道志村記
――持続可能な村の選択と決断
河本英夫
道志村は、80年一貫して「村」を続けている。平成の大合併にも、ただ村であり続けている。取り立てて、何かの産業があるわけではなく、資源があるわけでもない。位置は丹沢山系の裏であり、富士の裾野の手前であり、富士吉田に通じている。中央線大月駅から入ると、いろは坂のようなくねった山道が続いている。車は少ない。そうした情報が行き渡っているのか、オートバイが異様に多い。彼らのネットワークもあるのだろう。オートバイ族が集まっている。公共交通もわずかであり、一日2便のバスがあるだけである。柳田國男が道志村を訪れたのは、明治44年5月12日であり、都留市から道坂峠を越えて入村している。林業を盛んにすることが必要であるという報告書を出している。農林水産省に勤務していた柳田は、業務の必要から多くの土地を歩いている。
道志村は標高600メートル程度であり、風はずいぶんと清々しい。日没後にはクーラーは不要である。真夏でも夜間窓を開けたままだと、冷気に触れることになる。空気が軽く、熱を帯びていない。風は真夏の日中でもでも熱風ではなく、湿気が少ない。夏場の避暑地として、恵まれた条件を備えている。夏のクーラーは、一般に熱を建物の外に出すのだけだから、街全体は、3,4度気温が上がる。この熱は容易には大気中に拡散しない。街中の風が、重い熱風になる理由である。
村の地形は、水源となる道志川が中央に流れ、その両側に民家が点在している。民家のすぐ裏から森林がそびえ、両脇は小高い山である。村は、典型的な中山間地と呼ばれるもので、道志川が生活の起点であり、中心である。この川の水は相模川に流れ込む手前で、貯水され滅菌されて、横浜市に上水道を提供している。そのため横浜市とは姉妹村である。村の面積の3割は、横浜市が所有している。自治体が土地を購入して所有しているのである。また横浜市からさまざまな補助を受けている。水源ネットワークとでも呼ぶべき、大都市との関係を形成して、水源を資源として活用している。
道志川
村であり続けている理由は、これといってあるというわけではない。かつて隣接する都留市との合併話が持ち上がったとき、村民投票を行い、合併話が否決されたということである。機械的な合併は、行政の効率化を目指したものだが、道志村はそうはしなかったのである。当時の合併推進派の村長は、あっけなく辞表を出し、新しい村長は村民の意向を汲んで、村づくりを進めている。
村の人口は、1900人程度であり、少しずつ減っているようだが、ここ数年は増減なしという状態である。今回の視察の案内をしてくれた村役場の諏訪本栄さんは、2000人前後まで戻したいと希望している。かつて3校あった小学校は、今は統合されて1校になり、スクールバスで送迎を行っている。残された校舎は、ひとつは村の会議場となり、もう一つは体験学習場に作り変えられている。
村には、産業と言えるほどのものはない。耕作放棄地も多い。ただ作り手がいないという耕作放棄地である。日本全体での耕作放棄地の面積は、現在、茨城県全体の面積に及んでいる。専業農家は、4,5軒であり、商業用の作物であるクレソンや山葵を作っている。村の面積の大半を占める杉林は、採算割れのために手が入っていない。枝打ちだけはやってあるが、間伐が行われていなために、一つ一つの杉は年輪に比べてほそっている。間伐の労賃をかけることさえできないのである。杉を木材として活用しようとすれば、運賃と製材料をむしろ負担しなければならない。日本の森林が一般的に抱えている問題が、ここにも出ている。
杉の伐採を産業化するには、株式会社のような収益法人では難しい。そこで横浜のNPO「道つ木―ず」が入り込み、土日だけ間伐の作業が行われていた。NPOは基本的には、ボランティアで作業を行うことができる。ギリギリ必要経費さえ確保できれば、活動を継続することはできる。それが「新しい公共」と呼ばれるものの柱になっている理由である。それ以外に社団、財団がある。 NPOは寄附を受けることもでき、必要経費の計上を行うこともできる。間伐を行い、80センチ程度の長さに切り分け、バイオマスとして活用する。それを村が買い上げる仕組みを作っている。またこのNPOは、杉の伐採を教育機会としても活用している。こうした野外活動では、学校では現れてこない独自の個性が現れることがある。ことに集団での作業のさいの統率力や企画実行力が現れるようである。NPOだからやむをえないが、作業はかなり素人である。鋸での杉の伐採を科研研究員たちがやらせてもらった。足の配置ができない、引く力で鋸を動かそうとする、足場の斜面の傾きに体勢移動が逆らっている。これではとても杉を切ることはできないが、それでも良いのである。体験はともかくも開始することですべての可能性が開かれてくる。
杉の間伐を行っただけでも、山の保水力は維持できる。収益が出ない場合には、環境維持という別の活動を行っているのだから、別建ての支払いができる仕組みが必要となる。保水事業だと考えれば、杉を売ることだけが収益源であるはずはない。
村のフローの人口は、結構多い。400軒ほどの別荘があり、道路沿いには売り出し中の別荘も宣伝されていた。3DKで480万円という値段である。ただし大型別荘地はない。開発業者が入り込むと、まったく別のシステムで別荘が作られる。その場合、ゴミの処理も、電気やガスの設備も既存の施設の延長上ではできない。村には独自のゴミの焼却場はない。むしろゴミを出さない生活をしているというのが実情である。また夏用のキャンプ地も整備されている。週によっては3000人程度の人たちが入り、キャンプを行っている。またテニスやサッカーのような合宿所としても活用されている。私たちが宿泊した民宿も、合宿用に作られた巨大民宿で、テニス愛好会、同好会の人たちは土日を活用して、テニスを行っているようであった。民宿の部屋に一人いると、周囲の部屋から際限のない話声が聞こえてくる。それは人間というのは、よくここまで話すことがあるのかと思えるほどの際限のなさである。ただひたすら話し続けるのである。そのことはむしろとても大切なことのように思われた。大声をあげて話すことのできる場所が、都市部では限られていて、またそれは都市に似つかわし風景ではない。人口密度が一定の度合いを越えると、人は息を詰めて暮らすようになる。そのことが浅い呼吸につながっている。大声を出すのは、赤ん坊ぐらいだが、赤ん坊はそれによって呼吸器、消化器を形成するような運動を行っている。川のせせらぎや風の音が恒常的に聞こえてくるところでは、人の声の大きさなど測定誤差である。
さらに周辺の人を呼んでいるのは、「道志の湯」という地中深く掘って作られた、掛け流しの温泉である。竹下総理時代に、ふるさと創成と称して、200余りの市町村に1億ずつ創成金が支給されたことがある。この資金を活用して、温泉を掘ったようである。水質は、軽いナトリューム質で、これと言った特徴があるわけではない。草津のように硫黄成分の強い温泉ではなく、また多くの海岸沿いの温泉のように塩辛い温泉質でもない。この温泉が多くの人を呼んでいた。土日だけで見れば、施設が手狭に感じられるほどで、結構な待ち時間である。村営であるためか、入浴料は銭湯並みであり、横浜市民は身分証明書を出せば、半額程度になる。ドライブと川遊びを兼ね、温泉にも浸かって、ひとわたりリゾートができる。現状でも、その程度の施設は整っている。
村最大の事業所は、村役場であり、村営保育園の保母さんや保健所の医師を入れると、39名の雇用者からなる一大事業所である。これに並ぶのが、「道の駅」という農産物直売所兼レストランで、それじたいは株式会社であるが、社長、重役は、村役場のスタッフが兼ねており、報酬なしでの株式会社の役員となっている。そのため公共団体の兼業規定には触れないようである。これも総勢40人弱の事業所である。農産物の直売は、国道沿いのどの「道の駅」でも行われているが、これが結構な現金収入となる。小額であっても、毎日の現金収入は生活設計をずっと楽にし、選択肢を増やす。「道の駅」は、農協が手掛けていることが多いが、道志村には活動拠点となる農協が存在しない。農協が動いていない村である。農協は、ファイナンス(貸付)ぐらいしかやっていないようである。その分だけ、村役場が動いている。村役場は、とてもよくやっている。
道志村「道の駅」
今回の視察を案内してくれた、村役場の諏訪本さんの希望は、人口減を食い止め、村民人口2000人台に乗せたいということ、そのためには収益業を営む事業所をあといくつか増やしたいということであった。
比較的特産物に乏しい村である。水が大量にあるのだから、水生栽培用の農作物を作ることはできる。クレソンと山葵が現在の主流商品である。クレソンの青汁は、まだまだ工夫が足りていない印象である。ミックスジュース風の作りにして、クレソンを隠し味として使った方がよいのかもしれない。クレソン入りのそばもまだまだ工夫の余地がある。あまり旨くないのである。美味しいのでもう一度食べようというところまでは、工夫して作らなければならない。珍しいものを食べた、というところに留まっていてはとても商品にはならない。食べ方の処方も細かく指示をする必要がある。ネギを薬味にすると、クレソンの味はほとんど消えてしまう。すると付け汁にクレソン味を使い、ネギは使わない方がよいのかもしれない。
村の方針は、道志川の水質を維持すること、水源地としての村の意義を強調することである。そうなると大型の産業の誘致は難しい。環境維持と産業を両立させるという点では、水質維持やゴミを出さないことと、産業の育成・誘致は、結構両立の難しい課題である。一般に50人規模の事業所の誘致を行うことは困難である。すると特産物を開発して、4,5人単位の事業所を、さらに10個程度増やすぐらいである。なによりもゴミを出さないことは大型の事業所では至難の業であり、リサイクル可能な範囲の資源と生産管理が必要となる。
エネルギーの需給については、水資源があるのだから、小型の水力発電機を3,4機設置できれば、かなりの部分は賄えるようである。その程度の水量はあり、必要な工事も僅かである。風力を活用する場合には、電力を蓄える大型のバッテリーが必要となる。水力では電圧を一定に保つ整流器が必要となる。かつてのような大型ダムでなくても小型の水力発電は可能である。日本各地でかつて作られた小規模水力発電が、東日本大震災後、再度稼働状態に入っているところがいくつかある。水量のあるところには水車も設定できる。水車は、水の運動エネルギーを位置エネルギーに転化する仕組みである。位置エネルギーの落差が電力に転換される。
農産物を特売品にする場合には、フローの人口との見合いになる。新宿発や東京駅発の2泊3日の富士観光バスツアー用のルートはいくつかある。それの最終日の最終中継地が道志村となり、地元野菜を購入し、温泉に浸かるぐらいの設定ができれば、恒常的に観光客が入るようになる。そのためには、特産品の品数と種類の工夫が必要となる。最低限もう少し増やしておく必要がある。
埼玉県日高市には「サイボクハム」という事業所がある。最初に養豚所として出発したが、やがて豚肉製品化を現地で行い、現地生産加工システムを作り上げた。各種のハム、ソーセージを作っている。世界でも例のないハムを作り上げ、多くのファンがついている。加工まで一貫して行ってしまうことが、各地方に必要とされることである。たとえば青森ではリンゴを生産するだけではなく、ミックスジュース、缶詰、ジャム生産まで行ってしまうところがある。
さらにそこでは地中深く掘った湯量の桁外れに多い温泉がある。「まきばの湯」と命名されている。秩父に降った300年ほど前の雨水が汲みだされているようである。また近くを流れる川沿いに植物を植え「ホタル」を呼びもどすことに成功した。この事業所は、秩父観光の最終中継地となり、観光バスが入り込んでいる。
純粋に観光地にするには、さらに職人風の工夫が必要となる。たとえば長崎市の実際の人口は50万人程度だが、フローの人口は年間400万人にもなる。市内の日常生活のためのトンカツ屋でさえ、ゴマダレのような工夫を凝らし、観光客も出入りできる店舗にしている。床屋もいちいち職人気質で、すべて説明して仕事にとりかかるのである。洗髪後の頭の臭いまで説明してくれる。あるいは鳥取県の境港市は、漫画家水木しげるの出身地であることを活用して、地元の豊富な魚料理と組み合わせ、年間300万人の観光客を呼ぶことに成功している。こうした観光都市と較べると、道志村はおおらかである。このおおらかさは、なお活用の余地がある。
水が豊富なのだから、水生植物園も考案することができる。植物の種類だけをやたらと多くした植物園は山のようにある。ただし水生植物を豊富に集めたような植物園は多くないのだから、リピーターのために、温泉近くの遊歩道の脇を活用して、水生植物園をつくることができる。一度に覚えられる植物の名前など、一般人の場合4,5種類である。その場合には、何度かこの植物園を訪れる客が生まれる。
故荒川修作が、岐阜の養老公園に作った、「天命反転地」というテーマパークがある。とても工夫されており、何度でも楽しめるが、この天命反転地に足らないのは、水である。自然条件の関係でそれは難しいことだった。水流を組み込んだ天命反転地は可能だと思う。首都圏版の天命反転地は、いまだどこにも作られていないが、土地に余力があるのだから、実行可能である。また各種イヴェントも企画次第である。尾根の遊歩道は、クロスカントリーレースのコースとして使える。河口湖を含めたトライアスロンもできる。河口湖から自転車で道志村まで移動する難コースになるが、設定次第では可能だと思われる。
道志村は、おそらく発展型の村づくりではなく、自己維持型の村であり続けると思われる。環境維持とは、システムを劇的に変えない仕組みの相関項であり、目標でもある。全面的に組み替えることは、近代ではそれほど難しいことではなく、モデルもたくさんある。全面的に組み替えることは、革命になぞらえられ、知の領域ではパラダイム転換と称されてきた。ところが全面的に組み替えることは、ネットワークが比較的単層で一元化されている場合にのみ起こることである。多重ネットワーク社会では、そうした全体論的な仕組みはほとんど成立しない。そもそも環境そのものが各種生物の多重ネットワークで成り立っている。そこに人間の営みが無理のない多重化をさらに推し進めるかたちで追加される。ネットワークをさらに多重化させながら、なおゴミの量、エネルギー使用量、生活の豊かさ等の指標で、大きな変化のない社会モデルが求められている。これは近代の一歩先で必要とされるモデルである。発展ではなく、多様化を基調とする。経済的指標でみればゼロ成長であっても、豊かさを増大させることはできる。
自己維持型のシステムの難しい点は、たとえば別荘を作るさいに、先端の施設を備えた別荘であれば、システム内に極端な格差とひずみが生じる点である。そのためシステム全体が、通常より高性能なものへと次々と組み代えられていく。ところが衣食住でみれば、水洗トイレ、食材のバランスのある食事、衣服は安価で入手できる。必要なものは一応整うようになっている。これは成熟社会の特徴でもある。
その先の余力の部分が、ゴルフ場になったり、大規模別荘地になったりする。そうして似かよったリゾート地が次々と全国に作られたのが、1990年代の日本の国土開発であった。ひとときは国土全体をリゾート地にするような勢いだった。年金基金も、身の丈を越えたリゾート施設を作った。成熟社会での余力を、いわば浮かれて楽しむ方向へと振り向けたのである。「贅沢は敵だ」をもじって、「贅沢は素敵だ」と言われていた時期である。その結果、莫大な不良債権が発生し、それの処理に10年以上苦しめられたというのが「失われた10年」の内実である。人工的に設定された贅沢などすぐに飽きてしまうのである。
借金を返すという点に経済活動の焦点が来て、負債が減るだけの局面では、数字の上では成長率は計上されない。新たな企画のための借り入れが減り、金利がゼロに近づき、銀行に預けることにほとんど意味がなくなるという事態が生じた。実質的な成長率は、最終的には長期金利に連動するのでゼロ成長となり、人口減少見込みによる需要不足をつうじた価格破壊が販売戦略となると、物全般の値段が下がり、名目成長率(物価変動分を含む)が実質成長率を下回るという世界でも例のない経済状態が長期に出現して、展開可能性が失われた。ヨーロッパではこうした事態を経済の「日本化」と呼び、警戒を強めている。
その後さらに10年続いた展開可能性の無さが、合わせて「失われた20年」と呼ばれたものの内実である。この20年の最大の結果は、企業の総内部留保金が歴史上最大になったことである。労働分配率を減らして内部留保を積み上げたために、資金だけはあるが展開可能性がないという状態であり、消費は縮小し、生産は見通しを誤るとただちに赤字が出た。経済成長率が豊かさの指標であるというのは、ごく狭い発想である。この間、別の発展を考案することができなかったというのが実情に近い。この別の発展に不可欠なのが、日々工夫を続ける職人である。
そこで衣食住の基本の延長上での余力の部分を、別様に展開するというのが、道志村の基本戦略となる。持続可能性プロジェクト(SSC)に参加しているのも、こうした戦略の一環である。別様の生活の豊かさを作り出していくようなネットワークの展開が必要となる。リゾートと言っても景観の良いホテルのレストランで豪華な食事をすることだけが、豊かさなのではない。またキャンプ地で取れたての素材を食べ、野糞をすることだけが自然性ではない。農林業を豊かさに結び付けることは容易ではないが、工夫の余地は多々ある。
道志村では、現状でも相当多くのことが実行でき、かつそれなりの自己維持の手法の開発は行われている。こうした多重ネットワークのなかでさらに道志村そのものを特徴づけるネットワークの導入を、さまざまなかたちで考案しているのが、道志村の現状である。現時点では、水源としての水質の維持を目玉にしている。さらにいくつか目玉がほしいのである。それについてはさまざまな提案も行い、展開見通しも議論することができた。発展とは異なるかたちで、生活と共同体の質を向上させることはできる。そのサンプルの一つが、間違いなく道志村の現在である。
この章は、科研のメンバーで行った道志村への視察(2012年7月28-29日)をもとにした報告を兼ねている。