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民族という罠――争いの地経学的生態学

河本英夫

 ほぐしにくい事態が起きたとき、哲学はいったいどのような貢献ができるのかと思うことがある。哲学には専門領域はない。だが哲学として固有に語ることのできる領域はあるに違いない。私自身は、国際関係には疎く、毎日データを取り、検討しているわけではない。それでも論争や紛争が起きれば、そこにはなんらかの解決への手立てが必要とされ、そのための議論の整理も必要となる。そしてほぐれにくいもめごとが起きたときこそ、その当事者や当時主体の固有性がもってもよく出るのである。何がほぐれにくくしているのか、どこを突けば事態の局面が変わるのか、これらへの感度と洞察は、まぎれもなく哲学の課題でもある。いわば論争の地政学、地経学というものがある。そして地政学的生態学があり、地経学的生態学がある。特定の地域を占めることの地理的、歴史的偶然を解消することはできない。そこに固有の議論や争いのモードも出現する。そして世界でも稀な形で問題を拗らせる隣国があり、大陸がある。哲学である限り、時事論争においても、最低10年は持続する課題は何かを見出していかなければならない。

チャイナ・ドリーム・モード

 2012年、尖閣諸島の帰属をめぐり、中国と日本との間で、もめごとが起きた。中国は尖閣諸島は自国のものだと主張し、日本は頑としてそれを認めなかった。だからといって、この問題はこじれてほぐしがたいものになる、というわけではない。尖閣諸島は、中国が海洋防衛と海洋権益で引いた、「第一列島戦」上にある。第一列島戦とは、中国の支配権を確定するシーレーンのことであり、他国は簡単にそこに踏み込んではならないとする海上ラインである。
 日本はそんなものを認めるはずはない。尖閣諸島は、現在誰も住んではいない。だから環境・気象研究所でも作って、日本と中国で共同管理することもできる。しかしひとたび中国の党関連企業や軍関連企業が尖閣諸島に上陸すれば、勝手にレーダー基地を作る可能性が高い。高いどころではない。まず間違いなくそうする。どのように事前に打ち合わせをしても、そしてレーダー基地は作らないと言葉で約束しても、中国は「自分の利益のためにできることは何でもする」という原則に貫かれた国である。そして尖閣諸島に中国のレーダーが出来れば、沖縄の米軍基地は丸見えになってしまう。だから日本もアメリカも、一切の曖昧な態度をとらず、中国の主張を拒絶する。
 こうなればもめごとへの基本的な態度は、「我慢比べ」である。これは中国とかかわるさいの一般的な関係であり、ある意味で普通のことであり、「常態」である。中国は、頻繁に尖閣諸島の接続水域や領海内に公船や準漁船を通過させている。場合によっては、海上警備艇を通過させている。日本は、そのつど海上保安庁の船を出して、立ち去るように警告を発する。それの繰り返しである。双方とも時間が経ち、局面が変わるまで、そうした行動をとり続ける。
こうしたもめごとは、実は国境警備では、世界中で起きていることで、実際にはもめごとでさえない。中国は中国で一度言い出したことを、「自分の間違いでした」と引く国ではない。一般にはメンツと呼ばれるが、メンツよりもそれを誰が言い出せるかが問題である。おそらく誰も言い出せはしない。言った途端に、国内(党内)で失脚するからである。
争いが起きたとき、それを調整するための国内の仕組みがない、というのが実情に近い。「戦略的撤退」という大袈裟な言葉を持ち出さなければ、誰も言い出せないのである。尖閣諸島をめぐりもっとも激しい争いになった時、人民解放軍の高位にあるものが、「尖閣諸島の帰属は未定である」と日本が認めてくれれば、自分たちも手を引くと非公式に言ったことがある。双方のメンツが立つようにと言うことなのだろが、そんなことは誰も信用しない。取り分を少しでもあたえればそこを手掛かりに次の取り分を狙う。いつもの中国の常套手段である。
 中国の言葉での「吹っ掛け方」は常軌を逸している。南シナ海は、2000年前は、中国の領土だったと習近平は言う。言葉で反論することがそもそも無意味なことを言っている。だからそれは主張ではない。誰も肯定も否定もできないただの「宣言」なのである。そしてそれを肯定しても何の意味もなく、同じように否定しても何の意味もない「宣言」である。フィリッピンからオランダ・ハーグの国際司法裁判所に南シナ海の領有権をめぐって提訴され、フィリッピンの主張が通り、中国には「権利はない」という判決が出た。そのときの判決文を取り上げ、中国の官製報道局は、「ただの紙切れだ」と言った。一般には、国際感覚で見れば、「ならず者」だが、それでも国連の常任理事国である。ここには「自分の規則は自分で決める」という大方針がある。そしてその大原則には、誰も取り合わないのである。
 アメリカの副大統領が、ウイグル人の人権が侵害されていると一般的な講演で述べたときも、中国の報道官は「アメリカも先住民族であるインディアンを虐殺してきた」と反論している。これは主張になっているのだろうか。インディアンの虐殺は、非難されるべきことである。だがアメリカも非難されるべきことをやっているのだから、自分たちもやってよいと言っているのだろうか。はたしてそれは理由になっているのか。たとえば比喩的に言えば、二人の悪人がいて、どちらの悪行がより悪質かを競うことに意味があるのだろうか。
あるいはアメリカは、中国の内政問題に口出しをする権利はないと言っているのか。人権には、原則国境がないのだから、少数民族の虐待や虐殺は、国内問題で済むはずがなく、たとえ国内問題であるにしろ、国内対応にも多くの対応の選択があるはずである。民主的な国家で複数の政党が国内にあれば、多くの異論が国内で出るような問題である。中国には国内で異論が出る仕組みがないのだから、国際社会が異論を唱えることは不自然なことではない。中国の言葉での応酬は、ほとんどジョークすれすれになってしまう。そして中国国民は、そのことを良く知っており、国家の言う公式発言は、それはそれとして聞き置き、それとは別の動きをする。
 こうした事態には、はっきりしたある別の趨勢が見られる。一般的に「国際機関」と呼ばれるものが機能しなくなっている。世界捕鯨委員会(IWC)では、クジラの商業捕鯨を多数決で禁じている。クジラの頭数が十分であることが証拠をもって示されても、クジラを取ってはいけないのである。そこでとうとう日本は、世界捕鯨委員会から脱退してしまった。ユネスコの財政を支える納付金の出資比率1位はアメリカであり、2位は日本である。アメリカはユネスコへの資金提供を停止し、日本も世界記憶遺産への中国南京の採択に疑義を示し、資金提供を止めようとしている。
さらに世界貿易機関(WTO)への加盟資格で、中国も韓国も自国を、開発途上国として申請している。台湾は、途上国申請を自分で取り下げている。中国も韓国も、一方では途上国だと言い続け、他方では経済力で世界2位、世界12位の先進国だと言い続ける。国際機関が有効に機能しないのであれば、個々の場面において2国間で交渉するしかない。これがトランプの直観であり、確信である。そしてどうやらトランプの言っていること、やっていることは、度が過ぎなければかなり当たっている。
 中国に対しては、原則が違いすぎるので、もめごとにはならない。お互いどこで止めればよいかをそのつど決めていくだけである。尖閣諸島は、日本も中国も、自分のものだと言い続け、睨み合いを続けるだけである。ここでは「行き違い」はあっても、もめごとにはならない。おそらくそこには「勝算が明確にならなければ、戦いはしない」という大原則がある。そしてスキがあれば、乗り込み実効支配するだけである。そもそも中国とはそうした国なのである。
中国には、「国境」という概念がない。それは共産党に「国境」がないことと同じである。少なくとも国境は相手の勝手に言っていることで、それを無視して国境は自分で決めればよい。ソビエトの崩壊騒ぎの時に、鄧小平は人民解放軍を国境のアムール川の中州に駐留させ、この中州を実行支配してしまった。だから中国とは、争いにならない。あまりに基本方針が大きく違いすぎるものは、実は接点がない。接点がないものは、争いではない。
このことの裏側で中国には、連邦制という発想がない。ソビエトも連邦制であり、アメリカも連邦制、最も早くにはドイツが連邦制である。連邦制は、それぞれの地域単位に高度な自治を認め、外交や防衛は連邦政府が担う仕組みである。おそらく中国共産党はこれを認めることができない。現在の中国共産党執行部の課題の一つが、ソビエトの崩壊のようなかたちにならないためにどうするのかである。
 中国は、広域経済圏構想「一対一路」に日本も参加してくれと呼び掛けている。この構想の運営母体が「アジアインフラ開発銀行」である。アメリカと日本が中心となって設立された「アジア開発銀行」は別建てで、すでに運営されている。そしてアジア各国で、各国の基盤整備に多くの寄与をしてきた。中国は、自分の管理下でインフラ投資を行いたい。アジア開発銀行の融資の利子は、0.5-1%程度であり、受け入れる国の負担にならない範囲で行われている。
ところが中国が行っているインフラ投資は、6-8%の金利で契約されており、インフラ投資で見れば、間違いなく高利貸しである。巨大なプロジェクトになれば、金利だけでも膨大な金額となる。そこでスリランカのように返済できない国は、契約に沿って、この国の最大の港の運営権を99年間中国に引き渡すことになる。一般に「債務トラップ」と呼ばれるものである。中国は最初から援助資金が帰ってこなくても、見返りは取れるというスタンスである。これは金融支援ではなく、開発援助でもない。
こんなものに協力してくれと、中国は日本に言ってくる。これに対して日本側は、相手国のなかで相手国の開発成長で協力し合うスタンスを取っている。これは賢明なやり方である。ベトナムの地下鉄の受注は、中国と日本で分け合い、ハノイは中国、ホーチミンは日本が工事を行っている。双方とも完成までの予定スケジュールからは遅れている。10年も立てば、結果の違いは明確に出てくる。インドの新幹線は、中国の高速鉄道ではなく、日本の新幹線を採用している。技術の信用度は、経済的な安さとは比較することができない。
 しかし中国の振る舞いや構想には、内部にたくさんの選択肢がある。その選択肢の中で、最も有効にかかわることのできるものを探し出してやっていけばよい。言葉で言い争うようなことは何もない。また中国は、貸したお金は帰ってこなくてもよく、借りたお金は返さなくてもよいという体質の国である。
 中国の資源として、「レアアース」がしばしば取り上げられる。大規模開発を国家補助金で行い、ひととき地域の河川が赤くなってしまった。価格を下げて他国のレアアース産業を圧倒し、レアアースの最大の輸出国になったのである。しかしレアアースの供給は、難しい技術ではない。レアアース濃度の高そうな地域の土壌から、大量のゴミを出しながら、レアアースを洗練、純化していくだけである。この程度の技術であれば、他国にもいくらでも代替案はあり、置き換えていけばよい。資源産業は、それ単独では長く維持できない。
他方、アジア開発銀行に対して、中国は、自分たちは開発途上国だと言って低利で融資を受け、その資金をそっくりアジアインフラ投資銀行に回して高利で貸し付ける。これでは国家ぐるみの「町金融」である。そんな事実を指摘されても、中国は別段やり方を変えはしない。ファーウェイの通信網にバックドアを仕掛けて、貴重な情報提供には党が報奨金を出している国である。党の党則ではそうなっている。一般的に、中国ではやられる方が悪いのであり、それは国内の競争でも国際関係でも変わりがない。ここまで異質であれば、行き違いはあっても、もめごとにはならない。しかもうまくかかわるやり方はいくらでもある。
2017年12月には、日中CEOサミットで、第三国での日中協力を取り決めている。「開かれたインド-太平洋」構想と、一帯一路を平行して連立させるという仕組みが述べられている。しかも日銀と人民銀行は、通貨スワップを結んでいる。外貨準備高世界1位と2位が、通貨スワップを結んでいるのである。通貨スワップは、双務保証であり、双方が相手の通貨を保証する仕組みである。
中国の急速な世界展開は、実は内部に多くの不確実性を生み出している。貿易では中国は巨額の黒字を出し、全体の収支である経常収支は、赤字転落すれすれである。IMFによれば数年後には中国の経常収支は赤字に転落するという予想が出ている。資金や財産は、恒常的に中国から海外に流出しようとしている。国家=共産党には、個々人や企業の財産を保証するという発想が、そもそもない。外資系の企業は機会を見て中国から撤退しようとしている。それが通貨の不安定さを招いてもいる。元は人民銀行が買い支えなければ、いつ暴落してもおかしくない状態を続けている。香港行政府で提起され、凄まじい反対運動で撤回された「逃亡犯条例」は、香港経由での外貨(ドル)の流出を止めるために考案されたものだともいわれている。資金の海外流出の窓口が、香港でありマカオのカジノである。
中国の国内総生産(GDP)は、基本的に「投資」+「消費」+「輸出」で成り立っており、急激な経済の委縮にもかかわらず、年6%成長だという数字が出されている。国内消費は、年間6%も成長するはずがなく、消費そのものには大きな変化はない。中国国内の自動車の新車販売台数が前年比割れの減少傾向を示していることから、消費全体で見れば、おそらくマイナスである。輸出は、アメリカが関税上乗せで締め上げていることから、極端に減っている。いずれ5兆円程度まで対米貿易黒字は減ってくると考えてよい。そうなると投資だけで国内不動産、国内固定資産への資金投入を行い、経済成長の数値を維持していることになる。
国内総生産の4割近くは、この固定資産投資によって成立している。誰も住まない巨大マンション群を作り、ほとんど乗り手のない新幹線網を作り続けているのである。それでも外貨準備高は、世界一位である。米国債の保有高も、日本に続いて世界2位である。ここにも不透明な不確実性がある。中国全体の総借り入れははっきりしないが、外国からの資金の借り入れで、外貨準備高が維持されている可能性が高い。借りたお金を外貨準備に実質的に横滑りさせて計上していくとも言われている。借りたお金も自分のお金なのである。
イギリスの資本は、対中流出超であり、むしろ逃げ出している。アメリカの資本は、微増であり、金額もごくわずかである。中国経済の外貨準備高を支えている唯一の国は、日本である。ダントツの資金供給を行っているのである。中国とアメリカとの関係が不調になれば、中国は日本にすり寄ってくる。これがいつもの構造的な仕組みである。
こうした場面でも中国では日本の支えが必要な状態が続き、この危うい不確実さの背中を、勘の良いトランプがさらに押し続けている。トランプの才能の最良のものの一つが、相手の弱点を的確に見抜く能力である。それはプーチンにも金正恩にも共通している。おそらくトランプは、プーチンや金正恩が個人的に好きなのである。

コリア・コード

2019年7月から8月にかけて、韓国と日本の間で一時的ながら、もめごとが続いた。日本側の再三の協議の呼びかけを無視し、韓国は一切の協議に対して有効な対応を取らなかった。懸案と言えるものが二つあり、一つは戦時中の徴用工訴訟による差し押さえの問題であり、もう一つは貿易管理上の物品の行き先についての協議である。いずれも日本側の呼びかけに韓国が対応してこなかった経緯がある。そのあげく韓国政権に対して、防衛上の理由で3品目の輸出管理を強化すると日本政府が発表したのが、6月末であり、韓国に激震が走った。
半導体製造に欠くことのできない3品目の輸出管理を徹底するという内容であり、その後貿易相手国として、韓国にあたえられていた優遇措置を見直し、通常の国に戻すという変更を行うという発表が日本政府から行われた。2段階の措置が用意された。以下がその一部である。
(「7月4日より、フッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素の大韓民国向け輸出及びこれらに関連する製造技術の移転(製造設備の輸出に伴うものも含む)について、包括輸出許可制度の対象から外し、個別に輸出許可申請を求め、輸出審査を行うこととします。」
参考:経済産業省「大韓民国向け輸出管理の運用の見直しについて」2019年7月1日)
 韓国政府の周辺では、7月末に日本で行われる参院選挙対策だろうといううがった読みが発信されたりもした。反日を叫べば票になる韓国とは異なり、日本の選挙運動で反韓・兼韓を叫んでも、まったく票にならないどころか、筋違いの主張をする変人だということで、むしろ票は減る。ありえない理由付けをするといういつもの習慣が、韓国で繰り返された。
 ところが産業界では、そんな読みはまったく関係がない。そして韓国政府は韓国内の主要30社の経営者を集めて大統領が懇談を行った。ここにはサムスンやロッテの代表は出席していない。この2社は、この時期日本で元キャノン会長と会っていたことが後に判明する。韓国大統領と懇談するよりもはるかに重大な事柄がたくさんあるからである。また文在寅大統領は、韓国内の各政党代表を集めて、緊急対策を行うとしたのである。
 韓国という国には、事柄の大きさとは無関係に、釣り合わないほどの騒ぎになる傾向がある。そして協議が必要な場面で、筋違い、場違いの騒ぎとなり、事柄が拗れてしまう。各政党の首脳部では、細かな意見の違いがあるはずだが、そこをすべてすっ飛ばして、複数個の二分法コードに集約してしまう。事柄に固有の対応ができず、どこかにあらかじめ使えるコードを想定して置いて、それを持ち出していく。だからいつも同じパターンであり、同じように騒ぎを創り出していく。
コリア・ドリーム・コード そのコードが、「愛国か、売国か」である。あるいは対日本でみれば、「反日か、親日か」である。このコードは何のコードなのか。果たして国が争点の主体となっている事柄なのか。
おそらく国を持ち出すときには、こっそりと「民族」が重ねられている。国を持ち出すときには、政治家であれば、国益を損なうか、国益を守るかが重要な基準となる。しかし国益は、ほとんど考慮されているようには見えない。日本による韓国のホワイト国外しという措置は、そこにどのような理由付けが持ち込まれようと実務的なものである。
だが韓国が国を持ち出すときには、二重に重ねられた「民族」が念頭にある。そして民族は、利益主体ではない。おそらく韓国にとっては、無意識的に自明となった民族意識がある。愛国というとき、国を愛しているのではない。民族への思いがこっそりと込められている。そのため民族は、「倫理情緒コード」である。侵害されてはいけないものであり、損害を受けるさいには経済的損失ではなく、民族が汚されている、つまり「侮辱」されているのである。
そして国と民族を二重に重ね、そのときどきに使い分けるという習い性となった習性がある。国家には明確な国境や領土や国民がいる。だが民族は、それとして自己規定するだけの内容がほとんどない未規定的な潜在的実態である。
そして難しいのは、国家と民族の距離感が韓国において一定しておらず、また政治的態度となって分離するほど異なる距離感の集団が成立してしまうことである。国家‐民族が安定した距離感にはなく、強く重なったり弱く連動したりしている。そのため意見ごとに、あるいは国内集団ごとに、この距離感は入り組んだモードとなる。保守政党と進歩系の政党では、折り合うことができないほどこの距離感の違いがあるように見える。国家の名のもので語られる内容を、民族の思いだと、ながらく日本は許容し、思いやってきている。この思いやりにはとうとう限界に当たったのである。というのも民族(国家)という韓国の体質に、国家として外交的にかかわることが難しくなってしまった。民族と国家は実は次元が異なり、どこに交渉点があるのかが決まらなければ、外交交渉にはならない。韓国がことごとく外国と捩れてしまう理由がここにある。
それだけではない。民族の思いに沿うように国家的発意を平気で組み直してしまうようなことが起きる。その場合には、多くの虚偽、ただの嘘、印象操作が、まるで自明であるかのように繰り出されてしまう。
民族の思いが同じ国家的発意になることはまれで、意見を異にするものが、どちらがより民族の思いを代表しているかを競えば、より強い民族の思いを競って内部での争いも生じ、争い合うものは「我先」を競うように、過度な主張をしていく。政権が変わるごとに国際的な言い分が変わる。こうして主張内容と主張のモードそのものが分離していく。
そのとき付帯的に、取るに足らないことを、さも重大事であるかのように声高に叫ぶことが常習化し、国際標準で常識的に見て理解しにくいような主張まで起きる。物事をことごとく誤解して、騒ぎ立てるような動向が繰り返し生まれる。それにかかわるものが抱く印象が、「韓国疲れ」であり、この語はすでに英語になっている。これでは韓国の言っていることを、ただちに「本意」だと考えることはできず、どのような発言であれ、また「その場しのぎ」の適当なことを言っていると感じさせることにもなる。「一生懸命に嘘を言っている」という事態が、常態化しているのである。
 民族は不思議な単位であり、システムである。中国は56の民族からなる多民族国家であり、アメリカは人種や民族のるつぼである。中国やアメリカでは、民族が問題になるさいには、大きな問題であり、繰り返し部分的な紛争が起きている。中国共産党は、国家の統一を維持するためには民族を押さえこまなければならない。現在際立っている問題は、ウイグル自治区の漢民族化である。そして韓国では、民族が自律的に国家を形成していない。現在でも南北に分断されたままであり、一部は中国内に朝鮮族というかたちで民族を維持している。この民族の入り組んだ事情が、さまざまなかたちで齟齬をもたらしてしまう。
 日本の場合、民族と国家がほぼ重なっており、また天皇家を中心とした民族文化と政府機関である国家とが、機能的に分離している。天皇家が直接統治を行う「親政」の状態は、歴史のごく一部に出現しただけである。つまり国家と民族の距離感が、信じられないほど安定している。中国では歴史的な知恵で、「民族」と「宗教」と「領土」については語ってはならないという政治風土がある。語れば解決不能な問題が生じるからである。それが中国の賢さである。だが韓国は逆にこの語ってはならないものを裏側に張り付けて自己主張している。
 韓国で用いられるもう一つのコードが、「被害者か、加害者か」というコードである。歴史の不幸な行きがかりで、被害者になることもあれば、加害者になることもある。日本はアメリカに原爆を落とされている。それは歴史の事実である。だからと言って、原爆被害者だとは言わない。アメリカに謝罪や賠償をしろとは言わない。台湾は、戦前には日本の統治下にあった。そのことで植民地支配を受け、被害者だとは台湾は言わない。仮の想定だが、台湾が自分で帰属を選べるという状況であれば、第一に独立を選び、第二に日本との連携を選ぶと考えられる。この事情は南サハリンでも似たようなものであるともいわれる。
台湾の現状は不思議な状態である。台湾は中国の一部だというのは中国の主張である。それを理解し尊重するというのが、中国と外交関係にある他国の判断である。台湾を独立国家だと認める国は減ってきている。歴史的に見れば、台湾は戦前日本の統治下にあった。そこに中国国民党の逃亡政権が逃げ込んできた。そしてこの逃亡政権が、自分を中国の本来の代表だとしばらく言い続けていた。日本の統治が終わり、台湾が独立した国家になるという国際協定が、どこにもないのである。さらに台湾が中国の一部だという国際的な規定もどこにもない。というのも現在なお少数ではあるが、台湾を独立国家だと認め、国交を結んでいる国が存在する。日本は、1952年のサンフランシスコ講和条約で台湾の統治権を放棄している。だが放棄された主権がどこにいくのかが決まっていない。
さらに韓国にもどると、「被害者か、加害者か」は、歴史の事実とは異なるコードであり、韓国に固有のコードなのである。もちろん実際に個々の場面で被害に遭ったという事実の指摘は出来る。だが「被害者か、加害者か」というコードは、個々の場面で被害に遭ったという事実認定ではない。たとえば個々の事実認定で言えば、韓国がすべてで被害を受け、日本がすべてで危害を加えたというような事実認定は、極端な妄想のなかでも起きることではない。論理的にありえないことを言っているからである。
歴史の事実とは異なることを、このコードは述べている。ある意味で、個々の事実認定にかかわる以前の「先験的なコード」なのである。朴槿恵が大統領就任時に、「加害者と被害者の関係は、1000年経っても変わらない」といったとき、このコードのことが言われている。駐韓国大使を務め、現在の日本では、最も実像に近い韓国を語ることのできる武藤正敏は、韓国の言う歴史は、個々の事実ではなく、あるべきもの、こうあるべきことに合わせて個別事例を配置するものだと繰り返して語り、一般の「歴史」と、韓国のいう歴史とはまったく異なったものだと指摘する。
このコードは、民族の位置から発せられる民族イデオロギーであり、民族的確信なのである。しかもコードであるから、個々の事実とは独立に、何度でも持ち出すことができる。従軍慰安婦の問題をめぐり、最終的で不可逆な解決ということで、日韓で協定を結び、10億円の基金を作って決着だとしていた。安倍総理と朴槿恵大統領との間で結ばれ、最終的な解決だとされていた。ところが文在寅は、「被害者に寄り添わない解決は、解決ではない」と言い出した。コードであるから、個々の事実との間には落差がある。この落差に何でも持ち込むことができる。そして見かけ上、ゴールが動いており、これが「ムーヴィング・ポスト」ということの内実である。
そのため日本は、韓国とは交渉できないと考えるようになった。韓国はコードと個々の事実の間のギャップを何度も利用する。そしてそれが見え透いていることに本人は簡単に気づくことができない。この落差の利用は、論理的には可能であり、隙間に「感情的な思い」を込めることができる。韓国は、ある意味でこうした言い回しの名人なのである。そしてそれに感情的に共感する人たちが、日本にも少なからずいる。
国際的に結ばれた条約や約束は、一方的に破棄することはできない。国際的な約束に異を唱えることは、必要な手順を踏むのでない限り、国内向けのポーズにすぎない。そしてここに民族感情が重なると奇妙な主張となる。国家間の約束の国際法上の意味と、民族にとっての意味内容がズレてしまう。
韓国が経済的に成長し、国が一定程度豊かになると、見かけ上「被害者」という事実認定は、無理な自己主張となる。アジアで中所得国の罠を脱した国、地域は、5つしかない。日本、韓国、台湾、香港、シンガポールである。日本ならびにイギリス関連国もしくは地域である。中国は、人口が多すぎて、容易なことでは中所得国ラインを突破できそうにない。韓国はすでに先進国である。そして先進国でありながら、被害者だという自己認定なのである。ということは先進国であっても、「奇妙な先進国」である。精確に、一人前の先進国ではない。たとえば科学的な基礎研究で、韓国では何人ノーヴェル賞受賞者が出たのか考えてみればよい。平和賞は出ている。だが科学技術の基礎研究は、経済とも政治とも別のものである。
 コードは有効に機能する場合には維持され、有効に維持されない場合には、ただちに置き換えられていく。ということはこの二つのコード(愛国/売国=反日/親日、被害者/加害者)は、よほど有効に機能するらしく、韓国の政治家にとってはうまみのあるコードなのである。
 騒ぎが起きて以降、たとえばユニクロで買い物をすれば、買い物をした人を「売国=親日」と呼ぶことができる。韓国ではユニクロの店舗は190弱あり、従業員約5000人の95%以上は韓国人であり、韓国人が韓国人を差別的に攻撃しているのである。そしてそれを愛国的行動だと自己満足することはできる。経済の動きの当然の移り行きだが、オンライン通販ではユニクロ商品の品切れが続出しているという。
こうしたコードに対して、どのように相対化しようとも、相対化の意見はすべて再度このコードのもとに配置される。つまりそれじたいで売国=親日と配置される。だからこうしたコードはつねに「原理主義的なもの」になる。また個々人を半強制的にこのコードに従わせるのだから、個々人にとっての選択肢が減ってくる。個々人にとっての選択肢の減少するコードは、原則「悪」もしくは「劣」である。精確に「劣悪」である。そしてそれは突発的な激しい社会的騒動を引き起こす。そして社会内の緊張を無駄なほど高めてしまう。
 ここにはある種の「ポピュリズム」が含まれている。しかも半ば煽られ強制された奇妙なポピュリズムである。「裏返されたポピュリズム」だと呼ぶべきかもしれない。「売国=親日」というコードを使って、それに反対の者を集合的に熱狂させるのである。それは政治的な支持率を上げるときの常套手段でもある。国民感情を煽り、煽られた国民感情をさらに「理由付け」として活用していくのである。
ここにはポピュリズムの全体的特徴のほとんどが出ている。すなわち(1)国家の分断を一方的に利用する、(2)被害者ビジネスを頻繁に活用する、(3)あらゆる場面で自己正当化を行う、(4)既得権益批判が全体の総体的利益を引き下げる、という特徴がことごとく表れている。
愛国か、売国かという二者択一は、本当は選択にはなっていない。だがこのコードが提示されれば、おのずと社会心理は特定の方向を帯びる。日本の措置を攻撃だと感じ取れば、ただちに「愛国=反日」を繰り出し、自分の支持率を上げることに活用することができる。このコードによれば、日本を旅行すれば、「売国=親日」であり、日本製のラーメンを食べれば、「売国=親日」である。あらゆる行動に適応できる。
「すべてに適応できるコード」は、それじたい空虚である。そして無理にそれを適用すれば、それじたい無理のかかった空騒ぎとなる。腹の調子が悪いとき、慌ててソウルのデパートのトイレに駆け込む。すっきり押し流して、便器の上で一息つく。TOTOの上で一息つくことは、「売国=親日」なのだろうか。
 また被害者ビジネスも横行する。被害者だから、韓国は日本から優遇されるべきだという主張である。加害者は被害者の言うことを聞かなければならないというもっともに聞こえる言い分のなかに、自分を被害者に位置付けることによって、優位に立てるという被害者ビジネスが蠢いている。コードは、それぞれの場面で詳細なプログラムとして分岐する場合だけ有効である。都合の良いときに都合に任せてコードを使えば、恣意的なコードの活用が出現する。それがコードの「政治利用」と呼ばれるものである。
実は被害者ビジネスはいたるとことで活用され、かつて駐韓アメリカ大使が韓国内で襲撃され、80針も縫う重傷を負う事件があった。そのさいも、韓国側は、アメリカだけではなく韓国もテロの被害者だと言って、自分を被害者に仕立ててしまった。そしてこんなものにかかわりたいと思う人はほとんどいなくなり、煩わしさだけが残ることに、本人だけが気づいていないのである。多くの日本人の印象は、「韓国もそろそろ普通の国であってくれ」というものである。
文在寅コード そして文在寅という第三のコードが出現した。これが物事を最悪の状態に追いやった現在の固有のコードである。おそらくこのコードには固有の付帯条件が付く。この大統領は経済も科学技術もただの無知だという前提条件である。そしておよそ信じられないことだが、文在寅は、いま起きようとしていることは「民族の第二の自律的な解放運動」であり、独立戦争である、そしてさらに自分こそがこの局面を成功させることができるという途方もない思い込みのなかにいる。民族の歴史を自分こそ書き直すことができるという自負であり、一般的に言えば「狂気」である。
狂気とは自分で自分自身から距離の取れないある種の緊張状態のことである。おそらく何もかも現実が別様に見えている。そして周囲の者をそこに巻き込むだけの力量はある。つまり革命家気取りの「プライド」があり、このプライドは伝染性のものである。そしてここにこっそりと含まれているのが、「民族」である。
文在寅は、もともと左派の弁護士であり、体質的には大企業とは敵対し、労働者の最低賃金を上げるという政策をとった。労働分配率を上げて、大企業から労働者に富みを分配させていくというものである。そしてそれは米中貿易戦争のなかで、貿易が縮小し、経済が停滞するなかで、韓国の中小企業にとっては大変な負担となり、最低賃金を上げるためには、雇用者数を減らし、会社をたたむところも出た。労働者への所得分配によって経済を活性化させるという文在寅の政策は、ほとんど失敗している。韓国の航空会社は、賃上げによってほとんど赤字に転落している。国民経済や国家経済ということが何もわかっていない。大企業こそ犯罪組織であり、親日である。こんな思いに溢れている。つまり国益ということが発想のなかにはないようなのである。
米中貿易戦争の余波で、輸出主導の韓国経済は疲弊している。韓国ではGDPの4割を輸出が占める。これでは貿易環境が変われば、一挙に立ち行かなくなる。行政府は、育てるべき業種を見定め、新たな産業の目玉を形成する方向で、政策を打つしかない。たとえば半導体でも通信機器、電化製品ではなく、AIの開発が必要となる。一時的に公的予算を使って、年限の決まった公務員を増やしても、ただの数字合わせにすぎない。
次に文在寅は、北朝鮮との和解をつうじて民族の統一というような数年でなんとかなるはずもない課題を自前で前進させるという旗を掲げて、北朝鮮からもアメリカからも信用されなくなった。金正恩にも会って、核を部分的に放棄すればアメリカは制裁解除に動くと適当なことを伝え、トランプには金正恩は核放棄の用意があると伝えて、双方ともを欺き、双方から相手にされなくなった。情報筋はそう伝えている。トランプは、すでに金正恩と直接話をすることができる。その場合、文在寅はノイズもしくは測定誤差にすぎなくなる。
常識的に見て、金正恩が核兵器を放棄することはない。アメリカが北朝鮮を相手にしてくれるのは、核をもっているからである。その点だけでアメリカは北朝鮮にかかわっている。核を放棄すれば、北朝鮮にはほとんど何もない。北朝鮮北部の地中資源は、ほとんど中国が占拠する。北朝鮮の東側の沿岸の漁業権は、すでに中国が買い取っている。文在寅は、「立場と手続きの違い」がわからないようなのである。変化はすべて手続きによってすすめられ進行していく。
一般的には、民族主義者は、右派である。ヨーロッパの民族主義はみな右派である。ところが不思議なことに文在寅は、左派であり民族主義者である。ここには韓国の抱える課題が複雑で入り組んだものだという事情がある。民族が分断されたまま異なる国家体制を取っている。それを北朝鮮をベースにして民族の統合を図るというのが、文在寅らの「主体思想」である。韓国の左派の思想モデルは、北朝鮮由来の「主体思想」である。この主体の内実は、国家ではなく、民族である。民族の主体性を唯一主張し続けることができたのが、北朝鮮であり、その象徴的な姿が「主体思想」である。
この主張は、大きな物語となって、韓国の歴史をまったく別様に描いている。つまり韓国はそもそもあってはいけない国であり、民族は北朝鮮のもとで統一されていなければならない。それが本来の姿であるにもかかわらず、歴史の過誤によって分断され、いまなお民族は分断されたままである。この歴史の誤りを実行してきたのが、韓国内の親日であり、それを支える日本である。左派のことだから物語にはいくつも分派があり、それぞれが韓国内で対立してもいる。だがいずれにしろ左派が民族をもとに物語を紡ぐという不思議な仕組みが出来上がっている。そのため韓国左派には、北朝鮮の地下組織の関与が繰り返しささやかれることになる。
物語は、現在の選択肢を増やす場合にだけ有効に語ることができる。だがこうした韓国左派の物語は、正統性の系譜を描くように語られている。自己主張に強固な理由をあたえている。この正統性は、国家の成り立ちではなく、民族そのもののあるべき道筋のことである。こうした物語は、左翼が民族主義と不可分に連結している特異な事態を示している。
たとえば米軍への基地反対闘争は、日本各地でも起きている。日本の右派の主張では、防衛を他国に委ねるのではなく、自前の軍備を持たなければならないというものである。これに対して韓国では反基地闘争を行っているのは左派である。日本の左派は、軍備そのものを減らし、軍備拡張に反対するという点で反基地闘争を行っている。韓国の左派は、民族の自立のために、反基地闘争を行っている。この点では、韓国の左派の主張は、日本の右派の主張に近い。
そして歴史を自分で組み直すという革命家きどりも、文在寅の特徴である。1965年の「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(日韓基本条約)と同時に締結された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓請求権並びに経済協力協定)は、「不平等条約」だという。当時の韓国大統領は、軍出身の朴正煕である。軍出身の大統領は、民意を代表しないという文在寅の思いがある。だが国際条約を一方的に破棄すれば、基本的には準戦争状態である。
左派にとって、一般に歴史では「未来が過去を決める」。未来において実現されることによって現在の意味が決まってくる。未来の実現形態において、過去が別様に再編され、未来において過去は未来の素材となり地層となる。ところが韓国左派は、実現されるべき未来を設定して置き、そこから割り当てられた過去の意味変更、過去の読み替えをあらかじめ創り出している。これは基本的には「空想社会主義」のやりかたである。
歴史を勝手に読み換えて、それを事実だと主張する。これじたいは歴史の誤謬に満ちた粉飾である。新たな法を作って、この法の制定以前の過去まで裁くような「遡及法」は、法理的にはよほどの例外でない限り認められることはない。そしてそれを堂々と韓国の左派はやってきたのである。体質的な学生運動上りが、そのままの世界観で世界とかかわろうとしている。そしてほとんど信じられないようなことが起きている。
2018年の夏の終わりに、韓国の大法院(最高裁)が、「徴用工」の慰謝料請求を認めたのである。労働の対価である賃金の支払い請求は、すべて請求権協定で認められているとおり、解決済み、もしくは韓国の国内問題である。しかし慰謝料分については、いまだ認められていないという。法の隙間を突くようなやり方であり、いつもの韓国のやり方である。韓国側の言い分は、おそらく(1)この判決は、個人が日本の企業を訴えたものであり、民事であって、国家を訴えたものではない、(2)日韓併合そのものが不法な状態であり、そのことによる慰謝料請求は残る、という2点である。
新たに出現した問題については、第三者を入れた協議会で協議して解決を図ることになっている。この国際条約でそう決められている。法的には慰謝料分は、すでに支払われたものの一部であり、賠償の名称区分の問題でしかなく、かりにそうした区分があるとしても単独で請求できる権利ではない。しかし韓国では、大法院の判決が出た以上、その判決に従って強制執行(差し押さえ)まで進められてしまった。
日本は第三者を指定した協議会の設立を韓国に申し入れた。文在寅は、それを無視したのである。文在寅の言い分は、三権分立に沿って、裁判所の下した判決に行政府は介入することはできないというものである。「理由は何でもつく。」そんなことは高校生にもわかる。しかもこれは韓国そのものの原理にまでなっている。
二国間の協議会を設置して、大法院での判決に対しては、さしあたり韓国政府や韓国企業が支払い、その後支払いの負担をどのようなかたちで処理するかというような協議へと手順を踏むことはできる。やり方はいくらでもある。だから「三権分立だから、行政府は対処のしようがない」というのは、ただの立場であり、言ってみただけなのである。
というのもこの大法院判決は、民事訴訟であり、日本企業への法的罰則を決定したのではなく、原告にかかわる利害の調整を決めただけである。その場合、代理弁済、代位弁済が普通に行われる。訴えられた日本企業には、国家に帰せられる戦争責任はない。判決では、国家賠償の衣を被せながら、個々の企業への民事訴訟が行われただけである。
一般に民事訴訟の場合、払われるべき給与が支払われなかったというようなときに、支払い命令を出すときに使われるものである。だがこの請求内容は、慰謝料である。信じられないような判決であり、国際司法裁判所への提訴が、普通の手続きであり、ドイツに対してドイツの周辺国からも類似した訴訟がなされている。そして国際司法裁判所の判断では、多くの場合、明確な請求権があるとは認められないという内容になっている。
一国の裁判所は、国際法に違反する決定をすることはできない。それは自明なことである。そしてこんな判決を相手にしたのでは、ほとんど労力の無駄であることは、常識的な感触である。これでは国際的な信用はまったくなくなってしまう。
信用の置けない国には、そのレベルで対応するしかないという明白な意思表示を行ったほうが良い。これが日本の安倍政権の取った選択であるように思える。相手の言い分を聞くことが、相手との合理的で最善のかかわりであるとは限らない。韓国が貿易で不当なことを行っているという疑惑は、かなり以前から流されていた。いくつかの国の商務関係の調査機関や諜報機関からの指摘もあった。中国産の鉄鋼を韓国に輸入し、それをベトナムに送り、ベトナムからアメリカに輸出するというような迂回輸出に関与している貿易業者も相当数いる。
日本から韓国に輸出した物品の行き先の不明な貿易に対して、日本は2018年末から何度も調査依頼、協議依頼を申し入れていた。韓国はまったくそれに応じなかった。韓国に送られたものが中国経由やイラン経由で北朝鮮に流れていたというほぼ確実な事実は、いくつもの調査と証拠に基づいている。
やむなく日本政府は、個々の貿易管理をきっちりと行い、韓国内の企業で、どの企業は信用ができ、どの企業が怪しいのかを、日本で調べなければならなくなった。韓国という国単位の信用を一度解除して、韓国の企業ごとに調べなければならない。そのレベルに変えておかないと危険極まりない。それが今回の「韓国のホワイト国外し」である。国が信用できない以上、個々の企業を日本で調べるしかない。
実は今回の輸出管理強化は、すでに成立している米国の輸出管理改革法(ECRA)と連動するものである。米国は軍事転用可能技術の流出を防ぐため、輸出管理強化を周辺国に求めており、日本もこれに呼応する形で2017年に外為法を改正し、輸出管理の強化に努めてきている。アメリカは通商法で輸出管理を行い、日本は外為法で輸出管理を行っている。そして日米は繰り返し緊密に連絡を取り合いながら、安全保障上の新たな問題にも対応し続けている。これに合わせて日本は韓国にも国内法を改正するように協議を申し入れていたが、韓国はまったく対応しようとはしなかった。アメリカはドル決済が行われる外為取引記録から、日本から輸出された一部物品について、奇妙な取引が行われていることに気づいていた。日本も法改正に合わせ韓国側にも協議を呼び掛けてきたが、これにも韓国側が応じなかった。
この輸出管理強化は、軍事転用可能な物質の輸出規制にかかわるものであり、韓国にはそうした敏感な問題に対して細かく対応する能力がないことは、アメリカも日本もよくわかっていた。アメリカが韓国に言っても、ほとんど言うことを聞かない。これまでもよくみられたことだが、アメリカはそうした場合には日本に何とかしてくれと言ってくる。そして日本が尻ぬぐいをしてきたというのが歴史的経緯である。今回もまたそうなった。
韓国は繰り返し過去にも、米韓軍事機密を中国に流し続け、中国から優遇を受けることをただちにバレルのを承知で行ってきている。そしてアメリカからクレームがつくと、そのつど「反日」を持ち出してきたのである。
輸出管理に対して、韓国はいつもの筋違いで「貿易面での日本による報復」だと言い、「制裁」だと言って、機会あるごとに国際社会に訴えるという、いつものような騒ぎに持ち込もうとした。日本は国家という行政単位の信用を解除するという決定を行った。ところが韓国は民族への攻撃だと受け取っている。このズレは、当事者自身にとっても簡単には明るみに出ない。筋違いが筋違いを引き起こし続けた。
日本の参議院議員選挙運動の期間中(2019年7月)にも、韓国はアメリカに乗り込んでロビー活動を行っている。そして誰からも相手にされなかったのである。この件について、アメリカが乗り出して仲裁してくれるという韓国の期待は、すべて空振りに終わっている。やり方はいつものパターンであり、国民や国際社会に誤った煽動情報を流し、味方につけるというものである。そしてこれはもう簡単には機能しない。
紛糾のコード どこかおかしいのである。文在寅のコードを取り出してみる。(1)起きている事態の固有の選択肢を考えなければならない場面で、別の場面、別の次元での理由を持ち出して、自己正当化する。貿易問題は、個々の企業間の取引であり、国は管理だけを行っている。それを国対国の問題にすり替えて、さももっともらしい言い分を添えて言い募る。
(2)自己正当化のためには、どのような理屈でも述べる。そしてそれが通っているかどうかは、基本的にはまぐれあたりがあるかどうかに依存している。韓国のアメリカでのロビー活動のなかでは、中国のファーウェイを締め出すためには、韓国のサムスンを盛り立てることが必要だというような議論を、アメリカの議員に対して行っていた。ファーウェイの組み立て作業の最大の部品提供先がサムソンであることは、良く知られている。韓国のロビー活動での訴えは筋が通っているのだろうか。まさかアメリカ議会にまで出向いて、ジョークを言ったとも思えない。ジョークではなく、必死で訴えると支離滅裂な理由付けが起きるようである。因みにファーウェイとサムスンが立ち往生して喜ぶのは、アメリカの半導体産業(マイクロン)であり、台湾の半導体産業(TSMC)である。こうした言動は、SNSではしばしば見られるもので、ほとんど辻褄が合っていなくても、どこかで誰かが反応してくれればよいと発せられる言動である。
(3)論点をずらし、問題を別の問題へとすり替える。日本が輸出管理を言い出した時、韓国野党の議員が韓国政府の資料を持ち出し、4年間で150以上の不正輸出の摘発があったという事実を明るみに出した。実際に、韓国の企業から不正輸出が行われていたのである。文在寅は、その資料をもとに、韓国政府はすばらしい管理を行っていることを示す実績表だと自慢した。問題なのは、150以上の不正輸出を行っていた韓国企業名であり、どこに送っていたかである。アメリカやイスラエルが知りたいのは、その点である。
だが韓国は、自国の管理体制に自己満足し、まったくデータを出さない。出さないのではなく、実は出せないのである。日本で輸出管理を行っている行政スタッフは150人程度おり、厳格な作業を行っている。韓国でのスタッフは10人程程度であり、これではまともな仕事になっているはずがない。韓国のスタッフは、総勢60-70人と公表されているが、その大半は半官半民の作業員であり、ほとんどは記録を残したり、事務整理である。これでは軍事転用可能な物品の輸出管理を行うことはできない。技術面で、物品のどこが軍事技術に転用可能なのかをそのつど詳細に吟味しながら検討するしかない。そして関連国とそのつど協議しながら行う作業である。現状は、韓国は輸出管理では、「ザル」状態だった。
そこでとうとう日本が輸出管理をやらなければならなくなった。韓国には輸出管理を行うキメの細かい行政システムがない。このことはアメリカも日本もわかっていることである。実務的な欠落で生じた問題をただちに感情的な「攻撃」だとすり替えて受け止めてしまう体質が、問題を複雑にしてしまう。そして文在寅は、「日本には負けない」というのである。まったく物事の本筋を外した議論である。文在寅の自己正当化だけをもくろんでの発言は、すでに一人芝居(ショー)以前である。
(4)問題が生じれば、いつも自分以外のところに原因がある、というように問題の局面を変えてしまう。従軍慰安婦の問題で、文在寅は、「被害者に寄り添わない謝罪は、謝罪ではない」という。被害者に寄り添うことは、基本的にはアフターケアである。アフターケアをどうするかは、基本的に韓国の国内問題である。それを朴槿恵と安倍の合意が不十分だとする話に作り替える。明らかにこの作り替えは、「政治利用」である。国内政治に日本を巻き込んで、混乱を創り出すのである。効果は抜群である。日本を巻き込めば、支持率が上がる。
(5)課題解決のために、お願いする場面でも、相手に恩を売るというポーズをとる。韓国の国内外貨準備高は大きくはない。ドルの蓄積が足らないのである。そこでウォンが値下がりすれば、ヘッジファンド(ハゲタカ)に猛烈に売り浴びせられる。ウォンが極端に値下がりすれば、もはや必需品の輸入さえできなくなる。国内は極端なインフレとなる。これが通貨危機である。韓国では10年に1度程度起きている。そこで韓国は、通貨スワップを結ぶ必要がある。2年に1度程度再契約していることが多い。日本に対しては、「日本が希望するなら、スワップを再契約してもよい」と韓国は言ってくる。さすがにバカバカしく、日本でも麻生副総理が、笑いながらぼやいていた。日本が韓国と通貨スワップをむすぶことはもうそうとうに難しくなっている。韓国は、アメリカとの通貨スワップも修了しているので、残った通貨スワップ相手国は、中国だけである。ところがこの通貨スワップは、元とウォンで結ばれたスワップである。このスワップでは、ドルはまったく調達できない。元は紙くずのように刷ることができるので、国際的信用としては支えにならない。実際韓国が通貨スワップを結んでいる国は、中国、UAE、マレーシア、豪州、インドネシアであり、いずれも各国通貨とのスワップなので、ドル調達はできず、しかも規模も小さい。
ちなみに日本はインドとは約7兆円の通貨スワップを結び、中国とは3兆円強の通貨スワップを結んでいる。またアセアン諸国とは、各種通貨保証協約を結んでいる。経済的に見れば、通貨スワップを結んでおいた方が無条件に利益となる。こんなことさえ分からなくなるほどの民族のプライドなのである。
日本もハゲタカに狙われたことが何度かある。ハゲタカは円を売り浴びせる。外為市場で巨額の売りがでると、日銀はただちに察知して、円買い、ドル売りを行う。1日平均1兆円もの円買い、ドル売りを行い、それを一月も続ける。そうするとハゲタカに大損が出て、多くの場合アメリカのヘッジファンドでさえつぶれてしまう。日銀に潰されたヘッジファンドはたくさんある。日銀は、大幅に買い越した円を使い、後になって米国債を買っておけばよい。こうしたことのために一定額の外貨準備が必要になる。
(6)あらゆる問題を対抗形に持ち込み、戦いの装いをもたせることで、選択肢を減らす一方で、ありもしない夢を語り続ける。グローバル化した時代に、「対抗形」で起きている事態はほとんどない。それを対抗形に持ち込むのである。文在寅は、日本によるホワイト国外し後の緊急のテレビ演説で以下なようなことを言っている。そこでは克日の解決策として「平和経済」に言及した。8月5日、青瓦台(チョンワデ、大統領府)で開いた首席秘書官・補佐官会議の冒頭発言で「日本経済が我々の経済より優位にあるのは経済規模と内需市場」とし「南北間の経済協力で『平和経済』が実現すれば、我々は一気に日本経済の優位に追いつくことができる」と言っている。ここまでくれば、「頑張ってください」と応援するしかない。
おそらく文在寅には履歴的に、空想社会主義に近い議論を、狭く先端的な集団で重ねてきた前史があり、気質的には軽度の「サイコパス」気質もしくは「言い訳に満ちた頑迷」があり、人との関係では軽度「演技性気質」もしくは「自己正当化された演出」(虚言癖)があると推測される。トランプがこの人物に不思議な嫌悪感を感じていることには、十分な理由がある。おそらくトランプは韓国とのディールはできないか、極端に不自然なものになると感じているに違いない。
ネットワークへ 韓国という国の体質改善が問題になる。だが基本的に韓国のことは韓国で決めればよいことであり、日本がそれに巻き込まれる必要はないし、巻き込まれないほうがよい。それにかかわるものに煩わしさ(鬱陶しさ、理不尽さ、非合理性等々)を感じ続けさせることが、民族の自立の方策の一つとなっている。私の田舎の方言では、そうした人たちを「よだきい」人と呼んでいた。古語の「よだけし」から来ている語だと思われる。そうしたことが事実であれば、おそらくそこには根の深い体質的問題が含まれている。それが民族の防衛的な本能なのである。反日とは、民族の文化的伝統であり、国家を運営する政権がどのように変わろうとも、おそらく存存し続ける。
詳細なデータを持ち合わせてはいないが、現在の韓国大統領府(青瓦台)には、留学経験のあるものが少なすぎるのではないかと思われる。短期の旅行とは異なり、少なくても1年2年でもよいので、海外で暮らすことは、別の文化を体験するためには欠くことのできない条件である。海外で言葉も十分に通じない場面で、それでも相互にやっていけることのなかで、相手の文化はおのずと身についてくる。こうした留学経験を積んだものが、現在の青瓦台スタッフには少ないのではないかというのが、正直なところである。
相互の能力をできるだけ発揮できるように相互のかかわりを形成することが、相互関係の基本である。それにもかかわらず、相手に煩いをあたえ、当人は余分でほぼ無駄なことをし続けて、自己主張と自己維持を形成しようとする。相互の能力を発揮できないようにすることが、かかわりの基本となる主体。驚くべきことである。
そしてそのことの現実形態が、(1)一切の合理性やネットワークとは無縁なかたちで、そのつど言えること、訴えられることはなんでも持ち出す。相手が反応してくれれば正解という行動の原理がある。(2)物事を対抗形にしたときに、こっそりと民族の誇りやプライドをくすぐることができるとよく知っている。(3)対抗形のさまざまなネットワークのなかで、自分はバランスを取る位置を占めることが有効であり、バランス感覚が優れているという自負と思い込みがある。各国とかかわるさいのかかわりで、相手を自分のペースに巻き込むことができるという途方もない自負とプライドがある。
今後、アメリカは対中国を基本とする「インド-太平洋戦略」を採択するであろう。そこには日本、インド、オーストラリアを中心とした、「広域中国牽制網」が形成されるであろう。軍事的には、太平洋への進出を狙う中国に対して、日本の琉球諸島、台湾、フィリッピンが第一列島線で抑制ラインとなる。台湾には、すでに米軍の海兵隊が駐留している。アメリカの国会議員や公務員は、台湾に合法的に訪問できるように、アメリカ議会で法律は通っている。アメリカとフィリッピンには、軍事同盟がある。
このとき韓国はどう振舞うのだろう。多国間のなかでの韓国との交渉が必須となる。あるいは韓国とかかわるためには多国間でやったほうが良い。たとえばTPPは、韓国は未加盟である。TPPのような多国間と韓国との関係という仕方でかかわったほうが良い国である。法的な問題が生じれば、「国際司法裁判所」で判決を出してもらうほうが良い。貿易にかかわることは、WTOに提訴してもらったほうが良い。その方が煩いが少ないのである。このとき日韓関係は、日本‐韓国の関係、日本から見た日韓の関係、韓国から見た韓日の関係、さらに日韓関係以外のネットワークのなかでの日韓関係という要素が明示的に組み込まれる。変数を多くして関係を築くことが必要となる。
少なくても韓国は例外的な国ではなく、ごく普通の国の一つとしてかかわることが必要なようである。この点で見たとき、現状はかなり改善された状態であり、むしろ普通の国とのかかわりに落ち着いてきている。日韓が歴史的に最悪の状態というのは、おそらく短期的なただの思い込みである。ようやく普通の関係に戻ってきたのである。現状をそのように捉えることによって、実務的な手順以外の各種、各モードの余分な騒ぎは止めたほうが良く、また止めるべきなのである。「炎上ビジネス」を仕掛けたり、「炎上ビジネス」に加担するようなことは止めた方がよい。
騒ぎとは、必要を超えた余分な振る舞いと情報のことである。そして騒ぎは、まさにそれ自身によって騒ぎを自己正当化するのである。これこそ避けなければならないことである。
さらに普通の国になりにくい理由が、韓国には内在的に存在する。国家と民族が二重にかさなったままそのつど都合の良い方を持ち出すという仕組みを活用しているからである。国家と民族の二重分岐をそのつどこっそりと使い分けているのである。国家の利益と民族の自尊が、整合しない場面で、そのことははっきりと出て来てしまう。実は民族の自尊と国家利益は相互に変換しながら折り合わせることができる。そのためこの変換の回路を見出しながら韓国とかかわるのが筋である。ところがこの変換が効かない場面に、韓国自身が入り込んでしまうことがあり、いったい何が起きているのかと騒ぎになることがある。
防衛上の条件では、できるだけ多くのネットワークを整えておいたほうが良い。それが国益にかなう。日本と韓国の間の防衛上に機密維持を定めたGSOMIA(軍事情報包括保護協定)は、維持したほうが国益にかなう。日本の情報衛星は8個地球を回っている。韓国には自国の情報衛星はない。韓国の気象衛星は日本が打ち上げたものである。だがこんな場面でも、民族の自尊がこっそりと持ち込まれてしまう。GSOMIAという日本、アメリカ、韓国を結ぶ要の協定を、自分から破棄すると騒ぐのである(2019年8月22日)。
国家は、一般的に国際的に共通の利益に向かう。共通の利益を最大化するように交渉はなされる。それが国家間の外交である。だが民族の自尊は、多くの場合、対抗形を取る。国家はみずからの内実を自分のなかに含んだ実態であり、へーゲル的に言えば「概念」である。これに対して、民族は対抗形ではじめて姿を現す潜在態である。一般的には民族は表にでてはいけない。民族が表面化すれば、国益を捨てても、対抗形が前景に出てしまう。国家とは民族を表面化させない仕組みでもある。
民族を前景化して二次的に国家を重ねると、そこに右派の国家=ファシズムが出現する。これが右派として繰り返し出現していることである。そして韓国の左派が、今回これを行ったのである。ちなみに中国は、国家としては国家資本主義であり、全体主義的資本主義であるが、裏側にこっそりと「漢民族イデオロギー」が張り付いている。これが問題を複雑にしている。
今回の事態を韓国の国益のかたちで語ろうとすると、ほとんどが理解できない主張となる。韓国の主張が支離滅裂と言われるのはこの場面である。GSOMIA(軍事情報包括保護協定)の破棄についての韓国報道官の説明では、貿易上の優遇国から韓国を排除するという日本の決定が、安全保障の理由からなされているのであれば、軍事協定での安全保障の維持は難しいことを理由にしている。安全保障面でのかかわりは、国益でみればできるだけ多くの選択肢を維持しておいたほうが良い。協定は維持したほうが良いに決まっている。少なくても、28000人の在韓米軍にとっては必要なことである。
ところが「安全保障」という言葉で述べられた韓国政府の説明の内容を精確に読み解けば、自分の尊厳を傷つけたものには、相応の報復が必要であるという主張である。相手が自分を信用しないのであれば、自分も相手を信用できない、ということになる。これは外交とは異なるコードが働いていることを意味する。国家ではなく、民族の自尊が前に出ている。
貿易管理上の輸出管理では、韓国は、貿易管理体制を整備して、間違いなく管理できることを韓国政府が証明すればよいことであり、その手続きの延長上で日本と交渉すればよいことである。軍事防衛は、多くのチャンネルをもっていたほうがよいことは、無条件にわかる。それらは別個の手続きであり、個々に対応すべきことである。「安全保障」という言葉だけの共通性で、まるで日本の輸出管理と軍事防衛協定が、バーター取引であるかのような印象操作を行っている。実際に起きていることは、民族レベルの「やられれば、やりかえす」という対応であり、相手が信用してくれなければ自分も信用しないという対応である。
文在寅は、「一度約束したからと言って、それで問題が終わるわけではなく、過去が終わりになるわけではない」と公式発言で述べている。たとえば夫婦仲が悪くなり、離婚協議で取り決めを行った後になって、相手から「約束したからと言って、過去が終わりになるわけではない」と言われたらどう思うのだろう。誰にとっても、そんなことを言う人間とはできるだけかかわらないようにするというのが正直な思いであろう。
外交としての国家の約束と民族の思いが、ここでもすり替えられている。外交としての約束は、いずれにしろ国家間の約束である。そのことと民族の思いは確かに異なっている。民族の思いも察してほしいと言うことと、国家間の協定を民族の思いにすり替えることは、ただの筋違いであり、この発言は国内向けのものであるか、ただ言ってみただけかのいずれかである。
韓国は、普通の国にはなれない理由が、自分自身のなかにあることに気づく必要がある。だがそのことに気づく様子はない。というのも民族は、みずからの自然性の延長上にあり、通常気づくことさえないのである。ここに大きな謎と罠が含まれている。この謎と罠は、歴史と地政によって複雑で入り組み、本人にも明るみに出ない心性を帯びている。そのためイ・ヨンフンは、朝鮮民族に代えて「種族」だという言い方に代えている。民族は国家に組み込まれ解消されるようなものではない。民族にかかわる紛争は、中国のウイルグに見られるように国家に組み込めば終わりというようにはならない。
しかも韓国国内でもはっきりとした陣営の対立になってしまう。韓国の保守派は、北朝鮮との関係は、国家レベルで解決し、国家同士として緩やかな連帯性を創り出す方向で解決を考えていると思われる。ところが左派の文在寅は、民族の統合の元に二つの国家が再編されるという方向で考えているようである。保守派は、国家レベルで北朝鮮との関係を設計しており、文在寅は民族レベルで北朝鮮との統合を設計している。
国家は、ヘーゲルの組み立てでは、市民社会における自由な個々人の争いが、国家によって和解に持ち込まれるように描かれている。市民社会とも国家とも異なるレベルに民族はある。そして市民社会から国民国家へとつながる回路には、民族は成立していない。むしろ民族は、家族の延長に、同族が成立し、同族の集合体が連鎖的に集まったものというイメージに近い。民族には自己規定する境界はなく、民族であることの自己形成の歴史もない。だが生きていることの現実性を背負い続け、かつ国家利益には解消されないレベルに民族はある。個々人から見ても国家から見ても、民族は解消できない底なしの謎であり、精確に罠なのである。

参考文献
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  武藤正敏『文在寅という災厄』(悟空出版、2019年)
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  渡辺哲也『韓国大破滅入門』(徳間書店、2019年)

(2019年9月25日)

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