青のエコ・フィロソフィー――ネモフィラの斜面
河本英夫
薄い青の花は少ない。バラには、赤いバラ、ピンクのバラ、黒っぽいバラとさまざまな彩色があるが、青いバラはない。人工的に作ることはできるようだが、ほとんど見かけることはない。桜にも薄いピンクや白い桜はあるが、青の桜はない。アヤメのように濃い群青色はあるが、薄い青はほとんど見かけることはない。藤の花は、紫がかっており、棚から垂れ下がるように舞い降りている。
薄い青は、生存上有利ではないのかとも思う。花は一時的に咲き、やがて枯れて一面花びらの下に、緑の葉が出てくる。葉は光合成を行う栄養代謝の器官である。そうなると青い花は、ごく短期間出現して、やがて緑の葉に変わっていく。生存上、青の個体はほとんど理由がない。
ひたち国立海浜公園・大河の青と空
一面の青は、空にも海にもある。だから環境の大半は青である。いずれも茫洋とした広がりである。青とは果てのない面の色である。また青には開始点がない。どこかから開始された青という感触はない。これらの青は、何かの色ではない。空に青色が付き、海に青色という色が付いているのではない。青は、一般に物の色ではない。何かの漠然とした拡散性の色である。波長の短い青の光は散乱性であり、晴れていれば空は一面散乱性の色で見える。海の水も透明な水に青色が付いているのではない。光の反射によって一面散乱性の光が前景に出る。曇った海は青ではなく、濃い緑もしくは群青である。青は物に対しては背景色である。何物でもないが、何かを取り巻くように、存在する。それが青である。青と個体とはなじみがない。
青には飛び跳ねるような躍動性はない。飛び跳ねるのは、黄色であり、つねに躍動する色である。黄色は瞬発性であり、いまにもはじけそうな幼児生である。どこかへ向かおうとする動きではない。ただ蠢いているのである。そのため一面の黄色は騒々しい。風に揺れるたびに「赤ん坊の声」が始まるようだ。「菜の花畑で赤ん坊が泣いている」という中原中也の詩は、さすがにこの詩人の感度でしか語りようのない一行である。
環境を色という点で捉える課題は、おそらく近未来の課題である。色彩のエコという課題はあるに違いない。色は情態性をもち、それじたいで感情に働きかけている。生存のなかで快・不快、疲れやすさ・疲れにくさ、集中・リラックス等々の座標軸に密接に連動する。色のなかで、青はもっとも身近で、しかも活用の仕方が決めにくいモードを備えている。青の基本規則を取り出す作業から開始しなければならないところがある。その課題に踏み込んでみたい。
マンモスビルの各階の天井を何色にすれば、もっとも快適な環境になるのか、光のささないビルの側壁は何色にすればよいのか。こうした課題を前にして、おそらく最も難題となるのは青の活用法である。青は物の色ではないのだから、面としてあるいは茫洋とした広がりとして活用するしかない。だがどう活用したらよいのだろう。
視野になかに6色以上の色が配色されていれば、眼は疲れない。眼が疲れない色で、かつ印象深く、しかも時間とともになじんでくるように配色したとき、環境の色は落ち着いてくる。そのとき青の活用法が決まらないのである。建物の色を6色以上の色で塗り分けてみる。そのときすでに空の青、そばを流れる水の青が、取り囲むように周囲を取り巻いている。配色の周囲にいつも青は存在する。
ひたち国立海浜公園・青と黄
情感の形成
青は一般に沈みゆく情感であり、そのため青には「深さ」の感覚が伴う。深い青から表面色の抜けるような青まで、青は深さと表面との間を揺れる。限りなく表面に近い青は、そのまま透明になっていく。「限りなく透明に近いブルー」である。深さの青は、不透明な謎となる。あるいは病的な暗さとなる。光が消えて闇に近づく手前には、すべての物を包むように青が出現する。夜明け前と夕暮れの色である。闇から目覚めるひと時と、闇に戻る手前のひとときが、青の時間である。
そのためか青を情感の形成に活用することは、かなり工夫が必要である。シュタイナーは、情感の形成のために、多くの材料を用意した。色の情態は、色のもつ運動感として出現する。この運動感の獲得を初等教育の柱に据えたのが、シュタイナーである。いま一面白の紙に黄を塗ってみる。形に合わせて黄を色づけするのではなく、黄の面を作る。そうすると黄の面は拡散性の運動を始める。一様な黄の面にはならず、拡散するのである。人物の縁のところに拡散性の黄を多用したのが、ルノアールである。縁を曖昧にしたのではなく、拡散性の緩やかでふっくらとした動きを持たせることに成功している。この動きが、黄の情態である。情態は外に見える感情であり、形や重さとは別の環境の現実である。
緑と赤は、まったく折れ合うことのない色である。中間もなければ、混合色もない。コマの4分の一に赤、緑、赤、緑と着色し、そのコマを回転させてみる。一定の速度以上の回転になると、一面きたない茶色となる。コマの速度が落ちてくると、赤、緑、赤、緑と並び、くっきりと分離する。白い紙に、薄い緑の円を描き一面を塗る。その上方に赤を塗ってみる。緑が動きを始める。通常は眼の錯覚だと言われるが、運動は場所移動だけではなく、蠢きのような感触もある。海の青には揺れるような蠢きがあり、空の青には抜けるような蠢きがあり、時として垂れ下がるような蠢きがある。青の運動は、色の深さや色の濃さによってさまざまな情態をもつ。
ネモフィラのような薄い青は、運動の伝搬の感触である。色も場合によっては津波のような伝搬をする。たとえば野球場で薄い青の旗をもち、薄い青のユニホークを着て密集すると蠢きの津波となる。これは固定した色が動きを開始するのではない。青はそもそも固定となじまない。だから個体に青を塗ると、逆に不似合いな凝縮性となる。個体の青は固着性である。
色の法則
薄青い身体は、どこか薄気味悪い。身体から薄青さが滲み出るのか、身体が深さへと降りていくと、おのずと青が浮き上がってくるのか、容易には身体の青には慣れることができない。だが身体には、どこかに青が潜んでいる。多くの場合には、どこか病的である。
そこには病的なものの特異な美しさがあると言っても、身体には潜在的に死に触れ続けることの危うさがあると言っても、身体の青には慣れることができない不気味さがある。「青の違和」には、いつもすれ違ってしまう。色は意味のずっと手前に成立する現実であるが、それでも青は言語的表現以前のなにか巨大な違和感がある。これは言語的表現と色との違和ではない。むしろ青と身体との違和である。
青い糞や青いお小水が恒常的に成立しているのであれば、どこか馴染みになることができるのかもしれない。しかし体調が悪化し、内臓に疲れがくれば、便は黒ずみ、お小水は黄色くなる。身体の周辺には、青は存在しない。しかし活動の低下には、青みがある。眼の下の青みや痩せ落ちた腕や足には青が出現する。だが体調とは別の青みがあってもおかしくない。蛇の体表は、いくぶんか青みがかっている。カメの首筋もいくぶんか青みがかっている。これにも容易に慣れることができない。
ココシュカの青
思うに任せない情感があり、思うに任せない欲望があり、それらに満たされた身体がある。オーストリアのオスカー・ココシュカは、身体に青を多用した。伝記的には、グスタフ・マーラーの未亡人アルマとの激し恋が、よく知られている。マーラーの死後、アルマは肖像画を注文するために、ココシュカを訪れている。そのときココシュカはすでに激しい恋に落ちたと言われている。翌年、男と女(ココシュカとアルマ)が添い寝する図柄の「風の花嫁(テンペススト)」が描かれた。不運な情動というものはある。人間のことだから、宿命のような「不幸な情動」を帯びることはある。またそれが似つかわしい男もおり、女もいる。「風の花嫁」の男と女(ココシュカとアルマ)は、青に淀んだ身体で描かれる。抑うつが、浮き出るような絵である。アルマはほどなくココシュカのもとを去ってしまう。
ゴッホの青
ゴッホはときどき渦を巻く青を活用している。青は、一般には静けさであり、ゴッホ自身が入院していた病棟の夜景も、こよなく静かである。しんと静まり、黄色の星がキラメいている。だが静かなはずの青も、ゴッホが描くと激しく渦を巻いている。「静かな激しさ」というものがあるのだろうとも思う。
ゴッホの絵の基調となる色調は、黄と青であり、光の最も近くにある黄と、闇の最も近くにある青を多用した。色そのものの出現と色そのものの消滅にかかわるのが、ゴッホの絵である。だからゴッホの絵は、いつも生まれ出るものの激しさと、迷い込むような静けさに満ちている。色を情態として活用することに長けていたゴッホだが、色そのものの「運命」を背負う黄と青にとりわけ敏感だった。
光と闇は、可視的な明るさと可視的な暗さのことであり、真夏の真昼の光景と夜明け前の街並みの光景に支配的に見いだされる。闇夜のなかで放流されるダムの落下水に、青の光をライトアップすると、乱反射と散乱が混じって、怪しく激しい青の水流となる。
色の出現する場所にある黄は、上位するようにして赤となり、下降するようにして緑が生まれる。赤の下降と緑の上昇の出会うところに青が出現する。こうした黄、赤、緑、青とつながる円環が色彩環であり、この4色が原色である。この4原色は、色と光の関係が含まれている。他方色の3原色は、色を創り出す視神経から導かれている。すでに色が成立した後の神経に対応する色が3原色である。これは黄、緑、赤であり、まったく混合されることはないので道路信号に用いられている。またこの3原色を混合すれば、すべての色彩を創り出すことができる。その性質はカラーテレビやカラープロジェクターで活用されている。
4原色説は、光のなかでどのようにして色彩の感覚が形成されるかにかかわっており、新たに色彩が形成される可能性がいたるところに含まれている。3原色説は、光のなかですでに色の視神経が形成された後の議論である。魚の色彩神経は4原色であることは良く知られており、人間が見ている以上に鮮やかな海の風景が見えているようである。また七色の虹がくっきり見えるのは、日本人の程度の光の量の環境で育ったものに限定されるのかもしれない。イギリス人はおそらく6色であり、ドイツ人は5色しか見えていないと思われる。光の量によって色彩は、まったく異なるかたちで形成される可能性がある。この色彩の別様の可能性に、ゴッホは触れ続けたのである。
ゴッホの「星 月 夜」は、アルルからサンレミの精神病院に移り、精神病院入院後ひと月たったころに描かれた作品である。この青の激しさにも容易には慣れることができない。壊れゆくものの壊れ続ける激しさと呼ぶべきなのか、あるいは壊れるさなかで何度も再生しようとする激しさと呼ぶべきなのか、感覚の運動の激しさがそのまま画面の情感となっている。崩壊や再生は、活動態であり、活動態には「強度」が含まれる。渦巻く青は、強烈な強度である。
ダリの青
ダリは、机の淵に置かれた折れた時計の絵で有名である。それが「シュール・レアリズム」という旗印のものとで、一括されてきた。現実を超える現実とはどのようなものか。かたちの変形は無数に可能である。ひょうたんのように歪んだバイオリンを描くこともできれば、サイボクークのような人間も描くことはできる。人間をキリンになぞらえて、かたちを変えることはいくらでみできる。
ただし位相空間を活用して、空間に歪みをもたせれば、かたちの変化は実際にはいくらでも可能である。だがかたちの変形は、意図も作為もどこか見え透いている。それらは馴染みがないだけで、ある意味で見え透いた「シュール」なのである。かたちの変形では、容易には超現実に進むことはできない。ダリには、スタンドプレーが多く、講演会で潜水服を着て登壇したものの酸素供給が上手くいかず、死にかけたことがある(1936年、ロンドン)。象に乗って凱旋門を訪れたり、また「リーゼントヘア」と称してフランスパンを頭に括りつけてメディアの前に登場するなど、多くのネタを提供したが、いずれもどこか見え透いている。
ところで色は、どこでシュールになることができるのか。人間の眼には見えないような色は、そもそも描いても見ることができない。色の感じ方が変わるか、色の活用法が変わるか、それとも色の働きが別様になるように色を使うことか。これらはマティスが終生かかえた課題ではあるが、シュールという課題設定から導かれるようなものではない。
ブルトンが標榜した「無意識」の色はいったい何なのだろう。黒か青か透明か。あるいは意識の対極にあるような色とはいったいなんなのか。それは回答のない問いであり、この問いに進んでいくことは、際限のない工夫に入っていくことでもある。ただし簡単にはこれは報われそうにない。
色は意識の認識以前に成立する「前意識」ですでに感じ取られている。意識の制御以前に戻ることは、いったいどうするのか。意識的制御を解除するという事態には、この解除を意識を用いて行うという作為が「こっそり」と含まれてしまう。これでは意識の対極には到達できはしない。夢の世界に入り込むことは、特例が多すぎる。夢の色とはいったいどのようなものか。
青と黒の淵に触れたような作品が、ダリにはいくつかある。これが青に深さをもたせるやりかたである。消えゆく青ではなく、物に化してしまうような青であり、物の真闇のごく近くのある青である。「夢」がそれに相当し、左から光をあてた顔面が描かれているが、青から黒にいたるまでの深さのグラディエーションが使われている。「偏執狂的・批判的都市の郊外」の空も、同じ手法の青の活用が見られる。青の黒へと向かう深さの度合いを作品の中で描くのである。
マティスの青
マティスは、終生「色の法則」を探し続けた作家であり、おそらく色について最も考察を深めた画家である。このことは同時代に生きた12歳年下のピカソが、繰り返し語っている。ピカソはマティスのアトリエに頻繁に出入りし、多くの構想をマティスから借り受けている。借り受けるというより、こっそりと盗んでいるという事態に近い。このことは美術史家が丹念に年代的に作品を分析して、作品間の類似を見出したことによって明らかになっている。そのさい驚くのは、ピカソの「変形の能力」であり、由来が不明になるほど変形をかけ、自分の作品にしてしまう能力である。これはこれで途方もない才能なのである。
面として描かれる色彩が、他の面としての色彩との関係をもつとき、どのような色と色が並置とは異なる情感を生みだすのか。またどのような面の広さを持つ場合に人間の感覚は動くのか、あるいは色と色がどのような距離で配置されたとき感覚は情感を伴うのか。こうした問いに向かってマティスは終生試行錯誤を繰り返している。最高傑作の一つである「ピアノのレッスン」は、色の面積と距離との関係を規則化したものである。ことに「黒」の活用については、前例もなく後の展開もないほどの才気を見せている。マティスの絵を見た当時のスーパースターだったルノアールは、あの「黒」は真似ができないと語ってもいる。大手術の後に体力が落ちても、マティスは「切り絵」での捜索を繰り返している。「王の悲しみ」がこの時期の最高傑作の一つであり、油絵を描くほどの体力がなくなっても、「切り絵」で「色彩の法則」を見出し続けている。
マティスも青の活用を試みているが、背景色にとどまっているものがほとんどである。人物を陰りゆく青と黒で描こうとした作品はある。また床やソファーを青で描いた作品もある。連作である「ダンス」も身体の躍動と色との関係を探り当てようとしている。だが「青」の規則を見出すほど、踏み出したとも思えない。マティスにとっても「青」はまだ課題に留まり続けたのかとも思う。
マティス「エウロペの略奪」
ネモフィラ――群れの表面の青
ひたち海浜公園は、茨城港常陸那珂港区からそのまま立ち上がる小高い丘一面を占めて作られている。この公園の「みはらしの丘」の南西斜面一面に、この珍しい薄青いネモフィラが植えられている。斜面を占めるように面として植えられている。押し出しを押さえて、控えめだがゆったりとした感情が蠢いている。これが表面の青の性質なのかもしれない。いっさいの複雑さに至らないように、また強い感情に至らないように、中途でそのまま止まったような色調である。薄い青は、宙吊りの感情なのかもしれない。
ひたち国立海浜公園・海側斜面
一面の密度の花群れであり、静かである。椿やバラのように点在する群れではない。ひしめき合うような密集する青である。面となったこの青のなかには白が含まれている。面がどこか、またたくまに乱れ散るほど弱い。実際、はらはらするほどの弱さである。だがひ弱ではない。一面の弱さの密かさであり、本来日蔭にふさわしいものがそのまま面として前面に出ているという印象である。思わず前面に出てしまった青という印象である。というのもその後1週間も経てば、花の下の葉が大きくなり、一面緑の草原になってしまう。一面の緑は、芝の斜面のようにゆったりと落ち着き、おおらかな自然性である。
2018年5月の連休前の金曜日に、私は訪問した。週末には気温が上がるという予報が流れて、最後の見どころの週だと予報が出ていたのである。急遽予定を入れて、最寄りの東武東上線の朝一の急行に乗り、上野まで移動して、そこで特急に乗り継いでともかく海浜公園最寄りの駅まで行った。
開場前から、凄まじい行列である。改札ゲートをくぐるまで数十分かかる。公園は広大であり、フィモネラの斜面はゲートから最も遠い東端にある。ゲートを通過した人たちが、突然走り出す。小走りの人列が、数百メートルにもなる。金曜日早朝だから、仕事を休んで来ている人たちではない。また春の観光には間がある。4月の終わりのこの時期にしか見ることのできない風景である。何台もの観光バスが、ゲート近くの駐車場に停車している。小走りの列のなかでは、自分自身も走るしかない。周囲には前日関西を発ったと語っているひともいた。朝3時に車で自宅を出たという人もいた。週日であるにもかかわらず、人が殺到したのである。
青の斜面の間の歩道を歩きながら、青のなかを泳いでいたり、青のなかを浮いている感触である。前後は、びっしりと人に挟まれているので、容易には身動きができない。それでも泳いだり浮いたりすることはできる。外国人も多かった。そのなかには柵のなかに入ってしまい、フィモネラを踏み砕いてしまうものもいる。思わず浮かんでしまう。一面のネモフィラはそんな感覚なのである。
青のイメージ
ノヴァーリスに『青い花』という小説がある。どこか思い悩む病的な印象をあたえる。青には、隠されてしまっている病的さがある。ノヴァーリスは、青年の遍歴・自己形成を描くさいに、天性の詩人を主人公にしようと考えていた。この詩人は、詩を書く人のことではなく、宇宙を感じ取り、自然とともにあり、魂で生きる人のことであり、この青年の遍歴には、つねに詩が待ち構えており、詩に出会い、詩を生み出すように進む。この詩人が、ハインリヒ・フォン・アフターディンゲンである。ロマン主義の共通と思える特徴は、情感や魂で無限なものに触れていくことであり、論理的、形式的な記述に対して、感情の起伏を描く。そのため断片的に詩をちりばめて、小説を作り上げていく。そしてゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』に見られるように、詩人として自己陶冶し、光に包まれた詩人となっていく。詩人は、学識を積んだ学者以上に、多くのことを知り、多くのことに気づくのである。
眠りのなかを流れてくる風景のなかで、ハインリヒに強く印象に残っているものがある。ぜひとも一度は見ておきたいとハインリヒが願っているものである。それが「青い花」だ。暗い森のなかを歩き、泉のほとりの芝の上でしばし休養を取ると、泉のほとりに生えた一本の丈の高い花がある。それが青い花である。
この青い花は、遍歴する魂にイメージの焦点をあたえるものである。魂の動きが、その一歩先を思い描くときに焦点をあたえるのが、この青い花である。ラカンであれば、自分自身の分身である「対象a」を持ち出しそうな場面である。魂の溢れ広がる動きの焦点が、イメージとして実を結んだ時、こうした焦点化された像が生まれる。
たしかに青が個体化したとき、こうした焦点化が生まれる可能性がある。青のドレスやスーツには、過度に焦点化した強い記憶印象が残る。場面をいっさい思い出さなくても、この服装だけが記憶のどこかに潜在化しており、思い起こそうとしていないのに、それが浮かんでくることがある。青の個体は、そうした記憶の不連続点に存在する。このイメージを一方でもちながらハインリヒの成長物語を描くのである。
三島由紀夫の『午後の曳航』は、自称「天才少年」の物語である。少年は、余分なことを考え、余分なことを行い、余分な謀をめぐらし、余分な現実を創り出す。余分さが少年の特権であり、まさに三島由紀夫の分身のような人物である。三島は、余分なところに迷いこむ人たちを描く場合に、天性の才能を発揮した。なくても済むものを抱え込んでしまう特質を、三島自身が抱えていた。そして「金閣寺」を放火する少年や、学生ローン会社を立ち上げ破綻し、焼身自殺していく青年に敏感に反応して、取材し作品にしていく。三島は、こうした類型に「青」というイメージをあたえているように見える。
その天才少年の余分さに驚き、感銘し、おのずと手下になるものたちが周囲に生まれる。少年探偵団のように、隠れ家をもち、隠れ家で一定の頻度で、少年たちは謀議を図る。自称天才少年は、次々と悪質なことを思いつく。いつも身の丈を超え、背伸びしているのが、少年の特質である。そしてなくても済むことを思い込み、この思わぬひねり出しに喜びを感じているのが、少年である。それが「青」に近いのである。この少年は、全身邪気に満ちている。無邪気さのような戯れの嬰児ではない。わかりやすい幼稚性なのだが、幼児性ではない。これは天性の青である。
この天才少年の父親はおらず、不相応な若作りの母親と暮らしている。家では良い秀才で母親の期待に応えるように暮らしていると思われる。母親には、年下の船乗りである恋人ができる。少年に対して、この船乗りは父親代わりではないが、親しい大人のような振る舞いをしている。この船乗りが自宅にやってきて、母と夜の時間を過ごす。少年は、自分の部屋の節穴から、母と船乗りの行為を覗き見ている。光のもれる小さな穴が、少年の部屋から自分たちの寝室に通じていることを母は発見し、激怒する。母は恥ずかしさと浅ましさと、もって行き場のない思いに満たされる。少年は、この船乗りを世界から抹殺しなければならないと思うようになる。そして謀議をめぐらすのである。飲み物に薬物を入れ、この船乗りを薬殺しようとする。
船乗りは、過度に余分なもののない人間として描かれている。三島が自分では成ることができないと感じており、またそうした人物になれたらよいと内面の一部で思い続けている人間類型である。日に焼けた肌で余分なものを感じず、「観念的」であることに無縁な人間である。少年は、こうした人間にあこがれながら、しかも本人には不可能な人間なのである。少年らしい分かりやすさは、こうした身の回りの自然性を破壊していくことにつながる。
青にも内発性の激しさはある。だがかりに激しさがあろうとも、ゆくへのない激しさが基調であり、どこかに向かっているように見える場合でも、たまたまそうなったのである。たまたまの広がりこそ、青の特質である。この広がりには理由がなく、行く果てもない。そしてこの青を抱えたまま、この天才少年はおそらく「仮面成人」になっていく。仮面成人は、どのように安定した見え姿をもとうとも、いつも揺らいでいる。
日常生活の青
スウェーデン王立科学アカデミーが青色LEDを発明した3人の日本人物理学者にノーベル物理学賞を授与したのは、2014年のことである。黄と赤のLED発光は、かなり容易にできていたが、青色LEDは長期間の試行錯誤で、ほとんど困難だと思われていた。それが日本人の工夫でできるようになったのである。現在では、日本の各家庭用照明として活用されている。
三菱電機は2018年9月27日に、青空のような自然光を室内照明で実現する「青空を模擬するライティング技術」を開発したと発表した。薄型青空パネルとフレームを組み合わせた独自の照明構造をとっているようである。窓のない部屋や地下など、閉鎖的な室内空間へに適応して、光によって環境を変える試みでもある。2018年10月16日に開幕した「CEATEC JAPAN 2018」(幕張メッセ)に出展されている。
類似した試みは、パナソニック系の会社でも手掛けられていた。照明は、光源の位置からの広がりを使う。しかし空の青さには光源がない。どこから広がる光なのかがわからない。そのためには、光源の「位置」が実質的に消えていかなければならない。照明から直接光がやってくるのではなく、なんらかの素材に光を当てて、そこから散乱を強くして、散乱光が空間を満たすようにする。由来のない散乱が、青の広がりを作る。この場合、LEDそのものではなく、散乱を増幅させる素材が決め手となる。
仕組み自体は、背景光(バックライト)と同じである。いずれにしろ間接光である。光を当てたい場所の反対方向に発光し、散乱性の強い素材で反射させて、一面の光の広がりを創り出す。眼に見えるのは、反射した散乱光だけなので、茫洋とした青が見える。
三菱電機の製品では、フレーム部にLED光源を内蔵し、パネル内部に導光させるエッジライト方式を採用している。LED光がパネル内部の光散乱体に当たることで、昼間に空が青く見える光の散乱現象である「レイリー散乱」を発生させる。色の異なるLED光源の発光量を時間的に変化させることもでき、おそらく朝焼けや夕焼けなどを再現することもできる。パネルの厚さを、薄型に抑えたところが技術的な改良である。夕焼けや朝焼けは、散乱の少ない投射光である。そのため光の量の少ないごく短い時間帯に見える。
こんなことができるようになると、地下鉄の天井やデパートの地下の空間は、各種アート系の照明を設置できるようになる。夕暮れの時間帯には、オーロラを発生させることもできる。一日の半分は夜なのだから、人工的な光の活用の仕方は膨大な展開可能性があると考えてよい。青の環境での活用は、ほとんどが残された課題である。
参考文献
イヴ=アラン・ボア『マティスとピカソ』(宮下喜久朗訳、日本経済新聞社、2000年)
ガイユマン『ダリ――シュールレアリスムを超えて』(遠藤ゆかり訳、創元社、2006年)
ノヴァーリス『青い花』(青山隆夫訳、岩波書店、1989年)
前田富士男『色彩から見る近代美術』(三元社、2013年)
マティス『画家のノート』(二見史郎訳、みすず書房、1978年)
マルシェッソー『シャガール』(田辺希久子、村上尚子訳、創元社、1999年)
三島由紀夫『午後の曳航』(新潮文庫、)