ローカル・ゾンビ
河本英夫
周囲に見られる一群の奇妙で不思議な人たちについて、少しまとまって考えてみる。起きていることは、ごく普通のことだとも思える。ただ経験の仕組みに何か変異が起きている印象である。
58+67=125の計算は、PCでも容易に実行することができる。だがPCはそこで何が行われているかに気づくことなく、かりに間違っている場合でも、それを訂正する能力はない。訂正能力が無ければ、間違えば、単なる「故障」である。
時計は、精確に時を刻むが、時間が何であるかを知らない。優れたAIも同じで、精確に時を刻むが、時間が何であるかも、「精確」とはどういうことかも知らない。記憶を選択し、再編する能力がないのだから、時を刻んでも、それが何をしていることなのかを知らない。時計もAIも基本的には「時間的ゾンビ」である。経験がまったく欠落しているにもかかわらず、実行だけは精確にできる。そのため経験が質変化することはない。
これがAIの「フレーム問題」と呼ばれる。特定のフレームの中で機械的に実行できることしか、実行することができない。余分な経験の動きがなく、可能な限り最短で結論に到達する仕組みを具えているために、特定場面に限定すれば特段に有用でもある。時計やAIのような経験の全面的な欠落は、はっきりと判別できる「ゾンビ」である。これらは作り付けになるさいの仕組みや構造から出現する「構造的ゾンビ」である。結果が合致するように合わせるのだから、結果を合わせることに焦点化すれば、ゾンビであることは有効であり、無駄を一切省くのだから効率的でもある。
それに関連して、能力があるところで打ち止めになり、それ以上に経験が細かくならないような場面に、人間でもときどき遭遇する。このことを「ローカル・ゾンビ」と呼んでおく。構造的に最初から欠落しているのではなく、成育歴やその間に直面した難題への対応をつうじて、「繰り返し強化され、成育的に出現したゾンビ」である。習慣をつうじて二次的に出現したゾンビだとも思える。だが、たとえば母語を日本語で形成するのか、ドイツ語で形成するのかで、かなりの違いが出る以上、習慣のベースになるものの形成プロセスでは、当人の習慣形成は、当人にとって予想外の影響をもつ。つまり当人にとって、何が起きているかがわからず、またどうしてそんなことになるのかという経験の領域を生み出してしまう。
「ローカル・ゾンビ」は、全面的に経験が欠落しているのではないにしろ、むしろ経験のある場面で、まったく経験が止まってしまう。ローカル・ゾンビは、外的な印象としては、ある局面の完全な欠落であるが、そのことはつねに「代償」されて出現してくる。
手続き的な経験の場面で、前提から結論に至る間には、プロセスがあり、プロセスの中には選択が含まれている。物理的な過程であっても事情は同じであり、力学的にはこの選択は、「揺らぎ」と呼ばれる。構造的なゾンビには、たとえ計算上の手間暇がかかる場合であっても、プロセスはない。設定された解答すべき結論にたどり着くだけであるから、結果にいたるための手間暇がかかるだけであり、特定の到達地点にただひたすら向かうだけである。
これは極めて科学的でもある。到達すべき結論に到達するのだから、決定論でもある。ただし人間ではこうはならない。この場合、経験とはそれ自体進行するものであり、少なくても出発点から結論までをプロセスとして推移していく。
「ローカル・ゾンビ」には多くの由来とモードがあると考えてよい。人間の事だから、さまざまな防衛努力をしており、筋違いの処に入り込むことで、自分を守り、同時に自分の能力を打ち止めにする。これはごく普通に起きることのように思える。ただしたとえば誰しもトップクラスのアスリートになることができるわけではなく、多くの場合、途中で訓練を断念する。だがこうした頭打ちとは異なる場面に、ローカル・ゾンビが出現する。ローカル・ゾンビは可能性の限界で生じるのではなく、端的に開始時点で、能力の起動がないか、起動するためには本人にとって「筋違い」とも感じられる敷居の高い努力が必要となる。
論理学を教えていくときにときどき直面するのが、黒板に書いてあることは写しているのに、「何が行われているかがさっぱりわからない、意味がわからない」という後悔とも無念とも思える言葉が漏れ出ることがある。
この言葉で打ち止めになる。黒板に書かれていることを意味として理解しようとして、「手続き的行為」を実行することができない。これは「手続き的行為の欠落」である。これも「ローカル・ゾンビ」である。このタイプのなかには、言葉で「論理学とは記号操作だ」と評論できるが、まったく演算が実行はできないものが出現する。本人は自転車に乗れないのに、自転車に乗ることが何なのかを評論するようなものである。
意味がわかっても実行できなければ、能力の形成にはつながらない。また意味がわかれば実行できるということはほとんど考えられない。わかろうとするあまり、「できる」という能力とは別の回路へと進んでしまっている。プロセスのさなかにあるものには、どこかで分からなさが付き纏う。この分からなさは、意味をわかることとは別の局面で出現している。その場面を、意味を分かることで乗り切ろうとしている。ただの筋違いなのだが、本人はすでに身に着けた「分かる」ことで、乗り切ろうと全力である。
この場合には、まったく経験モードを取り違えている。ここまで取り違えて、人生を乗り切ってきたのだから、その延長上で対応しようとしている。取り違えの延長上でさらに無理筋を進もうとしているのである。当初の場面で筋違いをつうじて、いくつか成功してきており、この成功を理由に「同じやり方」を繰り返そうとして、何も実行できないまま、当惑の中の「自分自身」となる。おそらく手続き的な経験に入り込むことに、よほど困難があったらしく、意味理解とは異なる仕方で前に進むことが選択肢の中に入ることができない。
こうした事態を考えるうえで、解釈学が参考になる。解釈学は、テキスト解釈のなかから出現した。テキスト解釈といっても、三文小説や三文戯曲の解釈から生まれたのではない。ヨーロッパで歴史的にもっとも読まれてきた書物がある。それが「聖書」である。19世紀のはじめにシュライエルマッハーによって、解釈学はたんなる解釈術から、哲学的な構想となった。
要となる構造は、「解釈学的循環」(ヘルメノイティック・サークル)である。言葉は、いかめしいが実は簡単なことを言っている。個々の部分の解釈は、作品全体の先取りを前提とし、全体の解釈は、個々の部分の解釈を前提とする。部分と全体の相互前提の構造を指定している。たとえばギリシャの戯曲家ソホクレスに『オイディプス王』と呼ばれる現代でも通用する作品がある。自分の由来を求めて、オイディプスは旅の道すがら、道を譲れ、譲らぬという争いから、争い合う一行を皆殺しにして、さらに旅を続け、ある街テバイ王国に到達する。
そこでスフィンクスの謎を問いかけられる。「幼くして4本脚、成長して2本脚、老いて3本脚のものは何か」という有名な問いである。この質問に「人間」だと答えて、この街に入ることを許され、ひと時疫病がはやり、王も亡くなり、混乱したこの街を平定する。そして残された王妃を娶って、この街の王となる。
こういう作りの作品で、最初から「何かおよそ途方もないこと」が起きる予感に満ちている。そして実際「途方もないこと」が起きるのである。ここが全体の先取りであり、この予感のなかで個々の箇所は、解釈されている。だが何が起きるのかはまだ誰にもわからない。しかしこの街、テバイ王国は、しばらくの安寧の後、さらに大混乱が起きる。その原因をオイディプスは、探し出そうとし、混乱を収めようとする。そしてあがきにあがいてもうまく行かないという当惑のさなかで、旅の途中で道を譲れ、譲らないという件で、争って殺したのが自分の実際の父であり、この街に入って残された王妃を娶るが、それが自分の実際の母であることがわかってくる。
一切の出来事の姿が明るみに出たとき、それはもはや変更しようがない。それを通常、「運命」と呼ぶ。ギリシャの悲劇は、どのように善意であがいても、「運命」に見舞われる設定である。運命こそ、全体に相当する。オイディプスは、自分で自分の眼をつぶし、盲目となって運命を受け入れる。
しかし事象を捉えるさいには、部分-全体関係ではなく、個々のプロセスと予期される未来のかたちで捉えたほうが良い。経験とはプロセスのことである。ドイツ語の経験(Erfahren)は、進むことであり、乗り物に乗ってどこかに行く場合にも、この語を使う。経験とは、「途行き」のことである。経験には予期と履歴が伴っている。経験がプロセスを進むものであるという点で考えると、プロセスのさなかで起きることを考えなければならなくなる。ヨット部が帆の向きを変えようとするとき、こうやったら良いという決断で動かすが、風向きが急に変わることはある。それを察して、右や左に力を籠めることができる。何かを実行することは、実行すると同時に、条件の変化に応じて対応を変更しうること、こうすればどうなるかをどこかで感じ取りながら、微調整を行うのが普通である。
58+67=125の演算も、短いがプロセスを進んでいる。うっかり間違えそうになった時、訂正をしながら調整する。そして正解を出す。このプロセスには、(1)正解を出すプロセスと(2)正解を出すことはどうすることであるかの了解が含まれている。言葉を変えれば、(1)規則に従うことと、(2)規則に従うとはどうすることなのかの了解が含まれている。
前者が正解を出す能力であり、後者がそうした行為はどのように調整することかの「気づき」(西田幾多郎が「自覚」と呼んだ)が含まれている。気づきは、プロセスのなかにあり、基本的には「実践的調整能力」である。この実践的調整能力は、行為の持続可能性にかかわっている。ヨットの練習は、この能力を磨く訓練でもある。
プロセスのさなかにある経験は、たとえ文章を読み進める場合であっても、行為としての実行と、実行するとはどのようなことであるのかについて、了解が二重に進行しながら進む。了解は、プロセスのさなかで起きる実践的調整能力であり、プロセスの外からそれが何であるかを知る反省的な知識ではない。プロセスのさなかにある気づきと外から知る認識はまったく別のことである。
この実践的調整能力をまったく使わなくなったのが、ローカル・ゾンビである。了解に代えて、周囲のものに相談し、周囲のものから教わるのである。そのとき周囲の他者の認識と自己認識が出現するが、これがプロセスのさなかから、自分自身を取り外して、認識で自分を律することに置き換えてしまうのである。
さらにしばしば論理学で出現するが、一対一対応する簡単な操作は、実行できるが、複数の命題を関連付けるような操作や、少し複雑な操作はまったく経験の中には入らない。少しでも複雑になれば、何も分からなくなってしまう。複雑な操作を実行することができないために、人間の言葉で単純化した事態で置き換えようとする。この場合、おしゃべりやスマホに移行してその時間をやり過ごそうとする。
主語‐述語形式の線型の単純な事態は、世界でももっとも単純なものの一つである。おそらくスマホ言語がこれに近く、これが習慣化されれば瞬間的にわかることしかわからなくなる。反射反応のような言語への対応が日常化すれば、少し入り組んだことはまったくわからなくなる。線型の世界は、世界の現実の中で5%程度の比率だと考えられるが、それしかわからなくなるようなのである。つまり95%の現実性はもはや接点がなくなってしまう。
GAFAやテンセント、ファーウエイの提供する情報ネットワークをつうじて、情報表現の範囲は、無作為に拡大している。この場合ネットに参加する多くの人に注目され反応してもらうように発信が行われるので、おのずと「過度の表現」が生まれやすい。そのため本来的にフェイクになる可能性を含んでいる。ネット情報は、誰も反応してくれなければ、ただのゴミである。
中国ウエイボーのスーパスターの一人である趙盛華は、320万人ほどのフォロアーをもち、そのつど数万の「いいね」を得ている。発信内容は、たとえばアメリカと戦争しても勝ち目がないので、核兵器を満載した潜水艦をハワイ沖で爆発させ、チベット以外の地域は水没させるであったり、中国内陸1万メートルに核爆弾を集めて爆発させ、地球の軌道を変えて人類を消滅させるというたぐいのものである。これらは孫悟空を超えたファンタジーであるが、中国社会の緊迫感と釣り合うことで現実性を獲得しており、日常の余白に書き込まれた単純化されたイメージ像である。
アメリカのトランプ大統領がコロナウイルスに感染し、医師団の徹底した治療を受けて早期に退院したとき、中国外務省の管制報道官である華春瑩が、トランプは「地位を利用した特権的な治療を受けて退院した」と述べたところ、直後からウエイボーでは、共産党幹部も特権的治療を受けているという発信が続いた。そこで華春瑩はあわてて「アメリカ国民全員がトランプが受けたような治療を受けられることを願っている」と書き込んだところ、ただちに「中国人民もみな共産党幹部と同じような治療を受けたい」という発信が続いた。このレベルの言葉が行き交うのである。言葉の掛け合いであり、言葉が言葉と遊んでいる。ある意味でインターネットは、自分自身に回帰する「線型ナルシス・システム」である。
しかも発信の中には、憎悪や恨みや怒りを煽るようなものも含まれており、これが最も反応を引き起こし注目されやすい情報であるためか、繰り返し同調発信が続き、社会に分断と対立が増大することがある。ミャンマー国内ではスマホが普及しておらず、フェイスブックだけが広まっている。このフェイスブックを使って、ミャンマー国内の少数民族を排撃する投稿が、夥しいほど流れたことがあり、現実にいくつもの襲撃が行われた。フェイスブックの元CEOもこうした差別情報に何割かの責任があると述べている。年柄年中このレベルの情報に触れていれば、細やかな言語表現や複雑な言語表現に直面しても、おのずと傍らを通り過ぎてしまうだけになる。もう現実性の機微や詳細がわからないのである。
インターネット関連の情報の有効な接し方の一つが、個々の情報に触れる場面で、「どの程度の耐用年数があるのか」と問うことである。2,3日も経てば消えて更新される情報と1月経てば局面が変わる情報と、数年もしくは数十年の課題を含んだ情報とは、おのずと異なる扱いになる。ここを取り違えると、「ガセネタにひっかかっている」「どうでもよいものに拘泥している」というような事態が生まれる。あるいは同じことの別の局面だが、その情報の生産には、どの程度の時間と労力がかかっているかを区別してみることができる。言葉や情報に敏感反応するものにとっては、おそらくこの区別ができない。そして夥しい集合量の「経験を欠いた情報社会集団」が生まれる。
論理学以外の科目で、「哲学と科学」という科目も、私は担当しているが、複雑な事態についてはまったくついていくことができないものたちが、かなり出現する。複雑な事態を複雑なまま感じ取り、そこに自分なりに理解の回路を探し出し、何とか自分にとってわかるかたちにして確保していく作業がまったくできないようなのである。カオス力学の解説を行い、要点も整理して、要点をまとめなさいという課題を課すと、それでも頭がついていかない。
なにやら動画を見て、重要そうだと感じられた言葉を抜き出し、それをつないでレポートとして出してくる。言葉はいくつか並んでいる。だが事柄が理解できている様子はない。不思議なレポートである。言葉の選択の仕方も、本人にとってどこかで重要だと感じられ、反応した言葉だと推測できる。それらがただ組み合わされて並んでいる。ちょうど連想ゲームと同じである。たとえば以下のようなものである。
力学は規則的、周期的ではない。同じオペレーションを繰り返しているように見えて毎回のオペレーションの開始条件は異なり、実際の結果は毎回違うものになる。人の腸に例えると人間は皆同じ腸を持っているように見えて正確な面積を求めようとすると変形している部分を含めても予想のできない長さや大きさの違いが見える。砂糖を毎回大匙一杯図る時も粒の数や面積などは毎回必ず同じものにはならない。
このタイプは、おそらく言われたことをそのまま実行することはできるが、言われたことしか実行できない。これも「ローカル・ゾンビ」である。コーチや指導者から、言われたことをそのままなぞっていれば、優秀なアスリートやアーティストが出現することはほとんどない。条件によっては、人の言うことは聞いてすぐに忘れる。「分かりました」と言って、そのまま忘れるのである。そして自分で進んでいく。毎回そうするわけではないが、そうすることもできるという選択をもたなければ、経験が形成されていくことは難しい。
複雑な事態は、それにどう対応するかは一通りに決まらない。自分なりの道筋を見つけて前に進んでいく部分が、含まれている。言葉に反射反応することとは異なる対応の仕方を身に着けていかなければならない。経験はプロセスのさなかで選択に直面する。だが言葉に敏感反応してしまえば、そこで打ち切りである。これは「情報ヒステリー」性の反応となる。ここにはおそらく複合的な病理が関与している。敏感反応性と感情の制御の問題が、不可分ではないが、同時的に作動している。そして多くの場合、事態や理解に圧倒的に選択肢がなくなってしまう。言葉への反応と物事の立場からの配置に留まる。ここにははっきりとわかる兆候がある。
(1)言語敏感反応性は、まず聞く能力の減退で、すぐに判別できる。言葉にすぐに反応しようとするからである。そのため実質的にほとんど何も聞いていない。
言葉は、なにかについての言葉であり、言葉を受け取るのではなく、言葉をつうじて経験を取らなければならない。相手の経験を取る所がスッポリ抜け落ちてしまうので、その場面では、経験は一切形成されない。これは現代的な神経症でもある。
言葉をつうじて経験を取れないので、いつも相手に対して「分かったようなこと」を言う形になる。それ以外のやり方が本人には見つからないのである。相手の言うことから経験が取れないので、立場や観点で言われていることだと変形する。そして立場や観点を論評するのである。
(2)またこれらのローカル・ゾンビは情報量が増えると、視野も経験も狭くなっていくタイプの神経症でもある。情報として雑知識はいろいろ知っているようだが、基本的なことは何も分からない。勢い込んで発言すると、自動的に嘘になるという、「一生懸命に嘘を言う」という特質が出てしまう。悪意はまったくない。ただおのずと嘘が出てしまう。必死になると、建前上の嘘が出てしまう。これは固着型の妄想に類似してくる。
典型的には、韓国の文在寅やそのスタッフにこの傾向が出ている。一生懸命自己表明すれば、大きな筋違いの中に入り込み、意図も作為も不明な嘘を平気で述べることになる。自己表明を周囲も理解し、受け取ってほしいという願望は、その範囲内ではわかる。だが実際に何を言いたいのかがわからないのである。
多くの場合、思っていることと、言葉で発していることがおそらくズレてしまい、両者の間に乖離がある。だがそれがなぜそうした主張になるかが周囲には分からないのである。そのため個々人の問題に帰着すると、ある種の「妄想」だと考えるよりない。周囲から見ると対応可能性がないので、しばらく時間を置くという以外の選択肢が見つからないのである。
(3)複雑な事態への理解がない場合には、言語表現へのかかわりに、余白も余剰もない。主語‐述語形式の単純な事態の理解と、文字通りの追認が基本となるので、言っていることは、たとえば社会や政治について語れば、おのずと旧社会党や共産党に似て来てしまう。言葉に微妙さや余白や背景事情(地平)がない。この場合、イデオロギー的に親和性があるというよりは、むしろイデオロギー主導的な人たちと、ローカル・ゾンビとは、経験の仕組みが構想的に似て来てしまう。そのためイデオロギーを欠いた類縁性が生じる。言葉を立場や観点に関連付けて取っている以上、この類縁性は構造的なものである。
このタイプに直面して、そのつど受け取った現実に対して、「選択肢」を増やして対応するようにというアドヴァイスを送ったことがある。だがこの言葉の意味は理解できても、容易に実行には落ちてこない。不思議な事態に至っている。
(4)物事の認識では、多くの場合、出発点の前提か、結果の評価だけが問題となる。物事の経験を立場に縮小し、配置をあたえるだけになる。経験はプロセスのさなかで選択に直面するはずだが、それがすべてすっ飛ばされて、前提の議論か、結果の評価の評論となる。前提の仕組みが論じられれば、見かけ上哲学の装いをもち、結果の評価は、ただの三文政治屋であり、床屋政談である。
プロセスのさなかで工夫する職人的な試みが、ほぼ欠落している。なぜそうなのかが分からなくても、前に進むことはできる。それが職人的な工夫である。だがわからなければ前に進むことができない一群の人たちのなかに、確実にローカル・ゾンビはいる。「賢明さ」が感じられず、立場や観点での主張となる。
すべてはあらかじめ決まっている(決定論、運命論)と、人間は自由である(非決定論、非運命論)は、どちらかを選ぶような問題ではない。決定論と非決定論は、両立する。すべての人間はやがて死ぬ。これは間違いないことであり、最終結果を取れば間違いは起きようがない。だが個々の場面ではそのつど最善の選択をする以外にはない。そして最善の選択をするように試みることはできる。プロセスのなさかにあることと、結果が決まることの間には、相当の隔たりがある。この隔たりの中で、自然法則も詳細になり、人間の経験も詳細になる。
出発点で原則を立てて考える(哲学)ことも、結果の側を見込んで出発点に設定しなおすこと(科学)もいずれも狭すぎるのである。両者に共通するのは、プロセスが欠けていることである。出発点か最終結果かは、本当は大きな違いではない。
それ以外にも別の局面で顕在化する「ローカル・ゾンビ」がある。論理学のような新たな規則の修得の場面で、何人かで話をしているとき、言葉の上では「何かを言っているが、その人だけは分かっていない」と察せられる人がいる。言葉だけは周囲に合わせているが、それは会話の接続の場面だけで、実際には「あの人はおそらくできない」と感じられる人がいる。このタイプも、「ローカル・ゾンビ」の一つである。
行為のさなかでの「了解」は、実践的行為能力の形成であり、それは「自己認識」とは異なる。周囲からどう見られているか、周囲にどうやって合わせるかは、自己認識であり、いわば「自意識過剰」状態である。自分の能力をどうやって拡張していくかが問題になっている場面で、周囲からどう見られているかにすり替えてしまう。
これは能力の形成とは別のことをやっている。「自分自身」がこよなく大切なようである。プロセスのさなかに居続けることができず、プロセスの外から自分自身を知り、自分を守りたいのである。このときすでに能力の形成は、打ち止めになっている。理解に代えて、「自己正当化に彩られた自己認識」を使おうとしている。
物事の実践的修得には時間がかかる。この時間をじっと過ごしていくことができなくて、すぐに使える既存の知識を持ち出し、その場で言えることは何でも言う。少し関連がありそうだが、ほとんど関係のないことに延々と言葉を費やす。これも「ローカル・ゾンビ」の一つであり、言葉でやり過ごすことが周囲を騙すことにつながっていれば、小規模な「サイコパス」である。一度味を占めれば、同じことを繰り返すので、自動的に同じことを繰り返す「自動症」が出現する。
言葉で周囲に通用することだけに掛けていて、言葉でその場を乗り切っていくのが、「サイコパス」の特徴の一つでもある。相手や周囲にその時々に通じれば、それでよいのである。その場でつうじなければ、また別のことを持ち出すだけである。サイコパスは幼少期から自己訓練を積んでいると見えて、この言葉の持ち出しに一定の能力が感じられる。だがこうした言葉と運用の有効性の範囲は、そう大きくなものではない。およそ詐欺まがいの仕事か、二重スパイの仕事か、盗聴やサイバー攻撃ぐらいが適職だと思える。相手の隙を見つけて取り入ることの本能的な能力を具えているのが、サイコパスである。
人間のことだから、能力の形成を実行しなければならない場面で、別のことを行う(代償機能形成)、その場で一番容易なところに落とし込みそれでやったことにすり替える(すり替え)、実践的行為が必要な場面で、言葉での認識で代用する(代用)等々のことで、自分で能力の形成を打ち止めにしてしまう、ということがしばしば起きる。だがこれらも時として、人間であることのまぎれもない証しなのである。情報社会の中では、あらかじめ自己防衛された領域が多々ある。言葉の9割は、嘘だとおおらかに感じ分けているものがいる。言葉をつうじて言葉の向こう側に触れる訓練が必要なようである。言葉はつねに言葉をつうじて言葉の外に触れていくためのツールなのである。
ついでに言葉と経験の関係に触れておく。言葉と経験の関係は、各人にとって一様ではなく、また語の性格からしてかなり大きな振れ幅がある。言葉と経験の関係については、実は哲学で明確に問うことのできる枠組みはない。言葉の中には、体験的現実がなく、言葉の意味から二次的に現実を作り出すような語が紛れ込んでいる。寄り道になるが、一通りのモードを取り出しておく。
1)存在、絶対者、永遠、無――共通の特徴は、なんとなくわかっているが、意味内容は確定しない言葉が術語として入り込んでいる。永遠という言葉は、誰も経験したことがない。経験の延長上にイメージでなんとなくわかるということであり、言葉と言葉の意味を拡張するようにして、何かを掴んでくる。そしてそれを哲学だと自称する。人間の言葉の中には、いくつもの不思議な言葉がある。ハイデガーが「存在」という語に、思いを乗せた。思いを拡張するようにして語のイメージを広げて、哲学用語にしようとした。
たとえば物を見るとき、何であるかを知ることは知覚の働きである。それと同時に、物を見ながら、「物が在る」ということに察しが働いている。その察しを単独で取り出すと、「存在」になる。言葉を勝手に拡張し、歪曲している面が伴う。それでも議論に展開可能性があればよい。多くの場合、経験はなにか「究極のものに触れた」と思い、それで思考停止である。展開可能性のない究極のものに触れた気になれば、哲学はそれで終わりである。
実は「存在」はそれ単独の事象ではない。「存在」にかかわるものは、それに触れ分かったと思ったときには、すでに終わっている。言葉に囚われ、言葉に思いを乗せた途端に、すでに哲学は終わっている。いわば罠に落ちたのである。こういう仕方で人生を誤った日本の哲学者はかなりいる。言葉で分かった気になれる、というのは最初からどこかおかしいのである。
だがこうした隘路に嵌り込む人たちの中には、ごく少数であるが、「存在」を、自分自身を超越する感覚的確信として、捉えてしまうものが紛れ込んでいる。これは疑いようのない確信であり、統合失調調性の確信である。本人はおよそ無能に近いほど、事務能力も、分析的判断能力も、総合的判断能力もないと感じられる。それでもこのタイプに限っては、不思議なことに知能低下が起きない。それに対して、言葉の意味理解から言葉に囚われてしまうような「神経症系」の多くの人は、言葉に囚われてしまえば、いずれほどなく「知能低下」が進行する。見かけ上、ローカル・ゾンビに見えるものでも、統合失調症系と神経症系では、その後の変化はまったく異なるものになる可能性が高い。たとえてみれば、神経症系の人たちは、トラック内でレースに参加しているが、よく見ればその人だけ2周遅れなのである。2週遅れているが、言葉だけ「レースに参加している」と語り、遠目から見ればそうした情景にも見える。おかしな言葉に直面したとき、1周遅れか2周遅れかと問うてみることができる。これに対して、統合失調症性の人たちは、実はトラックのなかにはいない。
2)魂、本能のような語は、医学的にはそれに対応するものはもはや存在しないことが判明している。魂というような実体はない。魂は複合的な活動態である。だが「魂」を論じてきた歴史的経緯はあり、また現在でも「比喩」として活用することはできる。これらの語は、本来「名詞」ではない。名詞になるような「実態的な存在」ではない。そうすると魂は、述語であり、活動態の場合には、動詞である。これらの語は、比喩として活用して、活動態の新たな局面が取り出せればそれでも成立する。言葉に実体性をもたせず、発見法として活用するのである。
3)情態性のなかにまだ明示的に記述できないものを取り出す。たとえば根本的に「何かが欠落している」と感じられたとき、「欠落感」という情態性を取り出すことができる。
坂口安吾(東洋大学文学部出身)が行ったやりかたである。情態性をさらに繊細に新たな局面を取り出すようにやってみる。これは多くの場合、文学的な発見でもある。
安吾にとって、自分の経験がもっとも自在に動く場所がある。その場所が、作品の生みだされる場所であり、安吾固有の体験の成立する場面になっている。それを「ふるさと」という語に託して語ってもいる。この場所は一般的な意味での「温かみがあり、無条件に安心できる場所」のようなものではない。またどこか心がしっくりとくるような場所でもない。むしろなにか緊張感が解除されて、ふと力の抜けるような場所のことである。
安吾にとっては、通常の人間の文化や人間の営みは、どこか「過度に人間的に」制約されたところがある。それはある意味で人間であることの否応のない制約であり、同時に何かを余分に身にまとっている文化である。安吾はおそらくそこに居心地の悪さを感じ取っている。それを人間の虚飾だとするような理詰めの議論ではない。その程度の虚飾であれば、安吾のことだから笑ってすますことができる。むしろどこか居心地が悪く、場違いな印象をもっている。そのことをみずからに言葉で説得してもほとんど何も変わらないような場違いの感触なのであり、いわば安吾にとっての人間の本来性から見た「嘘」なのである。人間の人間らしさを感じることのできる場所が、安吾にとっての「ふるさと」である。そしてそれは一般的には、奇妙な「ふるさと」である。
「愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞いに行って、お婆さんに化けて寝ている狼にムシャムシャ食べられてしまう。
私たちはいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。・・・
それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものであるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。」 (「文学のふるさと」27)
情感としては「悲哀」が漂うが、それは善悪や喜怒哀楽の一切の現実の条件にかかわらず、おのずと欠落していくものへの「非哀」である。「非哀」とは悲哀の一歩先にある底なしのどうしようもなさのことである。あるいはそれは明確な理由もなく欠落してしまうものがあることの現実の否応のなさでもある。そしてそうした欠落していくことを引き受けていく以外にはない現実性の深さであり、一切の人間的な思いの向こう側でなお進行してしまう現実性のやむをえなさである。そこでは不条理な人生を嘆くのではなく、また悲運を悼むのでもない。もとより人間の現実はかくも残酷であると、どこか諦めに似た得心を獲得したのでもない。こうした残酷な現実に直面することが、そしてそれが明るみに出てしまうような事象に遭遇することが、いわば安吾にとっての「快」なのであり、「非哀」なのである。こうした新たな情態性の語りは、一つの発見であり、語に新たな含みを持たせることでもある。
4)重さ、運動――これらの語は、つねに体験されており、毎日体験し続けている。科学的な記述もたくさんある。だが何も終わっていない。未完、未了、未定が語にかかわる経験の基本である。重さで言えば、宇宙空間では物は落下しないが、運動しているものには、重さが出現する。前面から来る風も風圧という重さとなる。重力質料と慣性質料は、別個に定式化され、それらが統一されたかどうかは判然としない。アインシュタインが、それらを統一したという時、両者を別の場面に置き代えただけというようにも見える。現在問題になっているのは、重さをもたらす素粒子である。予言されているが、見つかってはいない。運動も似たようなものである。
これらの語に相当する経験は、新たな局面が見いだされ、重さや運動の内実が変わり、新たな経験をもたらし続ける。究極のものをもとめるのではなく、これらの語にかかわる体験を、クラウド型のマトリックスとして捉えることが必要となる。言葉の周辺で経験のマトリックスを捉えることが必要である。こうした事態を、PCオンラインで伝えていくことは容易ではない。一度話したぐらいでは、ほとんど何も伝わっていない。そのためこうした語にかかわる経験を伝えていくためには、動画を作り、何度も再生して見られるようにしておかなければ、学習という経験が成立しない。
語の周辺のマトリックスは、線型ではない。これらの語は、そのため逆にアイディアと可能性の宝庫なのである。展開可能性に開かれていることが基本で、これらはシェリング、ベルクソン、ドゥルーズが実行し続けている。言葉の活用法を誤れば、ただちに筋違いの回路に入り込む。それが哲学の罠なのである。
(2020年11月30日)