システムと科学の哲学
はじめに
1 物質
ダイナミクス
非平衡動力学
物性
2自己組織化
非決定論
創発
3科学と哲学
自然主義
科学主義
反証可能性
4システムの哲学
体系
オートポイエーシス
システムと科学の哲学
河本英夫
人間の本質は、心ではなく顔である。顔こそもっとも大切なものである。良い心ではなく、良い顔を作ることが哲学の課題である。何故か。写真を見ると、実物より三割落ちたとか、二割上がったとかという感想をしばしばもつ。数年前の写真を見ると、自分はこんな顔をしているのかと驚くこともしばしばある。ところで三割落ちる前や、二割上がる前の掛け値なしの現物をどうやってみたのだろう。数年前の写真の顔に違和感を抱く場合に、現在の現物の顔をどうやってみたのだろう。鏡で見たのか。鏡は、顔の二次元的切り取りであり、三面鏡を用いても二次元的切り取りを三つ繋いだだけである。自分の素顔の全貌は見えないはずである。だが見えないからといって分からないわけではない。むしろ自分の顔は、見えなくてもどんな顔であるかどこかで確信している。この顔の確信はどこからやってくるのか。
顔にはそれ以上のやっかいさがある。こんな顔でありたいと思っても、どうやったらそうした顔になることができるのか分からないし、かりにそうした顔になったとしてどうやってそのことを知るのだろう。写真と自分の顔はずれているのだから、写真で取った顔がなりたいと思っていた顔であっても、現物はそれとは相当異なることはある。顔を良くすることは容易ではない。どうしたら良くなることができるのか分からないし、そもそも手掛かりがない。それに較べれば、心を良くすることも生易しくはないが、手掛かりはある。立派な書物を読み、立派な考えを身に付け、立派に自分を律することの手掛かりはある。そのための材料も事欠かない。孔子の学而に、「我十ゆう五にして学に志す。」というのがある。これは十五歳になったぐらいから、塾に通い本当に勉強を始めたなどという意味ではないだろう。史実の上では、孔子がこの年齢から本格的に学校に通い勉強を始めたことは間違いない。だが学に志すというのは、そうした事実があるにしても、何か別のことが言われているはずである。おそらく宇宙や死後の世界や人間一般や生きていることの意味や、およそ考えても解答の出ない問題を考えるようになったというぐらいの意味であろう。そうした問いが十五歳で始まったとすると、孔子は少々のんびり家であり、どちらかと言えば晩熟である。他人の立てた問いを学び、それについての知識を身に付け、心を鍛えていくことはできる。何よりも知識は増えるし、さまざまな考え方を身に付けていくことはでき、そのことの実感を心で手にすることもできる。ところが顔が良くなる場合には、いつどのようにして良くなったのかの手掛かりがない。プロ野球の選手でもプロの水に揉まれ馴染んで顔が変わることがよくあるらしい。鍛えられて締まった顔は見てただちにわかる。ところが本人は傍から良いと言われる顔を見ることができないのである。
顔は誰であれ、紛れもなく自分を指標する自分の本質として世のなかに晒して生きる以外にはない。みずからに閉ざされた顔をつうじて世界へと開かれていくというのが実情である。だから顔については、かなり多くの表現ができる。世間一般で言われているところによれば、男の顔は履歴書、女の顔は請求書というのが相場である。だがいくぶん哲学らしい表現もできる。顔とは世界と自己との境界のことである。顔とは世界のなかでつねにすでに生きてしまっていることの外形である。顔とは世界のなかでつねに自己を形成してしまっていることの形成の起伏である。こうした表現に限りがあるわけではない。全貌が明らかにならず、また形成されていくものに終わりがないからである。そのため顔は、心に較べて圧倒的に多様であり、固有である。顔はどこまでも物である。心に較べれば物は圧倒的に多様であり、具体的である。心にだけ存在する芸術作品は、いまだ個性の内実を欠く。それを言語で表現すれば、言語に特有の類型化が働く。物の手触りや感触は、人間の認識にとって捉えにくいものの一つである。すべての感覚と直観と限りない工夫の理解のいっさいを動員して、はじめて物の多様さに接近することができる。物の触れていく芸術家と、それについて言語で語る評論家の経験には、埋まらない溝がある。物についての哲学は、どこか大人の感性を必要とする。こうした感性を獲得したとき、顔はいくぶんか良くなっているはずである。
ちなみに顔は、発生上は内臓がそのまま外にめくれ出て内臓性の皮膚になっているようである。胃腸が弱って顔の皮膚が荒れることがある。ところが胃腸が弱ったからといって、二の腕や肩の皮膚が荒れたという話は聞いたことがなく、事実ありそうにない。内臓性の感度を備えるのが顔である。胃をいたわるように、顔をいたわる必要はある。そのため化粧には、二種の成分が含まれる。内臓性の組成をいたわるファウンデーションと、自分自身では見えないものを何とか他人向けに作り上げていく成分とである。
場面を代えてみる。いまウサギとカメの競争をイメージする。足の速いウサギがどんどんと先に進んでしまい、姿の見えなくなったウサギを追いかけるようにカメはのろのろと走る。ウサギはやがて道の傍らの草むらで眠ってしまい、その間にカメは追いつき、追い抜く。勝者はカメである。このお話の尾ひれは、およそ決まっている。能力のあるものも途中で怠けてはいけないというのと、能力の劣るものも地道に努力していればやがて勝てるという説教じみた訓話である。こんな話を聞かされれば、冗談にも限度があると言いたくなる。だがこう言って投げ出すには心残りのある話である。こんなとき少し立ち留まって考えてみるのである。全身から力を抜いて、立ち留まるのである。何かに向かう姿勢と速く判断することを求められる時代だからこそ、むしろ立ち留まるのである。
いまマラソンのようなレースを考える。正午にウサギとカメはスタートしたとする。カメが姿の見えないウサギを追いかけ相当の時間がたち、気温も下がり北風が吹いてくる。そんな頃草むらで眠っているウサギの傍らをカメが通りかかる。この場面である。この場面にはどこか不思議さがある。次のような問いを考えてみる。「何故カメはウサギを起さないのか。」
この問いは妙な問いである。いま「なにがなんでも勝ちたかったから」と応えたとする。どこか強引に割り切り無理やり応えた感じが残る。しかも応えた当人の心が透けて見えてしまうようなところがある。なによりもカメとウサギが競争すれば、走力から見てウサギが勝つことは明らかである。つまりレースに臨むにあたってカメは、負ける勝負にさっそうと登場していることになる。姿の見えないウサギを追いかけながら、何度もレースを途中棄権しようと考えたはずである。それでも気を取り直して走り続け、カメは勝っても負けても最後までレースをしようと考えたはずである。そんなカメがなにがなんでも勝ちたいというのは、しっくりこない。だがたとえ最後の最後まで走ろうと思っていても、そしてその走りがほとんどは自分のためだとわかっていても、ウサギを起さないまま通り過ぎてしまうだろうという感じはある。自分自身にもよくわからないが、そして理由を探してもしっくりくるわけではないが、ウサギを起さないまま走り続けるだろう。そしてこんなことはよく起こるし、すぐに忘れてしまう。自分にも良くわからなくても、行為はある選択を行う。これは物事が動きとしてあり、動きの継続の側に何か理由を超えたことがあることに関連している。自分にも良くわからないが、何故かそうなってしまうという場面が行為の次元であり、行為は意図や理由からではうまく解明できない部分が多い。こうした場面に哲学的に踏み込むためには、自分にとっても明らかな心の範囲を越えて、もう少し広く考えてみなければならない。そこにシステムの動きがある。
自分自身にとって明らかな心の範囲を、自己意識という。自己意識は、哲学を行うときの出発点となる意識である。自分自身をどう考えるかの意識ではない。それは自己認識であり、それが過度に進むと自意識過剰と言う。自己意識は、意識についての意識である。たとえば眼前の花瓶を見てみる。ただ花瓶を見ているだけである。いま花瓶を見ながら、花瓶への視点を残し、花瓶への集中を少し弱くして、見ているということに意識を向けてみる。見ていることを意識するのである。これが自己意識である。自己意識は、意識がそれとしてある状態であり、意識についての一種の反省状態である。自己意識は自分自身にとって透明である。しかし心の働きには自己意識にとって良く分からない部分が膨大にある。この自己意識の範囲を超えて、あるいは自己意識の手前に遡行して、物やシステムの動きを自分の経験を沿わせるように考えてみるのである。このとき経験はひとつの動きとなっているのであって、安定したまとまりのある状態でも、安定した状態で物を見ている状態とも異なる。
場面をさらに代えてみる。浦島太郎は、助けたカメに連れられて龍宮城に行き、そこで楽しい日々を過ごす。至福の日々である。こういう単純な物語にも、どこか謎が隠されている。問いを立てていくことが、哲学的懐疑の始まりである。だが懐疑を開始すれば、哲学が始まるというわけではない。たとえば人間である浦島太郎は、酸素ボンベを付けないで、海の底に潜ることができるのかというのも懐疑のひとつである。これは言ったはなから笑みのもれてしまう問である。だが経験を開き、さらにそこから経験を動かすことのないような懐疑は、それで打ち止めである。そういうときは立ててしまった問に理屈を捏ねないで、あっさりと問を代えてみるのである。たとえば浦島太郎が楽しい日々を過ごして、帰り際にお土産を渡される。開けてはいけない玉手箱である。いったい開けてはいけないものをお土産として渡すのだろうか。ヴァレンタインデーに開けてはいけないチョコレートを渡すようなものである。開けてはいけないと言われて渡されれば、開けてしまうのが人情である。開けた途端玉手箱から煙が立ち、たちまち浦島太郎の髪も髭も真っ白になってしまう。楽しかった日々が一挙に通り過ぎて、タイムスリップしたように生理的年齢が進んでしまう。とすると玉手箱は、時を閉じ込めていたのだろうか。
ひとつだけ解釈を出してみる。生き極楽のような日々を送ってしまったものは、その後の一生のなかでこの時期よりも楽しい時期はない。そして多くの場合追憶のなかを生きることになる。楽しかった過去を反芻しながら繰り返し過去を生きるのである。こうしたひと時を過ごしたものはどこかでリスタートの区切りをつけなければならない。玉手箱は、こうしたリスタートの仕組みでもある。だが往々にしてリスタートすることは容易ではない。過去の封じ込められた玉手箱に手をかけた途端、リスタートの余力さえ失ってしまう。おそらくこの物語には多くの解釈が可能である。こうした問は、おそらく解答がひとつに決まるようなものではない。そして経験は問によって動き始め、しばし動き続ける。おのずと経験が動いてしまう地点に立つこと、これが哲学の問である。このとき経験は一種の運動としてある。
1 物質
歩けば棒に当たるのは、犬だけではない。棒に当たる点では人間も変わりはない。棒に当たると撥ね返される。物の特質は、ぶつかったとき否応なく体得している。物の斥力を物の第一の特質だとしたのはカントである。この特質に触れるためには、近所の家のブロック塀に頭をぶつけてみればよい。物が斥力で反発してこない限り、人間は物の存在さえ感知することができない。しかも他の物体を撥ね返すのでなければ、物は一定の広がりを占めることはできない。他の物の侵入を許さず撥ね返すからこそ、物は一定のかさばりになることができる。ところが物が他の物を撥ね返すだけであれば、物の各部分が反発しあってばらばらになってしまう。物がばらばらに離散するのではなく、ひとかたまりである場面で、初めて引力が必要になる。引力は物が空間内にそれとして存在する場面で働くが、斥力は物があるという存在に関わる場面ですでに働いている。
ダイナミクス カントは、引力と斥力を用いて、物質を構成しようとした。二つの相反する原理から、物事を説明する構想を、動力学(ダイナミクス)と言う。物質の場合、このふたつの原理のうち一方を欠くと物質そのものが成立しなくなる。しかもこの二つの原理が均衡していない場合は、物質は変化するはずである。ダイナミクスと呼ばれるものの基本形がここにある。こうした理論設定は、形を変えて何度も登場する。心のダイナミクスを解明しようとすれば、心に相反発しあう理性と無意識とを設定し、お互いのせめぎあいのなかでかろうじて均衡が保たれ、ひとたび均衡が崩れると、極端な流動化が起きてしまう。理性に超自我という語を当て、無意識を抑圧された意識だとするとフロイトの理論になる。
カントの場合引力と斥力の関係から、物質の体積を導くことはできる。均衡点で物質は膨張も収縮もしないので、空間内に一定の広がりを占める度合いを導くことができる。ここでは物質の典型例は、定常個物に置かれている。この均衡が解消すれば、物質は流動を開始する。引力と斥力という可能な限り少数の原理から、さまざまな現象を導くことを「構成」という。最初に設定される原理は、物事が成立するのに欠くことのできない原理であり、それらの原理からさまざまな現象を引き出すのである。こうした手法を採用するのが、各種「構成主義」である。論理的には現象の必要条件を最小限の条件だけに絞込み、そこから複雑な現象を組み立てていく場合、複雑な現象を直接演繹することはできない。必要条件は十分条件ではないからである。そこで一段階複雑な現象に進んだとき、その段階で固有に必要とされる必要条件を解明するのである。これが構成的な原理の解明である。たとえば物質には密度がある。同じ体積の物質にも密度の違いはある。そうすると引力と斥力の均衡だけでは、密度の違いを導くことができない。そこで引力、斥力のそれぞれの強さの度合いを設定しなければならなくなる。こうして当初設定した必要条件をどんどん細かくしていくのが構成的手法であり、そこで新たに設定される引力や斥力の強さの度合いが、現象を基礎付けるさいの基礎となる。
ダイナミクスにはいくつもの問題が含まれている。たしかに物質の体積は、引力と斥力から説明することはできる。だがその場合でも現にある物質を前提にしたうえで、物質の体積を構成しているのであって、物質そのものは前提にとどまる。ではこの物質とは何なのか。物質そのものは、触覚的に感受され、感知されている。だがこれは物質の現象を構成するさいの前提であって、構成そのものから導き出すことはできない。触覚的な内実を概念の中に組み込むことはできないのである。
しかもこの触覚の内実のところで、空間と物質の関連が問われる。空間内にある物質に触角で触れるのか、物質が空間的な広がりを作り出すことが、同時に触覚的感知をもたらすかについては、いずれも立論可能である。カントの場合、あらかじめニュートン的な時間、空間を前提することができた。そしてそれが感性の形式となっている。だから空間内にどれだけの領域を占めるかで物質を特徴づければよかった。ところが当初の物質を考える場合には、論理的には物質があるからこそ空間的広がりがはじめて成立すると考えることもできる。この場合空間的な広がりがあるところには、前提として必ず物質が存在する。そのため真空は存在しない。デカルトが物質の本性を広がりだとしたとき、空間的な広がりは物質にとって本質的だが派生的な性質だとしていた。
トリチェリーによって逆さに密封された水銀柱の上端に、まぎれもなく真空が存在することが示された。真空の存在証明は、アリストテレスの真空は存在しないという主張を覆すとともに、物質と空間との関連を考えるさいの分岐点になるはずである。だからトリチェリーのこの実験は、歴史上の大事件になっている。ところが水銀柱の上端の空白には、一挙に水銀の蒸気が溜まるはずである。なによりも極端に人為的な装置を用いなければ、擬似真空状態が作れない以上、この真空は無理にこしらえた例外である。例外を基準にして考えることはできない。そのため原則真空は存在しないという主張は残る。そこでやはり空間を物質の派生体だとする構想は残る。この考えは、後にエネルギー場の理論によって、物質的なエネルギーが空間を張り出すという構想で再度復活するのである。
シェリングは自然哲学でカントの構想をさらに進めている。自然の本質は、産出であり、みずから自身を産出することである。産出というのは、通常の因果関係が見出せない場面で広く用いられる語である。飽和状態の霧のなかから水滴が落ちてくるとき、霧と水滴の間には質変化がある。質変化があるところでは、因果関係を適用できない。だから産出という言葉を用いている。水溶液から結晶化が突然始まる場合も、産出である。自然全体を産出だというのは、因果関係を超えてこうした質変化を生み出す働きが自然だと言っていることになる。
自然をイメージするとき何を典型的なモデルとするかが、決定的な決め手になることはよくある。シェリングの場合、渦巻きを自然のモデルにしている。連続的に動き続け、形を変え続けているのが自然の姿だというのである。アリストテレスは宇宙を大きな動物のようなものだと考えている。だから自分自身で動く能力をもち、向かっていく方向をもっている。これが目的論的な宇宙論だと呼ばれる。物体は地球の中心を目的とし、そこへと向かう方向性をもつのである。これに対してデカルトは機械をモデルにして人間や宇宙を考えている。これが機械論である。機械論は、機械の進歩に合わせてモデルをどんどん高次にしていくことができる。この点では機械論は当初より圧倒的に有利な位置にいる。デカルト、ニュートンの時代の最先端の機械が、腕時計であり、シェリングやヘーゲルの時代には水車が最先端の機械である。水の勢いを歯車の回転運動に転換するのだから、ここには質変化が含まれている。この質変化が、産出という関係である。ちなみに19世紀の典型的機械が工場であり、原料とは似ても似つかぬものが作り出される代謝を表す。また20世紀の典型機械がフォードの採用したベルトコンベヤー方式であり、機械の形成がオンラインでデジタル化される。また20世紀後半の機械の典型例が、コンピュータであり、それ自体が学習能力を備える。
ところで産出だけであれば、作り出す働きであるから、まだ具体的形態をもった個物が出てこない。世界は具体的個物で満たされている。そこでシェリングは、産出と並ぶ自然の働きとして「阻止」を設定する。自然の産出性に阻止が関与して具体的個物ができる。この設定の仕方は、カントの引力、斥力の設定と同様、二つの相反する働きで個物を引き出すかたちになっている。だからこれもダイナミクスである。ところが産出と阻止が均衡してしまえば、自然はそれで安定してしまうだけである。これでは自然の産出性を持ち出した意味がなくなるし、それにとどまるのであれば、原初はダイナミックであったが、やがて安定形態になり秩序の制圧が生じるだけになる。そのためシェリングでは、産出と阻止はつねに不均衡であるとした。このとき物質は流動化する可能性をつねに持ち合わせていることになる。こうしたことからシェリングの構想は現代的には不均衡動力学になっている。
自然全体をこうした機構で捉えることは、不均衡状態が、あらゆる個物について言えなければならない。不均衡という言葉が問題なのではない。不均衡という事態が経験できなければならない。眼前に時計がある。この時計も不均衡状態にあるとする。だから時計もいつ変化してもおかしくないはずである。ところが明日目覚めたら、時計が別のものに変わっていたということはありそうにない。そこで定常個物については、不均衡状態が繰り返し産出されて、かろうじて定常形態になっているとするのである。連続的に不均衡状態が反復されて、かろうじて定常状態を保っている。ここには実は二つの異なる運動が入っている。産出と阻止という二重の働きの不均衡状態と、不均衡状態の反復的な同型の繰り返しである。
このときどのように安定した定常個物でも、いつ変貌してもおかしくないがかろうじて定常形態を保っているだけになる。眼前の時計をそうした状態にあるものとして思ってみる。時計を連続的な不均衡状態が繰り返されているのだと思ってみるのである。これは誰しも実行できる。そう思って時計を見ればよいからである。仮想することは誰にでもでき、多くの場合そんな考え方もあるのかと思うだけである。ところがそうした状態は、シェリングの場合直観されねばならない。直接紛れもなくそう見えてこなければならないのである。これは名人芸である。この名人芸に対応する精神の能力が、知的直観である。産出的な精神は、みずから自身を直観するためにみずから客体になる。ここに知的直観が働いている。もっとも身近な経験を取り出すとすれば、芸術家の制作である。作品の産出をつうじてみずから自身を精神は直観する。だが通常作った作品は、何か物足りなかったりピントが合っていなかったりする。精神みずからが全面的に客体になることはほとんどなく、またそれをみずから自身として直観することもほとんどない。知的直観のような極端な直観は、瞬間的に一度経験されるだけでもよい。一度でも経験できれば、そうした経験は経験の可能性の範囲に入ってくる。経験の可能性をもとに経験全般を語ることは、経験を拡大することにもつながる。
シェリングの場合でも、空間と物質の関係は微妙である。水滴や雪のように物質は空間の内から空間へと出現してくるという。まず空間があり、そのなかに物質が配置されて、この物質は空間内を動くという、空間と物質の相互外在ではない。かりに湿度で張り出されている空間を考え、この空間から雨粒や雪が個物として出現してくるのであれば、エネルギー場から個物が出現してくるのと同じになる。この場合空間そのものの意味を変えなければならない。
物性 産出と阻止の不均衡な拮抗からは、直接物質の形態は出てこない。個物には夥しいほどの形態がある。昆虫や蝶の形態や人間の顔を思い描けばよい。アリストテレスでは個物は、質料と形相からなる。形相は形をもたらす原理である。質料は客体からあたえられ、形相は認識主観が備え、あたえられた質料を主観は形相の原理で加工するという変形を加えると、おおまかにはカントの認識論になる。ところが個物の形や顔の表情があまりにも夥しいために、形や表情の分析は、認識主観にあらかじめ一覧表を配置しておくことができない。そこで物質の性質(物性)と物質の運動を考えなければならなくなる。
机の上に水をこぼすと、一塊になった水滴となる。これが水の形である。指でこの水滴を切ってみる。二つの塊になる。水のなかには、体積にして水の分子が5%程度含まれている。水の分子は動きながら、全体で水の形をつくっている。動きながら、他の分子との接続が取れなくなったものを蒸発したという。0度付近でも蒸発は起きている。そうすると水の形は、運動と水の物性によって決まることがわかる。運動で接続するさいに水の粘性が効いているのである。
物質の性質のうち密度は、重要な指標である。カントは密度を説明するために、強度(内包量)という概念を持ち出している。これは詰まり具合の度合いを説明するための概念であり、外延量に対置された内包量として物質に固有である。ところが水1、鉄5、水銀12のように密度は離散的な値を取る。強度が設定されたとしても、強度が離散的な値を取ることは、強度の概念だけからは出てこない。この点を突いたのがヘーゲルである。一般に空間、時間、運動、強度のような理論概念で示されているものは、連続量である。これに対して物質はすべて離散的な現われをもつ。物質の現実の性質はすべて離散的である。これが物質の圧倒的多様さの理由であり、空間や時間のような理論概念に帰着できない理由である。また新たな素材が次々と開発される理由である。
ここ十年ほどで極めて多様な化合物が作り出され、今世紀前半の技術の目玉になりそうな物質にフラーレンという得体の知れない炭素だけでなる化合物がある。炭素だけの化合物は、ダイヤモンド、グラファイト、チャーコールの三種が代表であり、ながらくこれに尽きると考えられていた。ところが15年ほど前にまったくの偶然から新たな化合物が見つかったのである。炭素だけの化合物の4種類目が見つかっただけなら、おそらくたいした問題ではない。もっともこの三日間でなされた発見だけで、携わった三人の科学者は1996年にノーベル化学賞を受賞している。この物質の後の展開が、今日物性の新たな回路を作り出しつつあるのである。
最初のフラーレンは炭素の塊にレーザ光を当てて炭素を気化させ、熱を断った環境で一挙に体積を拡大させる断熱膨張をつうじて作られた。炭素が60個集まった物体である。ダイヤモンドは、正四面体(正三角形が四つ集まったもの)の繰り返しであり、正20面体になって安定する。エイズの結晶もこの形をしている。鉛筆の芯に使われているグラファイトは、六角形が次々とつながって層になったものが、何重にも重なっているだけである。雪の結晶が何層にも重なっている場面をイメージしてみればよい。だから鉛筆の芯は、ぽろぽろ剥がれる。だがこれを圧縮して合成樹脂として使うことはできる。炭素だけでできているので本来水よりも軽いが、圧縮すればとても固くなる。テニスラケットやゴルフ用具に用いられているのが、この素材である。チャーコールは炭の塊で、定形がない。定形がないものを高温で蒸発させ、再度結晶化させると、条件に応じてダイヤモンドやグラファイトができる。
結晶は、炭素原子を配置して点と線を結ぶ操作でできている。60個の炭素で立体を作ろうとするとにわかにはイメージできない。このときヒントになったのがサッカーボールである。サッカーボールには、20個の正六角形と12個の正五角形が含まれている。正六角形だけだと、雪の結晶が平面的にながく繋がったようなものになるだけで、球になることができない。ねじって球形を作ろうとするとどこかに必ずひずみが残ってしまう。球形を作ろうとすると、そこに五角形が入る必要がある。
何故五角形は12個なのか。ここに出てくるのがオイラーの定理である。立体には多角形が含まれ、頂点では三つの多角形が接しており、また稜線では二つの多角形が接している。これを利用して、(多角形の総数)+(頂点の数)=(稜線の数)+2を経験則として導くことができる。立方体で確かめてみればよい。立法体では正方形が6個、頂点の数が8個、稜線の数が12個になっている。いま六角形をa個、五角形をb個だとすると、多角形の総数は、a+bで頂点の数は6a+5b/3、稜線の数は6a+5b/2となり、機械的に(a+b)+(6a+5b/3)=(6a+5b/2)+2を解くと、aの項が消えて、b=12になる。つまり六角形は、小さな六角形を使ってどんなに多くしてもかまわない。また場合によっては七角形を混ぜてもよい。この場合七角形の数より12個多い五角形が必要になる。この球状結晶は、建築家バックミンスター・フラーのテンセグリティーに類似していることから、フラー的なものという意味合いを込めて、フラーレンと命名された。
フラーレンは、結晶化の温度を変えると、炭素240個のものC240、炭素540個のものC540ができる。12個の五角形を入れたまま、6角形の数をどんどん増やせばよいのだから、理論上も予測できることである。ところが2000年に川崎市の国際基盤材料研究所が作り出したものに、入れ子型のフラーレンが生じていた。ロシアのマトリョーシカ人形のようにC540のなかにC240が入り、そのなかにさらにC80が入っていたのである。
フラーレンの大量合成法は、かつて街燈として使われていたアーク放電を用いる。アークランプの陰極に大量の炭素の塊が出現し、ここにフラーレンが大量に形成される。それと同時に同じ陰極に多くの針状の結晶が析出する。これがカーボンナノチューブと呼ばれる結晶である。ナノという単位は、一メートルの一億分の一である。ナノ単位の物質の微細構造は、ミリ単位のものとはまったく別の性質を示すことが知られているので、こうした物質科学をメゾスコーピックと呼んでいる。カーボンナノチューブでは空洞のチューブのなかに小さなチューブが入っていて、二重のチューブの中は空洞になっている。こうした分子に限りない夢を感じることができるのが科学者である。
こうした物質に特有な性質を知ろうとすると、形相認識では足りない。そこで形相認知ができず、質料だけの認知がなされる場合を考えてみる。アリストテレスでは、触覚をともなう認知であり、臭いや味も物との接触をともなう認知である。触覚は、認知することがひとつの身体運動としてあるような認知であり、質料の認知は、身体行為とともにあるような認知である。この場合物質は主観によって構成されるものでもなく、主観の対象でもない。身体行為とともに物性の一部が明るみにでるような、それじたい運動体であるのが物質である。たとえば交通事故で両足を失った人は、リハビリ過程においてプールで泳ぎの練習をする。重心が前に来ているので、クロールのような泳ぎはできない。泳ぎは自然と横泳ぎになる。このとき横泳ぎの継続をつうじて、身体感覚で見出しているのが、水という物質の特性である。この特性は行為に応じて異なってくる。クロールの場合、水を蹴り、水の粘性や反発力を利用した泳ぎである。ところが横泳ぎは体の周りに水の流動を作りだし、この流動に乗るようにして前に進む。横泳ぎという身体行為の継続によって身体知覚されているのが、水の流動性という物性である。物質のこの特性は身体行為の相関項であって、認識主観の相関項ではない。
2 自己組織化
湧きあがる積乱雲や巨大化するハリケーンは、それ自体の活動をつうじて形成される。交通の要所に数人住みついて逗留地ができ、経済活動が進行することで、やがて町ができることがある。また技術革新によって新たな市場が形成されるために、経済法則に逆行して収益が伸びつづけるという「収穫逓増」が引き起こされることがある。通常の経済法則では、高価格商品が見つかれば群がるようにして参入者が増え、商品の供給量が激増して値崩れが起き、利益率が落ちる。しかも材料費は値上がりするので、しばらくたつと利益は頭打ちになる。こうして収穫逓減が基本となる。ところが半導体製品市場に見られたように、たとえばコンピュータと携帯電話が接続されると、新たに市場が開拓され、別の需要が喚起されてさらに経済規模の拡大が続くことがある。こうしたそれ自体で形成されていくプロセスの集合は、新たな機構の解明を必要とする。というのも系の形成途上で、規則そのものが形成される可能性が含まれるからである。このとき当初設定した原理から一様に現象を導くことができなくなる。こうしたみずから形成するシステムを自己組織システムという。経済学でも、経営組織の点でも、社会編成の点でも今日重要なテーマとなっている。
非決定論 洗面器の水のなかに一滴の青インクを落とす。2、3日ほっておくと一様に薄く青く混ざる。自然界は、時間の経過とともに均質さが増大する方向に移行する。これを定式化したのが熱力学第二法則であり、均質さの度合いを表す指標がエントロピーである。この法則が発見された19世紀の後半、宇宙全体もやがて均質な熱となって死を迎えると言われていた。この熱力学法則は、運動のような可逆過程に対して、自然界には非可逆な過程が存在することを示している。自己組織化は、みずからの動きをつうじて新たな秩序を形成する以上、熱力学第二法則に反するのであり、これが当初の注目の理由である。
熱力学第二法則は、閉鎖系でだけ成立し、開放系では成り立たないことは当初より指摘されていた。生命や太陽表面の核融合では、エネルギーや物質の流入がある以上、この法則は成り立たない。ところが閉鎖系でもこの法則が成り立たないことが、明らかになってきたのである。
洗面器に落とした青インクの分子は、一様に混ざり合うように動いているわけではない。ただランダムに動いている。ランダムに動いているものが、何故時間経過とともに一定の傾向を示すのか。それは極端な動きは相互に打ち消し合って、全体的傾向としては中央値に近い値の動きが大勢を占めるからである。とすると熱力学第二法則は、因果的法則ではなく、統計的な趨勢を示す確率法則に過ぎないことがわかる。逆にどの場面でも、確率的に大勢を占める傾向に逆行する可能性が含まれていることがわかる。これが「ゆらぎ」である。ゆらぎは、非平衡状態であれば、どのような物理系にも含まれる規則に逆行する可能性である。だが確率法則の本性上この系のどこにゆらぎが含まれているかを指定することができない。ゆらぎをかいして特定の傾向が増幅され、やがて新たな秩序が形成される過程が、自己組織化である。ゆらぎは、系に内在する異物であるノイズとは異なる。ノイズは単独で取り出しうる異物であり、ノイズが半数を超えればもはやノイズとは呼ばないだろう。
いま結晶形成の場面を考えてみる。水溶液のなかの分子が一定の配置を取ったとき、突如結晶が析出することもあれば、同じ分子の配置から再度別れ別れになることもある。ここにもゆらぎが含まれている。この分岐点は、滝の分岐をイメージしてカスケードと呼ばれる。結晶形成の開始には、どこまでも偶然が含まれてしまう。これによって自己組織系は、初期条件を決めることのできない系であり、にもかかわらず進行してしまう系である。非決定論には、初期条件が決まるが結果を一義的に決定できない系が多い。一定の高さから水平にしたイチョウの葉を落とすと、初期条件はすべて決まっているのに、どこにどのように落ちるかを決定することはできない。落下のさいの要因が複雑過ぎて、要因間の関係を決定できないからである。これは決定論の内部の予測不可能性である。
これに対して自己組織化は、初期条件の範囲を決定できない非決定論である。結晶化のプロセスを段階的に区分けしてみる。溶液中の分子が、偶然なんらかの要因によって、特定の配置をとり、結晶の析出が開始される。ひとたび結晶の析出が始まれば、同様の生成プロセスが断続的に進行する。生成し増大しつづける結晶は、溶液各所の近傍濃度に応じて凹凸が生じ、さまざまな形態になっていく。増大をつづける結晶は、この自己形成をつうじて溶液の周辺条件を変化させる。析出した結晶も、溶液との境界で、一定速度で溶液中に融解しており、溶液から結晶表面に析出する分子と、結晶表面から流出する分子の差異が、結晶の増大値となる。このとき結晶の境界は、結晶と溶液環境との相互作用によって決定される。ここには次のような事柄が含まれている。
(1) 自己組織化の生成プロセスは、偶然開始される(初源の偶然性)。
(2) 初期状態が偶然成立した場合でも、生成プロセスが進行する場合と、もとの状態にもどってしまう場合とがある。分岐点において一方の事態が生じれば、システム全体はなだれを打つようにそちらに向かう(カスケードの非可逆性)。
(3) 分岐点において生成プロセスが進行すれば、システム全体の状態が一挙に変化する(相転移)。ここでは力学のような平衡システムで前提になっている、原因=結果というライプニッツの原理は、見かけ上成立していない。システムの小さな撹乱が大きな結果をもたらしているようにみえる。
(4) ひとたび生成プロセスが開始されれば、この生成プロセスは反復的に進行する(生成プロセスの反復的進行)。システムの局所で偶然生じた生成プロセスは、システム全体に拡がっていく。要素にはみられなかった秩序が突如形成され、偶然的に運動する要素と秩序の間には、飛躍がある。「自然界に飛躍なし」というアリストテレスの原理は、かつて量子的飛躍によって動揺したが、自己組織化の現象ではこの動揺は全面的なものになる。
(5) 自己組織システムは、環境との相互作用をつうじて、自己の境界を変化させていく。このシステムは作動をつうじて周辺条件を変化させ、またそのことがシステムの作動に影響をあたえる(自己の境界の変動)。
ひとたび結晶形成がはじまると、自動的に結晶形成は継続される。形成された結晶は、ほっておいても壊れることはなく、平衡構造と呼ばれる。これに対して渦巻きや熱対流は、連続的に動きつづけてはじめて維持される構造であり、散逸構造と呼ばれる。これは物理化学者プリゴジンによって命名された。散逸構造は動的であることをつうじて成立している構造であり、つねにエネルギーの流れに曝されていなければならない。
結晶形成のような場合には、システムの設定の仕方は、実は二通り可能である。(1)結晶をシステムとし、溶液をシステムの環境として、増大しつづける結晶を、自己組織システムとして捉える。(2)溶液内の結晶生成のプロセスをシステムの構成要素だとし、生成プロセスの集合をシステムだとする。生成プロセスが次の生成プロセスの開始条件となるようにして、生成プロセスは継続する。この継続し続けるプロセスのネットワークの全範囲をシステムだと考えるのである。このとき結晶は生成プロセスから除去される廃棄物である。この二つの視点のうち、自己組織システムとして理解されてきたのは、ほぼ例外なく(1)である。
第一の視点では、境界にあっては、析出した結晶から一定速度で溶液へと構成要素が還流し、溶液側から一定速度で、結晶化が継続する。その速度差が結晶の成長と呼ばれる。このさい結晶の境界は、結晶と溶液との間のインプットとアウトプットによって定まる。観察者は空間内に、空間的な区切りとしてこの境界を見分けることができる。増大し成長する結晶は、この境界を変えていく。この場合システムの構成要素は、それぞれの結晶に固有の格子状の分子配列であり、分子間の関係である。システムの生成プロセスは、システムの境界面での変化であり、システムの作動は慣性速度0の運動、つまり静止である。結晶のような平衡構造は静止しており、渦のような散逸構造は運動しつづけているが、だからと言って両者を特段に区別しなければならない理由はないように思われる。事実観察者から見られた動きのモードの違いはある。だが観察者の位置そのものが問われるような別の違いがある。
第二の視点では、こうしたシステムの捉え方は一変する。それぞれの結晶生成のプロセスを構成要素とするシステムは、本来的に作動するシステムであって、作動がシステムのひとつの状態ではなく、むしろ作動そのものを構成要素とする。このとき結晶形成を行う生成プロセスの全範囲がシステムである。結晶形成の場合、ひとたび生成プロセスが開始されれば、そのことが開始条件となって、次々と生成プロセスが進行する。この場合システムの境界はどのように設定されるのか。生成プロセスを構成要素とするようなシステムの境界は、空間的には定まらない。空間的な境界によってシステムを設定しているわけではないからである。また構成要素は生成プロセスであって、空間内の分子配列ではないから、構成要素という点からみても、システムの境界を空間的に指定することは無理である。
ここで生成プロセスの反復的進行という点に着目することにしよう。システムが作動しつづけるためには、生成プロセスが縦続しなければならない。生成プロセスの反復的進行に関与しつづける全範囲がシステムである。そこでシステムの境界を次のように規定することができる。「生成プロセスが生成プロセスの開始条件となるような全範囲」というようにである。これはシステムの作動の様相をあらわしており、かつシステムの境界をシステムの作動に関連づけるように表してもいる。システムのこの境界は、空間的に定められるようなものではなく、生成プロセスが次の生成プロセスの開始条件となるような範囲として、純粋に作動的(機能的)に規定されている。この境界の設定は、空間的なものではなく位相学的である。これによってシステムがそれ自体の動きをつうじて形成していく空間のイメージが必要になる。
結晶形成では、個々の生成プロセスは、次ぎのプロセスの開始条件となっており、同時に産物である結晶を産出する。だから自己組織化を「生成プロセスが次の生成プロセスの開始条件となることによって接続したプロセスの連鎖」と定義しただけでは、本来不十分である。個々のプロセスには、次のプロセスの開始条件になると同時に、それじたいで結晶という物を産出するという事態が含まれている。自動的に継続するプロセスの系列を辿ると、個々の生成プロセスはそれぞれの場面で二重の働きをしていることがわかる。これを「二重作動」と呼んでおきたい。自己組織化を生成プロセスのプロセスの継続という運動系で描こうとすれば、二重作動のために必ず剰余が含まれる。これは自己組織化が、物を巻き込んだ動きであることから生じており、もともと運動系(連続系)と物質系(離散系)をひとつの系として扱うことができないことに由来する。
運動系と物質系は質の異なる系であり、生成プロセスから結晶ができる場合や摩擦運動によって火が付く場合は、二つの系の関連を示さなければならないが、これらの事例は産出的因果であるため必然的関連を示すことができない。それだけではない。たとえば摩擦運動から火が付くことを知覚することもできないのである。火が付く瞬間の場面を知覚することはできる。そうではなく運動が火に転換する変化そのものを知覚することができない。質的な転換を知覚する能力を、人間はもち合わせてはいないようである。にもかかわらずこうした事態は、自己組織化では頻繁に起こる。自己組織化は産出的因果を含みながら、自動的にプロセスを継続する系である。しかも生成プロセスが生成プロセスに接続する回路と生成プロセスが産出的因果を介して物を産出する過程に分岐する。自己組織化が非決定論であるもうひとつの理由は、個々のプロセスの継続に産出的因果を含んだ二重作動が生じていることである。
こうしたことから得られる帰結を二つ。第一に増大しつづける結晶をシステムとし、溶液をその環境だとすれば、自己組織化は、結晶と溶液との相互作用によって規定されている。そしてこの境界は、結晶と溶液とをともに捉える観察者によって取り出されている。観察者はこの境界をおおむね視覚的に自分の設定した空間内にシステムを見定めるのである。そのためこの視点での自己組織システムを構想するさいには、いつも観察者の位置に気を配っていなければならない。しかもこのシステムは、実はこの空間内に形成された、観察者によって判別可能な構造のことである。結晶のようなシステムを対象にする場合は、どうこうということはないのだが、こうしたやり方では生態システムや社会システムを考察するさいには、観察者がそれらのシステムの外に出て、システムを観察しているかのようなシステム記述になる。この場合こうした記述には、本来的な欠落がつねに含まれているはずである。
第二に結晶生成のシステムを第二の視点にしたがって、「生成プロセスが生成プロセスじたいの開始条件となるようなシステム」だと規定してみる。生成プロセスを構成要素とする自己組織システムは、ほどほどの大きさのビーカーであれば、溶液全体が自己組織システムとなっている。生成プロセスの連鎖が溶液全体に及ぶからである。かりに十分に大きなビーカーで結晶生成が行われれば、結晶生成に関与する範囲がシステムであり、それ以外はシステムの媒体(環境)である。ところでこのとき奇妙なことに気づく。自己組織システムの作動は、ビーカーの壁に支えられているのではないか。ビーカーの壁はシステムにとってどのような意味をもっているのか、という問いである。ビーカーの壁がひとたびこわれれば、溶液はあふれ出し、生成プロセスは停止する。自己組織化のプロセスは、システムを支える外的条件にまもられてはじめて成立する。結晶生成の自己組織プロセスにとって、ビーカーの壁は先天的でありどのようにしてもはずすことのできない条件である。自己組織システムでは、システムの環境と壁を区別しなければならない。環境はシステムと相互作用しながら変化するが、壁はシステムにとって先天的な条件である。このことは環境問題に対しても貴重な示唆をあたえる。地球上の生態系を自己組織システムだとしたとき、システムの環境にかかわる問題と、システムの壁にかかわる問題はまったく異質である。おそらく二酸化炭素の増大は、システムの環境問題だが、オゾン層はシステムの壁にかかわっている。壁をひとたび壊してしまえば、システムはみずからの作動の先天的条件を失うのである。
有機体を一つのシステムだとしたとき、このシステムでは連続的に生成プロセスが接続している。この点では有機体を自己組織システムとして扱うことができる。しかし有機体は、ビーカーの壁に相当するものを自分自身で産出する。内的環境のようなみずからの壁を自分で作り出すのである。このときシステムの境界は環境との相互作用によって決まるのではなく、むしろ自分で産出した壁によって区切られる。こうなればこのシステムはもはやたんなる自己組織システムではない。システムがみずからの境界を自分で産出するようになったとき、システムはさらに新たな段階へと進んでいる。
創発 系に新たな性質が生じるとき、一般に創発があったといわれる。自己組織化には必ず創発が含まれる。創発のあるところには、多くの場合新たな階層が形成される。一般に階層生成は自己組織システムの要となる機構である。正直なところ、階層生成の機構はいまだ主題的に議論されてはいない。そのため一から手づくりで組み立てていかなければならない。似かよった議論に、弁証法とベルクソソの「生命の飛躍」があるが、弁証法は作動する機構をあらわすものではなく、「生命の飛躍」は、比類ない直観によってもたらされたものであるとはいえ、機構への問いが欠けている。唯一参考にしうるのは、シェリングのポテンツ論である。ポテンツ論は、自然の活動に活動が関与し、それによって自然の階層性が進むように組み立てられている。このなかに含まれるいくつかの着想は現在でも活用できる。
ここでは階層生成の機構を二つの基本的なタイプに分けて考えようと思う。要素の相互作用によって複合体が形成される場合が、第一のタイプである。複合体は要素に還元できないという特質を、直接具現するのがこのタイプである。次いで生成プロセスが、継続的な生成プロセスをひきおこす機構が第二のタイプである。この場合、生成プロセスは、一種の円環となって、生成プロセスを継続しながら動的に安定する。
第一に水素と酸素から水ができるとき、元の要素には存在しない新たな性質が出現する。だがこれを創発とは言わない。元の要素からほぼ必然的に水ができる以上、水の性質はもともと水素と酸素に含まれていたという主張が成立するからである。創発とは、事前の知識を十分切り縮めておいたとき生じる仮象だとする考えがある。これを還元主義という。水については還元主義と争っても、よくて引き分けである。
第二にベロウゾフ‐ジャボチンスキー反応がある。何種類かの溶液と試薬を混ぜて撹拌すると、溶液の色が自動的に赤、青、赤、青と変わる反応である。骨子だけを取り出すと硫酸溶液のなかでマロン酸が酸化していく過程で、触媒として入っているセリウムイオンが三価と四価の間を往復する。これが溶液の色の変化となって現われる。この場合周期性をもつ自動的な変化が含まれているはずである。そのため自動的にみずからで変化していく回路が形成されている以上、この生成プロセスには周期性を示す変数が新たに獲得されたとみることができる。当初の溶液では存在しなかった変数が獲得される以上、創発があったと考えることができる。このときどのように数学的につめてみても、当初に設定された関数から周期性をもつ関数を引き出すことはできない。関数や規則そのものが、新たな変数を獲得して変貌することが、創発の必要条件である。
ところが当初の溶液が同じ条件で設定されれば、いつも同じ周期的反応が起こるのであれば、この周期性は当初の溶液に潜在的に含まれていたはずだという主張にも言い分は残る。しかもひとたび周期的な秩序が形成されて、それが維持されるだけであれば、「秩序の制圧」にすぎないという、カオス理論からの反論にも曝される。カオスとは、非周期的で、非規則的な動きの総称であり、カオス理論は、こうした動きを分析する数学的な技法である。たとえば雨水が樋を落ちるさいにも、一定量づつ落ちているのではない。ちょろちょろ落ちたり、一時にどさっと落ちたりするように、つねに小さな変化を繰り返している。またカオスの動きのなかには、ひとたび秩序状態に達しても、再度自分でその秩序を破壊し、乱れた状態へと進んでいく過程が含まれている。そのためひとたび秩序が形成されてそれで安定してしまうようであれば、ダイナミクスの喪失だとカオス理論は考えているのである。カオス理論には、見かけ上一定の秩序が見られるところに、実は細かな起伏が含まれていることを示す技法がある。規則的な現象を拡大したとき、それが実は細かな変動の集積だったことを示す技法である。これをパイ捏ね変換という。パイを捏ねるさいには、一部を引き伸ばし、逆の一部を圧縮している。この引き伸ばしに相当する演算操作がある。これを存分に活用することによって、見かけ上秩序だと思われている現象に膨大な変化が隠されていることを明らかにするのである。カオス理論から見れば、秩序とは粗い要約のことである。
創発の主題に戻る。こうして周期的な生成プロセスのループが形成され、さらにそれが別の周期的ループへと自動的に組み変わっていく事態が生じたとき、創発と呼ぶことができる。これは自動的に変数を入れ替えながら作動を継続するシステムである。たとえば複数の周期的なループが相互に触媒となって、ひとつの大きなループを形成するハイパーサイクルでは、個々の周期的なループは入れ替え可能であり、また個々のループの減少も増大も可能である。そのためハイパーサイクルは、創発系となっている。ハイパーサイクルは、ドイツの科学者マンフレート・アイゲンによって定式化され、彼はそれによってノーベル賞を受賞した。ハイパーサイクルのもっとも身近な事例が、RNA/DNA‐タンパク質複合系であり、またニューヨーク、東京、フランクフルト、ロンドンに主要なマーケットを置く、為替市場のネットワークである。
システムが高次の活動を獲得するさいの再起的相互作用についても触れておきたい。系の状態が一変する相転移には、生成プロセスが個々に進行するだけではなく、生成プロセスをさらに促進するようなフィードフォワードが働いていると考えられる。ひとたび進行しはじめた生成プロセスは、なだれをうつように進行する。こうした場面が再帰的相互作用である。劇的な相転移には、再帰的相互作用が含まれている。自己組織化の個々のプロセスは、次ぎのプロセスの開始条件となるが、次ぎのプロセスを決定はしない。そのためプロセス間の接続には、つねに選択がともなう。だが再帰的相互作用が生じる場面では、複数の選択肢は等価ではなく、単純な確率計算が成立しなくなる。このとき系の形成には、特定の方向性をもつような傾向がみられる。ランダムな状態から特定の秩序が形成されるためには、再帰的相互作用によってプロセスの進行のさいの選択肢がそれ自体で制約されなければならない。
再帰的相互作用は一般に系の進行を加速する。だが生命のような高次系の形成では、一挙に進行してしまう化学反応を何段階にも遅くする機構が備わっているはずである。生命とは、ほっておけば短期間に進行してしまうプロセスを遅延させる機構のことである。この場面の再帰的相互作用が、ネガティヴ・フィードバックである。また再帰的相互作用のなかに速度調整だけではなく、再帰的相互作用する対象に応じて対応を変えるプロセスが生じると、反応するもの、反応しないものを見分けていく機能が生じる。これはみかけ上物質が感覚的判別の働きをもつことを意味する。免疫細胞が自己と非自己を判別し、神経のシナプス細胞が、接続可能なシナプスとそうでないものを判別するのは、この場面である。このとき再帰的相互作用は、自己言及という高次のモードとなっている。
3科学と哲学
ここでは科学と哲学の関連を考察する。とりわけ科学と哲学がどのように分岐したのかをテーマにすえる。科学の著作を歴史的に並べてみると、19世紀の初頭あたりから今日の原著論文スタイルが広範に登場する。自分の明らかにした論点だけを鮮明に描き、その論文の理解に必要な事柄は、注の形式で挙げるだけになる。それ以前の科学の著作は、誰が明かにした事実であろうと次々と自分の著作に取り込み、ひとつの体系的記述として描かれることが多い。しかも登場人物が対話形式で、世界観を含めてその時期までに明かになった事実を網羅的に説明するスタイルも取られている。この時期にはいまだ自然科学と人文科学の区別は、はっきりしない。だから自然科学を哲学の一部門とし、著作の名称に哲学を用いている。この慣習が今日にも残り、博士の称号をPHDと呼んでいる。医学博士MD以外のドクターは、すべて哲学博士なのである。
自然主義 19世紀中葉以降、論文雑誌が次々と創刊される。リービッヒの『年報』やウイルヒョーの『アルヒーフ』は、個人の創刊したものであるが、やがて世界中から寄稿されるようになり、これらの雑誌に掲載されることが論文の格づけをあたえるようになる。現在の世界の第一級の雑誌が、『ネイチャー』と『サイエンス』である。これらに論文が掲載されれば、それだけで日本では大騒ぎになる。論文雑誌の確立をまって、哲学と科学の知識のスタイルが分離する。科学が広範に普及し、それがきわめて有効な知の手法であることが分かり始めると、すべての知を自然科学を手本に再編する動きが生じる。この段階を自然主義という。
自然主義は、自然科学を手本にして世界を論じる以上、なにをモデルとするかによって形態が分かれる。まず特定の法則がそのまま宇宙観にまで格上げされた。エネルギー保存法則で示されたエネルギー概念を用いて、エネルギー一元論で宇宙を説明する宇宙論が出現した。オストワルドによれば、エネルギーの原理は経済や政治の説明を含めてどこにでも適用できるものであった。またヘッケルの『宇宙の謎』では、進化の原理を宇宙生成史へと拡大し、原始物質から人間の文明まで進化の系列で描いている。これらは特定の分野や特定の局面で取り出された法則を、宇宙論の原理へと拡大する局所主義である。局所的に当てはまる法則を、際限なく拡張するのである。これは今日科学的宇宙論と呼ばれるものの典型になっている。
また個々の学説ではなく探求の背景となるような機械論や有機体論が、そのまま世界観にまで拡大され、ひとつの思想となる自然主義が存在する。ビュヒナーやモレショットのような俗流唯物論者や、有機体論の世界観を表明するスペンサーが典型的である。科学的対象の探求のための大前提が、そのまま世界観へと拡大されているために、ここでは自然主義は、みずから自身に基礎をあたえる構想となっている。機械論的世界観を表明することは、みずから機械的動きを行うことであり、有機体的世界観を表明することは、有機体の進化を進めることである。世界観になるということは、そのように議論を拡大することである。この場面で科学的世界観は、もはや科学的ではなくなっているのだが、多くの場合自分自身の行為さえこの世界観に組み込まれているために、そのことに気づくことができない。
科学主義 自然主義の延長上にさらに特段に進んだ科学的知識の形態が生じる。科学的知識そのものへの反省的考察も、科学的方法論にしたがって行うという段階である。こうなると科学的方法が、伝統的な哲学的反省に取って代わり、知識の反省的吟味に代えて方法的正当化という課題が生じる。反省的考察を行う以上、これは一種の哲学の形態をとる。論理実証主義から、ポパーの反証主義、ファイヤーアーベントの知のアナーキズムに至る系譜がこれに相当する。これらは一般に新実証主義と呼ばれる。マッハ、アヴェナリウスに見られた古典的経験論に対して、知識への反省的考察を実証的に行う以上、実証主義のなかでも新たな局面に入っている。科学の知識のうち科学的方法が抽出され、この方法が科学の典型的モデルとしてあらゆる領域に適用されるだけではなく、個々の領域で形成された知識に対する反省の機能をも合わせもつのである。こうして宗教的宇宙論、哲学的世界観の後を受けて、科学がみずからを一個の哲学的立場とする科学主義が誕生した。
このなかでも現在なお生き延びているのは、ポパーの反証主義である。経済学や経営学の領域ではいまだとても影響が強い。反証主義は、仮説演繹法を科学的方法のなかでも特段に有力視している。仮説をたて、そこから演繹的に予測をし、現実の実験、観測データと照らし合わせて仮説を吟味する。この方法を軸に哲学的立場を形成するのである。仮説はどこまでも仮説であって、いくらそれに相応しい事実を積み上げても、仮説が正当化されるはずもない。そこで発想を逆転させて、仮説は正当化されるためにあるのではなく、反証されて放棄されるためにあるとするのである。反証されなければ、いましばらく仮説としての身分のまま保持される。反証可能性が高いことは、それだけ多くの領域に適用可能になっていることであるから、普遍性の度合いが高いことになる。ここでは普遍的な真理をあっさり放棄しているだけではなく、知識の正当化の手続きも放棄していることになる。さらに仮説が反証されれば、未練がましくそれに拘泥することなく、次のより画期的な仮説の提起へと向かうべきであることになる。
反証可能性 反証可能性は、経験科学的言明と形而上学的言明の区別の基準ともなる。「神は全能である」という言明は、反証可能ではない。バーナード・ショーに倣って「神はみずからで持ち上げることのできない石を作り出すことができるか」と問うてみる。この疑問文のなかに否定形が含まれているため、この疑問文に肯定でも否定でも神の全能性は否定される。そのような石を作り出すことができれば、石を持ち上げることが不可能になり、石を作れなければそれだけで不可能が生じる。ところが神は、そのような小賢しい疑問を人間に許容するほど全能であるという解答が次に用意されている。困難が生じるたびに神の全能はますます際立ったものになる。そこで「神は全能である」という言明は、反証不可能であることになる。これは「神は全能である」という言明が反証余地のないほど正しいことを意味するのではなく、経験的言明としては無意味、もしくは無内容であることを意味する。とするとこの言明は、信仰や信念の問題であって、経験科学の対象とする問題でなくなる。ここでは反証という方法的手続きが、反証可能性という知識の身分を決める反省的基準にまで格上げされている。反証可能性は、経験科学的言明とそれ以外の言明との境界基準として、知識の身分を区分するのである。
科学的言明は、反証されるためにある。とすると科学的言明が指示するものは何であるのか。たとえばニュートンの運動法則も仮説であるから、やがては放棄されるべきものである。この法則から演繹される現象は、自由落下のように、ある高さから石を落とせば、一定時間後に一定距離を落ちるというものである。しかしこれは反証されるべきものである。とするとこの法則から演繹される現象の集合は、すみやかに反証されるべき現象群である。とするとこの法則が指示しているのは、この現象群ではなく、その集合の外部であることになる。というのも知識はつねに新たな形態へと革新されるという希望にかけているのが反証主義だからである。この外部には、新たな仮説のための着想や反証のための材料が豊富に含まれている。反証という方法的原理のもとで仮説の指示するものは、仮説から導かれる現象の外であることになる。仮説演繹という探求方法が反証主義で反省的身分を備えたとき、個々の仮説の指示するものが、通常の集合から逆転する。こうして科学的方法は、指示の仕方を再編して一個の哲学となっている。
この反証主義にはいくつも問題がある。ポパーは反証可能性がないことを理由に、進化論や精神分析学を、似非科学だとしている。このことは仮説演繹が、演繹的な予測を利用することからの必然的帰結である。進化論は、あらかじめ何が生き残るかを決定することはできないが、時間の推移とともに生物集団の中央値となる形質が変化する機構についての科学である。演繹が効かないことを含んでいる。そのため仮説演繹的な反証は成立しないが、にもかかわらずこのタイプの科学的理論は今日たくさん存在する。新たな性質の出現の機構を問題にする自己組織系の科学では、通常演繹的予言が効かない。だがこれが経験科学でないとは誰も思わないであろう。ここでは仮説演繹法という方法的基準が狭すぎるのである。
また新たな仮説は何のために設定されるのかという問いに対しては、おそらく科学の進歩のためと答えるよりないと思われる。そうなるとこの反証主義にとって、進歩は他に代替できない基準になるはずである。そうなるとゲームのように「進歩という基準そのものは反証可能であるか」という問いが生じる。方法的に制御される知識にとっての内在的な基準は、少なくても反証手続きを介して獲得されたものではない。こうした問いがたんなる手の込んだ冗談でないのであれば、進歩という事柄にどの程度の内実が込められるかが問われていることになる。既存の理論より、より広範な現象をカバーできるとか、既存の理論では予測不可能な画期的な事実を明らかにしうるとかのように、進歩の内実を示す事柄が要求される。ところがこれらの事柄は、反証手続きとは独立の問題であり、反証という基準から確保されるのでもない。
反証主義とフランクフルト学派は、二度にわたって論争を行った。この論争は「実証主義論争」と呼ばれている。この論争でハーバーマスの提示した論点は、仮説演繹的な方法が適用されるにさいして、この適用に相応しい対象が選び取られていなければならないとするものである。方法が運用されるさいの、広範な先行的経験の地盤があるはずである。この地盤は方法の運用を可能にしているが、方法によって汲み尽くされるものではない。そのため方法の運用は、解釈学的経験を前提することになる。これが解釈学から出された典型的な反論である。解釈学は、経験の実行に先立ち広範な先行的投企がなされることを主張している。ここに部分-全体関係が前提される。方法は部分的な経験であり、その運用のためにはそれに先立ち広範な日常的意味の領域が先取りされていなければならない。こうした領域のなかではじめて方法の運用が可能になるだけではなく、方法を運用するとはどのようなことなのかの理解も手にすることができる。こうした理解が、了解と呼ばれる。解釈学的経験は、基本的には聖書の解釈をめぐって生じた。基本形になるのは、書物の個々の部分の理解には、書物全体の意味についての先取りが必要になる。ところが全体の意味は個々の部分の理解をつうじて得られる。ここに部分-全体の一種の循環がある。これが解釈学的循環の基本形になる。
ところで科学主義は、方法によって汲み尽くされない領域が残ることにいささかも動じない。そもそも反証主義的な経験科学は、知識の普遍性をあっさりと放棄しているのだから、汲み尽くしえない領域が残ることはむしろ当然であり、それによって逆に際限のない仮説の提起と反証も可能になる。とすると科学主義は、欠陥が指摘されるに応じて、スタンスを自在に変えることができるだけではなく、欠陥の指摘を逆手にとってそれを次のステップへと繋ぐことのできる立場にまでなっている。科学主義が容易に消滅しない理由がここにある。
4 システムの哲学
自動車の部品を組み立てていくと、部分の機能には存在しなかった特質が出現してくる。エンジンにタイヤを接続すると、エンジンの回転が車体の移動に変換される。エンジンにベルトを巻き発電装置に接続すると、ライトに明かりがつく。全体が部分の集合以上のものであることは、ほぼ自明である。しかしシステムが要素の集合、あるいは要素間の関係だと定義されたとき、要素以上の特質がどこから生じるのかは自明な問いではない。
全体論と階層関係 この問いに対するもっとも簡便な解釈は、要素の関係は、個々の要素の加算的総和に解消できないとするものである。ここから部分‐全体関係にもとづいて、全体は部分の総和以上のものであり、部分の関係こそ個々の部分を規定することになる。このとき部分と全体(関係)との身分上の関係が問われる。かりに全体がいっさいの部分に先行するのであれば、部分はこの全体から派生してこなければならない。これが全体論である。全体論では、各部分は全体からそれじたいで派生的に区分されてくる。これが分節と呼ばれる出来事である。この構想にモデルをあたえるのは胚発生である。一個の全体的な発生胚が、分節を繰り返して多数の部分となり、全体は分節を繰り返しながら部分の関係を統御している。この場合部分に先立ってつねに全体が存在しているために、部分的要素をことごとく調べ上げても、要素以上の特質があらかじめ存在するように設定されている。
これに対して要素の集合から進むとき、要素間の関係は、要素の配置される平面とは異なる次元に設定される。たとえば消化という働きは、胃や腸をひとつひとつ調べてもでてこない。この場合全体的働きは、部分とは階層を異にする。こうして階層関係を導入することで、部分の総和に帰着できない固有の次元が設定できる。この場合階層の繰り上がりが、要素以上の特質が生じる理由である。ところで部分の関係は、局所的な部分の間でもすべて成立しているので、局所的な部分の関係のさらにその関係という事態が生じる。これは関係の関係というかたちで、際限ない集合をなすはずであり、論理的には開集合になってしまう。とすると現実にはどこかで関係の関係を累乗していく操作は打ち止めになるはずであるが、この打ち止めの理由を関係のなかから出してくることは論理的には困難である。関係の累乗化が停止する理由が関係以外から生じるのだとすると、やはり関係には解消できないような原理が存在することになる。
階層関係にかかわるいくつかの基本的な問題を補足的に考えておきたい。物事が階層関係をなすのは、今日常識のひとつである。物質的要素、高分子、細胞内器官、細胞、組織、器官、機能器官群(消化、循環、呼吸等)、個体、家族、地域共同体、市民社会、国家等のように低階層から順次階層を高度にしていくことができる。要素-複合体で順次複雑化すれば自動的にこうした見取り図ができる。こうした階層関係には、二つの問題がある。いまそれぞれの階層をアリストテレスに倣って、手段-目的関係で捉えてみる。細胞内器官は、細胞の手段であり、細胞は細胞内器官の目的である。また細胞は組織の手段であり、組織は細胞の目的である。どの中間層をとっても下の層に対しては目的であり、同時に上の層に対しては手段となる。同じひとつの層が、手段と目的の両面をもつ。これをケストラーは「ヤヌスの双面」と呼んだ。同じ一つの図柄が、人にも花瓶にも見えることを比喩として用いたのである。ところで手段-目的関係で階層を上昇していくと、最上位(個体でも、国家でもよい)とみなされるものは、下の層に対しては目的であるが、いったい何の手段になっているのか。最上位にはそれ以上、上位層がない。最上位はそうなると独特のあり方をしていることになる。これが第一の問題である。この最上位層の理解は、実はいくつも解釈が分かれてしまう。みずから自身を手段とも目的ともするという形で、最上位の個体を閉じさせたのは、カントの有機体論である。
階層関係のもうひとつの問題は、各階層の間の関係にかかわる。たとえば細胞はそれじたいひとつの単位である。それが寄せ集まって組織を形成する。この点は間違いない。ところでいま細胞の位置へ視点を移動させてみる。細胞から見て、組織は自分の上位に見えたり、自分の目的に見えたりするのだろうか。また細胞は、細胞内器官であるミトコンドリアを自分の手段として見ていたりするのだろうか。ミトコンドリアも、二重膜をもちDNAを備えた活動の単位である。実はこの問題は、階層関係が地層のように横から眺められて捉えられていることに関連している。横から眺められた関係とは異なる関係が、ひとつひとつの層では成り立っていてもおかしくない。ここから先は、極めて多様な解釈と構想を立論できる。
体系 こうした事態の改良形をヘーゲルの弁証法に見出すことができる。人間の認識では、全体を当初より一挙に認識することはできない。個々の部分の認識を積み上げて行く以外に、認識の手立てはない。ところが部分がそれとして特定された途端に、部分は認識によって一面的な限定を受けている。部分の限定は、この部分の外から加えられているので、必ず一面的になり、これが規定性と呼ばれる。そのため部分の認識は、必ず剰余を含む。そこから認識は不可避的にこの部分の認識を超えて行かざるをえない。これが矛盾の発生と言われる場面である。特定の限定を受けた認識は、それの否定形へと移りさらに次の階層へと進む。こうして部分の認識はより高次の部分の認識へと移って行くが、これが総合と呼ばれる。この総合では、それ以前の認識を組み込むかたちを取る。これが認識の進展のおおまかなカラクリである。ところでこの認識の進展は、どうして打ち止めがあるのだろう。
それは認識の進展の挙句、どのような認識もそれに対して一面的になってしまう出発点で暗に前提されていた全体性へと至るからである。つまり認識は進展をつうじて出発点に戻るのである。出発点では抽象的で想定されていただけの全体性に対して、行きつく果てでは具体的で現実化された全体性となっている。なぜこれが同じ全体性だと言えるのか。それは認識の進展の最終段階では、認識による区別さえ消滅して、区別さえ解消された全体性つまり単純態に回帰するからである。この区別の消滅が弁証法の最後の課題であり、成果である。ここでは階層的な積み上げではなく、円環的に回帰する構想が設定されていることがわかる。あるいは階層の進展が、最終的に階層そのものの消滅にまで到り、すべては単一態となる。
こうした議論の立て方は、伝統的に体系と呼ばれてきた。体系はシステムの訳語のひとつであり、伝統的にそう訳してきたのである。体系は、個々の部分の認識が単独では成立することができず、そのため部分の認識では真理性に到達できないことを克服し、部分の知識がそれぞれの固有性と全体との関連をもつことを保証する。一方認識は、それじたい検討が加えられ、基礎付けられたものでなければならない。ところがどこかに最終的な根拠があるのだとすると、その根拠は何によって保証されているのかという問題が生じる。根拠の根拠が問われてしまう。これに対処しようとすると、これが最終的な根拠だと言って打ち止めにするか(独断的停止)、どこまでも根拠を遡りつづけるか(無限後退)、根拠を根拠づけられるものを持ち出して正当化するか(論理的循環)に陥る。根拠への問いは、この三種の行き止まりに陥る。これをミュンヒハウゼンのトリレンマと言う。ジレンマは二つの芳しくない選択肢の前で躊躇する事態である。トリレンマでは選択肢が3つになる。そこで体系では、根拠への問いを別のかたちに変形するのである。どこかに根拠があるのではなく、またその根拠から他の知識が派生してくるのではない。根拠の問いへの連鎖が出発点に戻るような閉域をなしたとき、特定の部分が根拠を担うという発想をあっさり放棄するのである。つまりこの閉域そのものがひとつの根拠であり、自己根拠づけである。みずからに根拠をもつものは、他からの媒介なしにそれじたいで存在する。こうして体系の思想が完成をみる。
ところが根拠への問いの連鎖が閉域となるところでは、それじたい知は自足してしまう。体系が完成するということは一種の自足である。これは哲学の自己満足ではないのか。しかもこの閉域がひとつに決まる保証はあるのだろうか。というのも知が一元的体系でなければならない理由は、いまだどこにも要請されていないのである。実際多元論であるようなシステムは可能である。だが多数のシステムの並存であるような多元性では、なんの意味もない。多数のシステムを横並びに並べてみる。これらを観望する観察者の視点だけは、特権的な視点として残り続けているのである。この視点の主を哲学者だとしてみる。哲学者だけは、多元的なシステムの全貌を観望していることになる。これではただの哲学者の不遜である。特定の視点から配置された多元論は、いまだ多元論ではない。しかも多元性が成立する場合でも、多元性の形成の機構を含まなければならない。というのも多元的システムは、あらかじめすべてが出揃っている必要はなく、どんどん増えてもかまわないのである。形成の機構を含む以上、多元論を標榜するシステムは、生成や動きの機構として定式化されるはずである。こうしたシステムの代表的な構想としてオートポイエーシスを取り上げる。
オートポイエーシス オートポイエーシスという語は、ギリシア語のオート(自己)とポイエーシス(制作)からの造語であり、チリ出身の二人の神経生理学者マトゥラーナ、ヴァレラの「オートポイエーシス―生命の有機構成」で最初に用いられた。オートは、オートバイ、オートレースにも引き継がれ、またポエム(詩)はポイエーシスの派生語である。この語をつうじて、彼らは生命システムの独自の機構を提示している。
有機体をオートポイエーシス・システムだとしたとき、そこには四つの特徴があると指摘されている。自律性、個体性、境界の自己決定、入力と出力の不在という四点である。これらの四つの特徴を前にしたとき、既存の有機体論の視点からでも、おおむね理解しうる。自律性は、一般的に言えば有機体が外的な刺激や環境条件のもとで形態を変え、あるいは昆虫の場合のように劇的な形態変化をとげる場合であっても、あらゆる変化にもかかわらず自己を保持することだろうと理解できる。つまり動的平衡のことだろうと理解するのである。個体性は、栄養物を取り入れて自分自身の一部に変換し組み込むことだと理解できる。栄養摂取において、自分自身の同一性を保つよう有機体は機能している。境界の自己決定は、たとえば免疫システムによって自己と非自己の境界が区分されているという事態を思い起こしてみればよい。してみると自律性、個体性、境界の自己決定という特徴は、伝統的な有機体論の視点からでも十分理解可能である。そして素直にあまりたいしたことは言っていないなと思う。ところが第四の特徴である「入力も出力もない」という点はほとんど理解不可能である。これまでの理解によれば、自律性が外的な刺激にもかかわらず自己維持されているという意味であれば、自律性の規定そのものに入力や出力が前提されている。また免疫システムが自己の境界を自己決定するさいにも、外界からの物質の侵入が前提されているはずである。入力や出力は自明の前提となっているはずである。この点からみても、システムの境界を空間的に指定することは無理である。
そこで自己組織化の項目で見たように、生成プロセスの反復的進行という点に着目することにしよう。システムが作動しつづけるためには、生成プロセスが継続しなければならない。生成プロセスの反復的進行に関与しつづける全範囲がシステムである。そこでシステムの境界を次のように挽定することができる。「生成プロセスが生成プロセスの開始条件となるような全範囲」というようにである。これはシステムの作動の様相をあらわしており、かつシステムの境界をシステムの作動に関連づけるようあらわしてもいる。
オートポイエーシスは物質の生成に関する自己組織化の理論の延長上にあって、結晶形成のような自己組織系が、生命に到達するさいには不連続的な変化が生じることを主張している。自己組織化の一般的な定義は、生成プロセスが次ぎの生成プロセスの開始条件となるように接続した生成プロセスの連鎖である。ところが生成プロセスから結晶が析出してくるさいには、析出した結晶を再度動きのなかに巻き込むようにして作動を継続しなければならない。また生成プロセスの連鎖が、どこかの段階で出発点のプロセスに接続したとき、生成プロセスは循環をなす。
この循環によってシステムの自己が形成されている。そのためこれ以降すべての出来事は、この自己にとってどのような意味をもつかという点から考察される。つまり生成プロセスの連鎖を記述する観察者にとって生じている事柄と、システムそのものにとって生じている事柄が、同じ事態についても食い違ってくるのである。ただしこの議論の仕方では、いまだヘーゲルの我々にとって(für uns)と、当事主体(für es)の区分にとどまっている。それはシステムそのものにとってのという理解の仕方が、いまだ観察者から割り当てられたシステムそのものの位置から述べられているからである。視点の移動を行い、システムそのものの位置から見ているだけになる。ところがこの自己の形成そのものが問われているのであり、システムが自己を制作するさいには、みずからの行為をつうじて意図せず制作している。この場面でオートポイエーシスは行為論を標榜する。こうして判別された認知対象としてのシステムではなく、それじたいが自己制作するシステムが設定されていることがわかる。
しかもここには二重の循環が含まれていることがわかる。生成プロセスと産出された物質とで作られている循環がその一つであり、これがシステムの原初的自己(Sich)となる。もう一つは生成プロセスの連鎖もしくは、作り出された物質の連鎖の閉域から生じているものでこれが位相化された自己(Selbst)となる。これらの循環によって形成される閉域は、動きが継続することで繰り返し形成されるのであり、また異なる循環が形成されるごとにシステムは、異なるシステムに分化する。このことの延長上にオートポイエーシスは多元論を主張するのである。
オートポイエーシスによるシステムの機構の定義は、少なくとも以下のような条件を含んでいる。
(a) システムはそれ自体で作動を継続する機構を含む。ただし生成プロセスをつうじて産出した物質を作動の継続のなかに巻き込まなければならない。
(b) システムの構成要素は作動の継続との関係で規定されるのであって、入力、出力関係で決定されるのではない。
(c) システムの作動の継続がシステムの境界を規定し、自己を形成する機構を含む。
オートポイエーシスではシステムは生成プロセスのネットワークであり、要素の集合ではない。要素の集合からシステムを定義するような部分‐全体関係は採用されていない。生成プロセスのネットワークは、要素を産出する。たとえば細胞の活動のネットワークは、生体高分子(タンパク質)を産出する。連続的な活動が、離散的な物を産出し、この物のうちさらにシステムの活動をもたらすものが、システムの構成素となる。たとえば高分子の変異体は確率的に形成される以上、細胞の活動をもたらさない変異体は、細胞システムの構成素とはならない。これが条件(a)で示されていることである。
システムの本性は、動きの継続である。動きの継続をつうじてシステムの構成素の範囲が決まる。しかもこの範囲は、システムの動きをつうじて連続的に変化していく。動きの継続をつうじて初めて構成素の範囲が決まる以上、あらかじめシステムの内‐外を区分することができない。またそのことで内部や外部に対応づけられる、入力も出力もないことになる。これが条件(b)で示されていることである。入力も出力もないということで、たんなる閉鎖系が意味されているのではなく、実はシステムを外から記述する観察者からの閉鎖系と開放系の区別そのものが消滅しているのである。
またシステムの作動は、システムの意図やシステムの目的に依存することはない。たとえば家を建てるさいに、職人を集めて、職人相互がどのように行為を継続するかだけを決めておく。設計図も見取り図もレアイウトもなく、それぞれの職人は偶然持ち場につき、行為を開始する。それでも家はできる。しかも職人は何を作っているかも、何時完成したかも知ることなく、家はできる。この職人相互の行為の継続を定めているのが、オートポイエーシスのプログラムである。蜜蜂や蟻が巣を作る前に、集まって設計図を見て相談しているなどということはありそうにない。この事実はプログラムという発想に変更を要求するのである。
システムの動きの継続は、みずからで産出する物を巻き込むようにしてなされている。構成素がなぜ特定の物であるのかについては、答えようがない。細胞の構成素が、なぜタンパク質であるかに答えられないのと同じである。むしろ積極的にシステムの動きの継続に資するものであれば、何であれ構成素になることができる。このとき特定の構成素の産出をつうじて動きの閉域が形成されれば、なんであれそれは新たなシステムとなって作動を継続する。コミュニケーションの連続的産出がなされれば、それは社会システムとなって作動を継続する。支払い行為が継続すれば、それは経済システムとなって作動を継続する。システムはそれぞれが固有化するのであり、それによって連続的に形成されつづける多元性が出現している。
しかもシステムの産出した構成素が、構成素間の接続によって閉域をなしたとき、そのことによってシステムにとっての空間が形成される。運動を継続しながら構成素が接続を維持することで、位相空間が形成される。これは数学的に座標軸で定義される位相空間ではなく、システムの産出的作動によって形成される空間である。これが条件(c)で示されていることである。こうした空間論は、ニュートンよりもデカルトを継承している。物質が運動をつうじて空間を張り出すのであって、あらかじめ座標によって設定された空間内を動くのではない。こうしたことからオートポイエーシスの空間は、イメージ化すれば無数に内部を交差させた円のようなものになる。どれかのシステムの動きに入れば、その動きを実行しているのであり、またそれしか実行できない。これはシステムがそれじたいで形成し、実現して行く多元論を主張することになる。
このさいの知識のあり方は、アリストテレスの分類にしたがえば、伝統的なテオリア(セオリーの語源)ではなく、ポイエーシスであることになる。テオリアは、見て考え物事の全体的配置を知ることによってなされる理論知である。これは近代において全面的に方法的に制御される知に引き継がれている。またプラクシスは、身体的行為をつうじて良きこと行う知識であり、そこに成立するのが賢慮である。これは近代では、倫理として善を規定する規範性の問題に引き継がれる。さらに技術的制作であるテクネー(テクニックやテクノロジーの語源)は、手本を参照しながら手足を用いて物を作り出すことである。アリストテレスでは、この順に高級な学問であり、手足を用いて行う学問は、全般に低級な学問である。実はこの学問の配置じたいがテオリアから行われている。全体的な配置を行うことはテオリアの知識だからである。アリストテレスにはもうひとつポイエーシスという知のモードがある。これは芸術的制作や創作に見られるような、そもそもモデルがないか、モデルを越え出てしまったような制作である。この知のモードは近代では、芸術と家内工業のような周辺知へと追いやられていたものである。ヘーゲルの試みはいまだテオリアを純粋形として継承していた。オートポイエーシスは、この知識のモードを切り替え、新たなものを制作することが同時にみずから自身を作り出すことことであるような行為の次元を指摘している。そこでは創造的行為であるポイエーシスが基礎となり、それはテクネーにもテオリアにも含まれる知の創造的要素となる。それじたいで形成され続ける多元論の根底にあるのは、こうした知のモードなのである。