情報暴走族――内容と空騒ぎの極端な乖離
河本英夫
2019年1月21日に、卒業まじかの哲学科4年生F君が、大学の授業がまともに回らないほどの規模に膨れ上がっているという「不利益」の訴えと、学内に「新自由主義」を唱える某教授を抱え込んでいることの不満を訴えるという内容の立て看板とビラ撒きを行い、学生部の職員に拘束されて、半ば強制的に言動を停止させられるいう「出来事」が起きた。
最近では珍しくなったある種の「事件」であるために、ただちにメディアが報道した。メディアの力点は、立て看板やビラ配り程度で、大学職員が伝えたと言われる「退学勧告」がなされるのか。それは不当なことではないのか。またそれと同時に、このビラに含まれる「新自由主義」の某教授が、教員として適格なのかどうかにかかわっている。F君自身がフェイスブックで公開したために、便乗機会を狙っている者たちが、ただちに動き出したというのが実情である。
メディアは、騒ぎがあればそれに便乗して情報価値を創り出すのが仕事だから、我先に飛びつくように騒ぎに乗り書き続けた。こうなるとユーチューヴの発信者も、格好のネタとばかりにただちに動き始めた。ヒラツカマサユキ(さゆふらっとまうんど)というプロのユーチューヴァーは、この件でも出番とばかりに乗り出した。そして何度も大学に電話をかけ、それをアップしては発信し続けた。電話相手の音声も公開されているので、実際には相手の了解がなければ公開できない代物である。そして膨大な動画が作成され、やがてすべては一時的に削除された。
また「新自由主義」を標榜する某教授は、これ以前にも多くの場面で、取り上げられていたので、また物議を醸したという件である。新自由主義は、経済の拡大局面では、有効に機能する。だが経済が停滞したり、縮小する場面では、そのままでは簡単には機能しない。むしろ停滞した小さくなるパイを競い合って、社会内では結果として格差が拡大する。このとき自由な競争を行うための基礎的な条件が整わなくなる。競争のための条件設定ができない場面で「競争」を持ち出しても、実は競争になっていない。この場面でさらにどうするかが「新自由主義」の課題でもある。現実に行われている政策は、補助金という最低限の保証をあたえるというものである。これは各人の社会権(生存権)への配慮であって、実は競争のための条件を整えることではない。
たしかに大学の学生部の職員は、場慣れしていないという印象である。場数を踏んできた職員がいれば、もう少しまともな対応はできたのである。職場の配置転換によって、ベテランの職員の数が減ってしまっていたというのは事実である。この騒ぎをおさめるためには、ファイスブックに投稿した本人が納めるしかないが、すでにして本人はメディアのインタヴューに応じている。つまりもう本人の手から離れて、ローカルではあるが社会的騒動になってしまっている。
2月5日の文学部教授会では、学部長がこの件を報告し、この学生を退学にするような処分は行わないことを確認している。だが本人自身が、社会的騒動にするつもりでおこなっていることだから、おさまりようがない。
そして以下の公開質問状をF君は、大学当局に提出したのである。回答はどのようにでも行うことができるが、問題なのは、回答したとしてもそれをまた騒ぎのネタに活用されるという疑念が付き纏うことである。
F君が大学の改善を希望するのであれば、それにむけて取り組むことのできるほどの環境がなければならない。F君の思いが真摯なものであるのなら、大学はそれを聞いて、採ることのできる選択肢を考案することもできるはずである。だが現状はそうした動きにはなっていない。現時点でどのように回答しようとも、言葉の末端をいじくるようにまた騒動のネタに活用される可能性が高い。それではまともに対応することはできない。
F君は、ファイスブックに自分の行動について発信している。この行為は自分の意向を多くの人に知ってもらうためのものである。だがそれは発信された途端に、たとえそれがどのように善意に満ちた思いから発信されたものであっても、現在の社会ではその思いとは裏腹な方向に進んでいく。F君の思いは、騒動のネタとして一時的に活用されるのであって、大学はそれを「まともな提案」として聞くことができなくなる。
情報ネットワークの時代では、かなり難しい選択である。情報ネットワークは、それじたいが、情報の真偽、内容の良し悪しを考慮すると言うより、騒ぎが続く方向で自動的に作動を続ける。だからツイッターは、「バカッター」ともいわれる。自動的に騒ぎが続くという方向で、情報は流れる。ところが現実の問題への対応は、個々の手続きと配慮の行き届いた対応が必要となる。こうして要求される対応と、情報ネットワークは、実はうまく整合させることは難しい。この難しさを、F君の言動は、あらためて示すことになった。
実際には、F君は最初に大学に改善要求を送り、それに対してかりにまともな改善案が示されなければ、立て看板とビラに訴えるという手順が、まだましな手順だったとも思える。少なくとも、大学の改善要求とそれへの事務的な手順への配慮以上に、大学はネットの騒ぎをどう収めるのかを配慮しなければならない。これはF君の思いとは、異なる方向で事態が進んでしまっていることを意味する。
もう一つやっかいなことがある。学生部の職員による立て看板撤去は、撮影され公開されている。まるで待ち構えているように撮影が行われている。事前に用意されたものだと考えざるをえない。他の大学(都内)でも行われた可能性のある手口である。F君単独で行われているように見えながら、周到に準備されていた可能性がある。そしてそこにある学生運動家たちのネットワークが見え隠れしている。おそらくある政党に近い者たちのネットワーク(もしくはセクト)が協力しながら、そのつど作戦を立てて実行しているようにも見える。その意味では、学生部の職員は、ある意味では「ハメラレタ」のである。そしてそうである限り、第二、第三のF君(同調者)は準備されていくにちがいない。
だから今回の事件は、政治的活動として協力しているものの集団と、ネット騒ぎ集団による浮かれネットワークの波間で、F君が浮き沈みしているという情景が現実に近いのであろう。ほぐしにくいほどの多変数が関与している。
なぜほぐしにくいのか。大学への改善要求は、それはそれとして政治的活動であり、筋を通せば明白な大義を主張することにもなる。だがF君が同時に行っているSNSへの情報公開は、大義の主張とは別の方向へと進んでいる。込められた思いと現実の動向は乖離し、大義の主張に協力している集団は、騒ぎに隠れて周到に作戦を練っているように思われる。これが今回の現実性の内実だと思える。
こうして何が本当のターゲットなのかが決まらなくなっている。しかも事態の動向は、複数の動きが異なる仕組みで動き続けながら捩れている。学科の一教員であっても学部長であっても学長であっても、容易にはほぐせない仕組みが出来上がっている。このことが一過性の騒ぎに留まらず、今回の件を「事件」へと作り上げている。ネット上で作り上げられた、「大義」と「愛」と「真実」は、すでに別のものに変容してしまい、ネット作動の虚焦点のような隠れ蓑になってしまう。
対応は法的に行うか、身体を張って身をもって行うかのいずれかになる。法的に行えば、弁護士の書くような最低限必要なことを書き込むしかない。余分なことは絶対に言わない、書かないというのが鉄則である。
身をもって行うというのは、何かを行えば、政治活動ネットワークではブラックリストに載ることになり、さらに便乗騒ぎに取り上げられることになる。やるとすれば、それを覚悟でやるしかない。だがそれほどの主張が行われているのでもない。およそ内容がないというのが実情である。内容がないのに騒ぎとしては成立する。これがSNSの時代である。
ヒラツカマサユキ(さつふらっとまううど)というユーチュウバーがいる。この件を積極的に取り上げ、騒ぎにしてきた人物である。この男の投稿する作品は、まったく内容がないのにかなり面白い。語られている内容ではなく、語ることの態度、つまり身体を張ってやりますという態度は、「ネット仁義なき戦い」風の爽快感がある。むしろそれだけでもっている人間だと考えてもよい。精確には、「無駄に面白い」のである。
この男の作品を20本ばかり見たが、確かにテーマは小さい。小さすぎることは、笑ってすませばよい。個々の作品に含まれた小さな主張も、ほとんどが議論されてきたものばかりである。悪乗りも数々ある。調子に乗りすぎている言動もある。この男の主張に従えば、スーパーグローバルに認定されている大学は、おしなべて「売国大学」となる。グローバル企業に日本を売るので、売国大学ということになるらしい。
外国からの留学生が増えれば、日本にお金が落ちる。だからグローバル大学は海外からの日本への投資が増大する局面もある。そしてそれは事実であり、日本の優良株式会社の筆頭株主が外資系であることは今日ごく普通のことである。それは売国ではなく、海外からの投資資金が入っていることである。日本の企業に信用度がなければ、誰も株を購入したりはしない。
このヒラツカという男の論理は無茶苦茶だが、それでも身体を張っている者の弱さと爽やかさがある。そして今回の事件は、この男のまたとないネタとなったのである。因みにアメリカ大統領のトランプ大統領の発信にも、恥ずかしいこと、どうかしていると思われること、ただの馬鹿かと思えることも多々含まれている。しかしトランプのやることはどこか面白いのである。しかもトランプの馬鹿馬鹿しい発言のなかにも、どこか本当だと感じさせ、そう思わせるものが含まれている。現実はきれいごとでは済まない。その思いに裏側から言葉を当てていくようにトランプの言葉は出てくる。だから素直に共感の意思を表明できなくても、投票となればトランプに入れようと思っている幅広い沈黙の層があると考えられる。
2019年2月22日に東洋大学正門前で、ピープルパワーを主催者とする「反竹中」デモが行われた。20名程度の参加者である。そのなかにはいろいろな人がいたが、元銀行マンや暴走族上がりのひともいた。夕方に開始されて、そこにヒラツカマサユキも参加していた。ヒラツカは、お得意の電話攻勢をその場でも行った。このデモは同時撮影され、放映されているようである。つまりライヴである。ライヴのなかで、ヒラツカはこれから電話しますと宣言して、学生部と大学の代表番号に電話をしているが、誰もそれには出ない。ライヴを見ている者は、これから電話がかかってくるというヒラツカの宣言を聞いているのだから、出るはずもない。それをさも自慢そうにヒラツカは、話している。要するにただ遊んでいるだけなのだが、ヒラツカの邪気のないいたずらぶりが、どこか面白いのである。
自称「社会活動家」であるヒラツカの戦いの戦術ははっきりしている。あえて敵を過度に明確にして、ほとんど内容のないことを「戦い」というファッションをもたせてしまうのである。自分を主役にして、戦いの実演をやっていくのだから、それに巻き込まれる方はたまったものではない。事実ヒラツカの電話攻勢に疲れ果て、体調を崩し、部署を移動した職員もいる。その程度の執拗さがこの男の持ち味なのである。だが見ている側は、茶番を見せられているようで、それはそれで面白いのである。
そして他面で、ある政党の青年組織(もしくはセクト)はそれはそれで、若い学生を誘い、組織を拡大する好機の一つだと考え、現に着々と手を打ってきたようである。おそらく数名は確実にオルグされている。
こうしたなかで、おそらくいくつもの理由から大学は何もしないし、何もできないのである。
以下が公開謝罪要求と公開質問状である。
本日2/11(月)、「抗議と謝罪要求」「公開質問状」と題する文書を、正式な形で東洋大学に送付しました。
東洋大学学長 竹村牧男殿
2018年2月11日
抗議と謝罪要求
東洋大学文学部哲学科4年 船橋秀人
私船橋秀人は、東洋大学キャンパス内で抗議活動をしたことにより、東洋大学学生部学生支援課の職員から2時間半にわたり詰問され、その際に退学勧告・大声での恫喝・SNS上の投稿の削除の勧告を受けました。このことに対して大学の長である貴殿に抗議し、大学としての謝罪を求めます。本件の回答については、私のメールアドレス(pokijnga@yahoo.co.jp)に送信してください。本日より1週間以内に、よろしくお願いします。
●恫喝に対する謝罪を求める
1月21日(月)、私は竹中平蔵氏が東洋大学で教授として教鞭を執ることに抗議して、立て看板の設置とビラ撒きを行ったところ、学生部職員に、『学生生活ハンドブック』に記載の項目を理由に撤去を求められ、学生部の一室に連行されました。そこで、学生部職員は、私に対して学則第57条の「退学処分」に相当する「性行不良」「本学の秩序を乱し、その他学生の本分に反した者」の項目を実際に指で示しながら、今後退学に処される可能性がある、と私の進退に関わることをもって恫喝しました。
さらに、学生部職員は「就職先での立場が危うくなるぞ」や「君には表現の自由があるが、それには責任が伴う」等の言葉で執拗に私を脅し、「大学のイメージを下げているんだぞ。責任を取れるのか」との文言については特に大声で脅しました。これは明らかな言葉の暴力です。
●身体拘束に対する謝罪を求める
私は、こうした仕打ちを2時間半にわたり、学生部職員5~6人により、身体的自由を奪われた形で受けました。たとえ私に禁止事項違反の非があったとしても、これは明らかに度を超しています。私は多大な精神的苦痛を受けました。なぜ、ここまでやらなくてはいけないのでしょうか。こうした行為は、憲法18条で保障された「身体の自由」を侵す行為であり、刑法にふれる人権侵害とすらいえます。
●表現の自由に対する過剰な干渉について謝罪を求める
また、詰問のなかで、私が掲示した立て看板の写真をSNSから削除することを一方的に要求されました。本来大学は、学生が自身の活動をSNSに投稿したものの削除を要求する権利はなく、これは憲法21条で保障された「表現の自由」の侵犯です。そもそも大臣を歴任し事実上の公人である竹中氏への批判は、個人の誹謗中傷にあたらないはずです。それにもかかわらず、2時間半という長時間にわたってこれの削除を強く要求することは、明らかな学則にもとづく学生への指導という、学生部職員の職務を超えた越権行為です。
●広報の不当について謝罪を求める
東洋大学広報課は、これに関する報道各社の取材に対して「禁止行為を行うと場合によっては退学処分になることを当該学生に説明した」と釈明していますが、これこそ退学の勧告といえます。また大学は、立て看板設置とビラ配布について『学生生活ハンドブック』に禁止事項として記載されていると説明していますが、これらはいずれも学則のどの条項に基づくのかが明記されていません。それにもかかわらず、学生部職員は、一方的に学則第57条に該当する可能性があると脅してきたのです。これは、あまりに不当です。
以上、貴殿の指揮監督下にある学生部職員によって私に対して行われた、これらの非行について、東洋大学を代表する貴殿に謝罪を求めます。
以上。
東洋大学理事会御中
2018年2月11日
公開質問状
東洋大学文学部哲学科4年 船橋秀人
私は、東洋大学文学部哲学科4年船橋秀人と申します。1月21日(月)、竹中平蔵氏が本学で教授として教鞭を執ることに抗議して、立て看板の設置とビラ撒きを行いました。以下、私が抗議活動を行う原因となった、現在の本学の問題点について記します。この点について、大学としてどのような見解か、大学の運営の責任を担っている東洋大学理事会に回答を求めます。本件の回答については、私のメールアドレス(pokijnga@yahoo.co.jp)に送信してください。本日より1週間以内に、よろしくお願いします。
①弱者切り捨ての竹中平蔵氏を大学で教鞭を執らせることについて
まず第一に、「正社員をなくしましょう」などと公言し、新自由主義的な政策によって、多くの国民の基本的人権を踏みにじるような人間を教授として招くことは、本学の理念である「知徳兼全な人材の育成」[i]に反します。
特に、竹中氏が推進した労働者派遣法の改正による、この国の労働社会の悪化は深刻なもので、現在ではこの国の労働者(役員を除く)は、およそ3人に1人が非正規雇用という状況となっています[ii]。
しかし、竹中氏はこうした状況に対してメディアや書籍等で謝罪や反省を述べることはありません。それどころか本学においても、自由競争をさらに推し進めるべきだと公言しているのです。実際に、竹中氏は本学のホームページに掲載されている新任教授インタビューで、自身が教えているグローバル・イノベーション学の正当性について、このように公言しています。「グローバル化が進行したのは、東西冷戦構造が終わり、市場経済と社会主義計画経済が統合され、マーケットが拡大したことが最大の要因といわれますが、見逃せないのはグローバル化を可能にしたイノベーションの存在です。インターネットに象徴されるデジタルな科学技術のイノベーションによって、情報を世界中へ瞬時に伝えられるようになり、市場規模が急速に拡大したのです。こうして生まれたグローバルな競争が、また新しいイノベーションを生み出す」[iii]。以上の発言において竹中氏は、社会に新たなイノベーションをもたらすためにはグローバルな競争を推し進めるべきだと強調していますが、竹中氏が謳うグローバルな競争の実態とは、低賃金で即解雇可能な労働力によるコスト競争であり、結果としてもたらされるのは企業のために労働者が使い捨てにされる社会です。つまり竹中氏は、いまだ弱者を切り捨てる考えを護持し、今度はそれを学生に教え込もうとしていると考えざるをえません。これは、明らかに「知徳兼全な人材の育成」という本学の理念に反するものです。
②実学偏重と人文系学部軽視について
そして、第二に私が提起するのは、本学が実学偏重の大学と化していて、学問の自由という大学本来のあり方が壊われてきていることです。
現在の本学は、日本私大で最も長い歴史を誇ったはずの本学の「哲学科」を、ゼミと称して教授1人が4~50人の学生を相手に一方的な授業を行わせるといったシステムとしていたり、「インド哲学科」と「中国哲学文学科」を「東洋思想学科」として統合再編して定員の削減を目論む一方、元々国際地域学部のもとにあった「国際観光学科」を学部として独立させたり、竹中氏も所属する「グローバル・イノベーション学科」を含む3学科を新たに「国際学部」に開設したりと、国際系の学部学科の拡充を行っています。また、一昨年には新しく赤羽台に新キャンパスが創立され、情報系学部の拡充が行われています。
こうした実学偏重の傾向は、本学がスーパー・グローバル大学に認定されて以降ますます増大しており、実際に全学生向けに留学支援と資格補助を手厚くするなどの改革が行われています。そして、これは学生のキャリアアップとして就職支援の一環でもあり、本学が就職に有利な大学として広くアピールすることによる入学者の増加を目指していることの証左でもあります。
確かにグローバル化は昨今の重要なテーマでもあるうえに、就職支援が大学に課せられた一つの責務であることは間違いなく、大学としてそれらを支援するべきではあります。しかし、その影で人文系の学部の研究環境は悪化の一途をたどっています。
そして、この学問の研究・指導の環境の規模を縮小し、代わりに実利的な学部学科を拡充したり、就職に有利なプログラムで入学者数を稼ごうとしている本学の学問軽視の姿勢は、無駄を削除して競争力を高めようと唱える竹中平蔵氏を教壇に招いていたことに象徴されています。
そうでないならば、なぜ竹中氏を「グローバル・イノベーション学研究センター」のセンター長に2016年にまで就任させているのでしょうか。竹中氏は、かねてより国公立大学の民営化、つまりは国からの大学への補助削減を提言しています。実際に、竹中氏は『毎日新聞』の取材で「東大の土地を貸しビルやショッピングセンターにして、その上がりで研究すればどうか」[iv]と言い、大学をも企業と同じようなコスト競争に晒すべきだと主張しているのです。現在の本学は、こうした考えに従って大学改革を推し進めていると言わざるを得ません。これは学問の府のあり方として深刻な問題です。なぜならば、本来大学とは、短い期間で成果をあげる企業とは異なり、長い年月による積み重ねをもとに社会貢献への糸口を探る場であるべきだからです。もし大学が企業と同じように目先の利益ばかりを追求するようになれば、短期的な成果主義によって学問の自由という大学本来のあり方が壊れてしまいます。これでは、本学は大学として諸学の追究と人材の育成という社会的な役割を果たせなくなるでしょう。また、本学の創立者井上円了は「諸学の基礎は哲学にあり」という言葉を、東洋大学の理念として語っています。哲学、すなわち真理の探究は、目先の利益や成果の追求によっては成されえないものです。競争社会の推進を唱える竹中平蔵氏に教鞭を執らせていること、そして本学が学問の自由を放棄して実学偏重に陥っていることは、この「諸学の基礎は哲学にあり」とする本学の理念に明らかに反しています。
以上の問題提起に基づき、下記二点についてご質問いたします。
【質問事項】
①竹中平蔵氏を本学の教授として招いていることは、東洋大学の理念に反するものではないのでしょうか。
②上記のような本学の実学偏重の傾向は、学問の自由を侵すものではないでしょうか。
注
[i]東洋大学の理念(東洋大学ホームページ)
https://www.toyo.ac.jp/site/about/accreditation03.html
[ii] 総務省統計局より算出
https://www.stat.go.jp/…/r…/sokuhou/4hanki/dt/pdf/2018_3.pdf
[iii] 竹中平蔵教授へのインタビュー(東洋大学ホームページ)
https://www.toyo.ac.jp/site/gakuhou/102765.html
[iv] 『毎日新聞』(2018/8/23朝刊)
http://mainichi.jp/articles/20180823/ddm/016/040/011000c
以上。
これはすでに公にされているサイトから取り出してきたものである。意向を曲げないためにも、あえて要約はしなかった。大学はプロジェクトチームを設置して、対応を協議している。
いろいろな問題は含まれている。だがはっきりしていることは、現在のF君のやり方では、そこで述べられていることを誰もすなおに、あるいは真摯に対応できないことである。現在のSNSは投稿自由である。そして投稿を止めるように伝えることも、投稿される側の自由である。表現の自由とプライバシーの保護は、つねにせめぎあっている問題であり、どちらが優先する権利だともいえない。投稿した発信を強制的に他人が削除することは問題があるが、削除するように伝えることは、それじたいは何の問題でもない。事実F君もそれを無視していて、それ以上問題は起きていないのだから、「表現の自由」にかかわる提起はただの言葉の問題でしかない。表現の自由が現実に侵害されている事実はない。
2時間半の身体的拘束も、なぜそれほどの時間がかかっているのかが明らかにならない以上、長いとも短いとも言えない。それだけの時間、ただ物理的に拘束を受けた、ということではなさそうである。F君本人もいろいろ発言したはずであり、かりにさまざまな議論をしていたのなら、2時間半は長いとも短いとも言えない。
退学勧告も実際に手続きが踏まれていない以上、ただの言葉である。実際に手続きが踏まれていれば、民事での争点になるが、言葉で言われたことを騒ぎにするというのは、ほとんどただの言いがかりと区別できない。言葉で言われたという事実を取り上げるのは、「大人」としては、ただの駆け出しである。言葉に反応し、言葉の一部のみを取り出して反応するということは、ごく初歩的な態度である。
ただし哲学科の学生がいくぶんか不利益を被っているというのは、数字としてもはっきりと示すことのできる現実的な事実である。哲学科は、教員数が少なく、対学生比で見たときの教員数は、全学の学科のなかで最低・最悪の数字である。文学部の学生は、すべての学生が同じ年間授業料を払っている。同じ授業料を払いながら、学生が受け取るリターンのための基礎的条件が、哲学科は、全学で最低の数値なのである。
大学はF君の公開質問状に対して、指定された期限までに回答をしなかった。政治的な思惑の籠った文書には、回答が必要なのかどうかを含めて検討する必要はある。また回答が必要なほどの内容が含まれているのかどうか。この点についても意見が分かれる。回答がないという事実をもとに、またそれをネタにしようとするものたちが動き始めた。
ネットで流れることは現実のごくわずかの断片にしか過ぎない。その断片についてはいかようにも語りうる。そしてさももっともそうなことを言い、物事のもっとも厄介な面に踏むこむことができないようなジャーナリストが大量に生まれる。いわゆるほとんど「何もわからない」ものたちである。しかも質問を伝えることはジャーナリストの自由だが、回答するかどうかを決めるのは大学の自由である。説明が必要な問題なのかどうかは、問題に依存する。
情報の自然淘汰ではなく、学習された自然淘汰が必要になっている。というのも学生だけではなく、教員にも、同じように「多くのことがわからない教員」が出現してきているからである。情報は無数に流れるが、すでに「多くのことがわからない者」たちの集合量は、膨大な数に上る。SNS時代では、経験はあらゆる領域に及んでいるように見えながら、経験は情報の断片に反応する比率が極端に高くなる。つまり経験は劣化している。そうなると情報も劣化する。精確に言えば、毎日ユーチュウーブを見続けていれば、書籍を読むことはかなり困難になり、場合によっては新聞を読むことも難しくなる。つまり能力の低下を起こすのである。
5週間近くにわたって続いたF君の立て看板騒動も、ようやく収まる兆しがはっきりしてきた。これだけの騒ぎを大きいと取るか小さいと取るかは、まだ決めようがない。だがこの騒動によって大学にはほとんど何も変化が起きていない。騒動自体は、たとえ善意と真摯な配慮によってなされたものであろうと、そこに込められた願いとは筋違いの方向に進んだと思える。
学生にとっても、教訓となる項目を含んでいた。それはおよそ次のようなことである。
1)大学改善のために要求を出す場合には、手順を踏んで実務的に行わなければならず、かりに要求のなかに、貴重な内容が含まれている場合であっても、SNSを使った「騒ぎ」にしたのでは、事態が変質してしまい、要求内容にまともに対応できなくなってしまう。(本人はSNSで最初から公開しているので、本人も気づいていない。)
2)SNSでは、ネタを探している人がたくさんいて、たとえ貴重な提案をした場合でも、周囲にはネタに便乗して、自分の主張や都合に合わせて利用しようとする人たちが出てくる。ある意味で、この学生の行動は、勝手に利用されてもいるので、そうした点については、本人が配慮しなければならない。学生の思いがただのネタであるなら、それに対応するのはバカバカしいことである。
3)大学に電話をかけ続けて騒ぎを大きくしたヒラツカマサユキ(サユフラットマウンド)という動画作成ユーチュウバーの行為は、場合によっては「業務妨害」に相当する。長時間にわたって業務を妨げているからである。F君の行動は、そうした行動のネタに使われている。ただしユーチューバーはそれを仕事としており、いくばくかの報酬を得ているのであり、それを止めるためには、犯罪を立証することが必要となる。(なおユーチューブは、動画のなかに組み込まれた宣伝広告料で成り立っており、民放のテレビと同じである。ヒラツカの動画の最大のスポンサーは「日本財団」(明治神宮、明治記念館管轄、基本的には右派)であり、「裏の意図」がありそうだと感じられる。)
4)立て看板を立てて、学生部の人たちに撤去させられる様子を撮影し、それを公開するような作為的やり方は、自分を被害者に仕立てて抗議を行うという仕組みを使っており、現在では「被害者ビジネス」「当たり屋ビジネス」だとただちに判定される面がある。あらかじめ被害者になるように設定して置き、被害を受けたというのであれば、そこに利益相反が含まれる以上、姑息なビジネスである。そう判断される可能性がある。
5)「新自由主義」の経済理論については、もっと勉強して、どの局面で有効に機能し、どの局面では有効に機能しないのかを指摘するところまで踏み込まないと、ただの言いがかりになってしまう。経済規模が拡大する局面では、新自由主義は有効に機能する場面がある。だが経済規模が平衡状態に入ったとき、システムは内部の格差を大きくなるようにしか作動できない。内部に差異を創り出すことが、唯一のダイナミクスになる。つまり貧富の格差を大きくするという差異を創り出すのである。
さまざまな教訓を残した騒動であったが、おそらくほとんど何一つ成果を残すことはないのであろう。ただちに関心は移り行き、次のネタをもとめて情報ネットワークはすでに動いてしまっている。こうした場面では、情報の耐用年数という発想が必要となる。10年の耐用年数のある情報と、1月の耐用年数しかない情報と、発したハナから終わっている情報(耐用年数、数時間)を同じ「情報」として扱うことはできない。名称は「情報」という同じ言葉であっても、もはや同じ扱いにはならないのである。
耐用年数という尺度は、確実に一つの指標になる。一つの目安として、伝承知(10年目安)、回覧コンテンツ(1月から数年、ユーチューヴが代表)、消費ネタ(3日から3週間、ツイッターが代表)の区分を作っておけば、どこに無理が来ているかがはっきりとわかる。学生の申し立ての内容は、少なくとも回覧コンテンツに相当し、回覧コンテンツとして扱ってほしいという思いが込められている。だが現実に採用されているのは、消費ネタの手続きである。筋違いの手法が実行されたのであり、意向と手続きに不具合が起きている。
ここには多くの筋違いのモードが含まれていることがわかる。消費ネタを見てそれに反応し、回覧コンテンツの扱いをしたほうが良いという提案も出てくる。小さな思い込みを、重大事だと騒ぐような場面である。
さらに伝承知が必要な場面で、それを消費ネタから横流しするものも出てくる。これは学生ならびに学生あがりに多い。内実をしっかりつかまなければならない場面で、消費ネタからデータを拾い上げてわかった風なことを言うのである。
またツイッターとして、伝承知に近い内容を盛り込もうとするメッセージも時々見かけることがある。その場合には、メッセージのモードを取り違えているか、それ以外には手段がないかと推測させる。ホームページを開設して一貫した議論を展開したほうがいと思われる内容を、消費ネタとして流してしまっている。この場合には、発信する側と受信する側の思惑は、最初から乖離している。10年検討したほうが良い論題を、一時的な騒ぎとして取り上げてしまうのである。
これを機会に、多くのユーチューヴを見てみた。300本近く見たと思う。ごく少数だけ、信用に値する動画があった。それぞれの思いを込めて発信する媒体が成立していることはそれじたいはよいことである。だがどのようにそれらを受け取るのかについて、リテラシーがいまだ形成されていないのが実情であろう。無理と筋違いに溢れているのが、SNSという場所なのである。
(2019年2月28日)