用されるようになる。18世紀の半ばには、実用的な蒸気機関がジェームズ・ワットによって作られている。こうして石炭と蒸気機関により、製鉄産業は、森林や河川に恵まれない立地でも行えるようになっていた。18世紀末には、石炭を燃やして熱だけを製鉄に活用する反射炉が開発され、硫黄成分を取り除くことにも成功するようになった。
洋式製鉄は、炭素含有量が大きいために、量は豊富だが粗雑な作りも多かった。固いが脆く弾力が少ないのである。刀のような個性的単品を作るさいには、なお「タタラの技術」は生き続けている。奥出雲町には1993年(平成5年)に「奥出雲たたらと刀剣館」が開館した。 2016年(平成28年)には、文化庁により日本遺産として「出雲國たたら風土記――鉄づくり千年が生んだ物語」が認定され、島根県と奥出雲町、安来市、雲南市が観光客誘致を図っている。こうしてタタラ製鉄は、歴史的遺産と観光地になった。
 均質さと多様性の問題は、製鉄の場面でも繰り返し登場する問題であり、課題でもある。現在は大手鉄鋼会社(新日鉄、神戸製鋼その他)が運営する、大容量の「高炉」型の製鉄所と鉄スクラップ(屑鉄)を再加工する「電炉」(東京製綱等)に大きく業態が区分される。高炉の場合、大量生産であるが、工程の手順は同じである。高炉による製鋼は、高炉(溶鉱炉)で銑鉄をつくる段階と、そこで作られた銑鉄を「転炉」で精錬して各種の鋼を作る「製鋼」の二段階になっている。規模を問わなければ、高炉でも銑を作り、大鍛冶場でさらに炭素比率を調整するという手順が使われている。不純物を取り除き、比較的まとまった鉄(銑)を作り、その後化合炭素量を調整して、各種鉄製品を作るのである。
 電炉の場合には、屑鉄を原料とするため、少し手順が異なる。電気炉の形は、蓋のついた大きな鍋のようなもので、その蓋には黒鉛でできた太い電極が垂直にさし込まれていて、これに電流を通すと、鍋の中の鉄スクラップと電極との間にアーク放電が発生し、このアーク熱で、鉄スクラップが溶かされる。
この過程でさらに酸素を吹き込み反応熱で温度を上昇させることから、この工程は酸化精錬と呼ばれている。一度酸化させるところが屑鉄のリセットである。さらにそれに続いて酸素や硫黄を除くために還元が行われる。還元精錬では、酸化性のスラグ(屑)を炉の外へかき出してから、コークス、石灰などを加え、還元性のスラグを形成させる。そして、粉コークスと石灰とが高熱によってカーバイトとなって脱酸、脱硫を行う仕組みである。さらにコークスや微小合金を加えながら、鉄の結晶化に違いを創り出す。こうした工程で鋼が出来るまでに1-2時間でできてしまう。電気炉の特徴は比較的少量の多品種の生産に適している点である。大量生産型の高炉と多品種用の電炉に分岐しながら、製造のモードが分岐してきているというのが現状である。
鉄が、人間の文明のなかで、金属製品の中心を占め続けた理由も、こうしてはっきりしてくる。地球上に広く分布し、かつ生成法によって多様さをもたせることができる。その工程と工夫の一時期を、タタラ製鉄が占めていたのである。

参考文献

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