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不思議な挫折――能力の特異形態

河本英夫

 とても興味深い能力があると感じられるのに、数年(約6年間)にわたって、まったく能力を前進させることができないままの院生(もしくは成人、ST君と呼ぶ)にかかわってきた。おそらく年齢は50歳に近いのではないかと思う。アドヴァイスがことごとくすれ違い、ほとんど効果をもたない。何を言っても、最終的に同じ場所に議論が戻ってしまう。別の素材で考察を開始しても、同じ場所にもどり、そこからは前に進めないのである。
大学院では、博士を何人作るかが仕事だから、ともかく博士論文に向かって手順を進める。だが博士論文の手前で、そもそもST君は「論文」が書けないのである。前任者の担当から引き継いで、都合6年間その院生(精確には3年間院生、3年間満期退学後)ST君と付き合ってきたことになる。だがこれだけの年月をかけても、本人の論文と言ってよいものが1本も書けない。
 本人は何かは掴んでいる。その何かもほぼはっきりしている。だが本人がそこから1歩も進むことができない。ある「感覚的な確信」がある。そしてそれじたいは魅力的で、何かの大きな可能性を含んでいるとも感じられる。だが何年たっても、展開可能性が出てこない。何年やっても同じところから進む様子がない。ぐるぐる同じところを回っているという印象ではない。また何をやっても同じことになるというのでもない。印象は少し異なる。
 同じ領域で猛烈に情報量は増えるのに、何一つ経験は進まず、ほぼ同じことを言い続けているという事態は、SNSでは広い範囲に見られる現象である。情報量は増えているのに、視野も経験も狭くなる。それは言語的、情報的な「応答可能性」の範囲だけで、経験が動いているためである。
情報は、「応答可能性」を基本として成立している。だから応答可能でないものは、その人の現実の範囲になかには入ってこない。また応答とは異なる仕組みで動く経験、たとえば技能の形成や、能力の形成はまったく対応できなくなる。少し複雑で応答の仕方を変えなければならないものも対応できない。そして多くの場合、応答可能なおしゃべりへと戻っていくのである。
何かを言っているようである。だが何一つ踏み出すことがない。いつも同じ情報の平面のなかを動いている。言葉で応答できれば、何かをやったことになる。こうしたタイプの者たちは、周囲に大勢出現するようになった。言葉の応答によって多くのことがわからなくなっている。言葉での主張は多いのに、実際にはなにもわからない。こうした応答可能性による経験の狭窄とは、まったく別のことがST君では起きていることは、うすうす察せられた。
 不思議な感じである。ST君は、経験のなかで、ある場所を通過させなければ、経験は動かない。本を読む。この場所に触れる箇所だけを取り出してくる。そこにだけ反応している。そしてひとたびそこに反応すれば、そこからもはや出られないのである。こうした場所に触れることができるものしか読まない。精確に言えば、そうした触れ方のできるものしか分からない。
 見かけは奇妙に勤勉で、過度に一生懸命である。そして何度も同じ主張を繰り返している。自己主張である。だがそれにもかかわらず、何一つ成果らしきものがない。例外的と言うより、数年に一度遭遇してしまうようなキャラである。
 類似した事態は、カフカの『審判』の主人公ヨーゼフ・Kに見られる。ある朝、突然「自分が逮捕されてしまっている」という確信に、捕らえられる作品である。逮捕されているのに拘束はない。それどころか職場の銀行に行くのは自由であり、職場でも自分を見張っているものがいる。明らかに前日までとは異なる。一切の拘束のない逮捕である。実際には自分を見張っているのは、通行人であり、銀行出入りの業者にすぎないのだが、本人にはすでに「見張られている」という被注察感の志向性が前景化している。
この逮捕は不当であり、この不当逮捕に対しては、断固戦わなければならない。逮捕を勝ち抜くことこそ、自分の使命であり、運命である。ヨーゼフ・Kはこう決意して、週末になると町はずれの裁判所に出かけていく。そしてこの逮捕は不当だと、「大演説」を行うのである。聞くものは誰もいない大演説である。おそらくこれ以降、ヨーゼフ・Kには戻る場所はない。
 ここには「反復」の基本形が出てくる。ある確信に届きそうになる文章に遭遇すると、「それでも違う」と言って、元いた場所に引き返す。さらにもう一度同じ個所に立ち戻ってみる。やはりそれでも違う。そしてまた元いた場所に引き返す。これを繰り返すのである。
 時として、ここを通過したと感じられる場面に遭遇することがある。そしてそこからさらに進んでみる。するとまたその先に同じ場所が待ち構えている。あそこで分かったのだから、さらに前に進んだはずだ。ところがまた同じ問題が待ち構えている。何度も同じ問題と場所が待ち構えている。
 この場所が、カフカでは「掟の門」と呼ばれている。本人の経験のなかでは、場面によっては、いずれのモードも出現しているようである。ここでは「反復」が構造化されている。この場所をめぐって、さまざまに解釈をすることはできる。デリダにも解釈の試みがある。そしてST君にもいずれのモードも出現している。気分を変えてニーチェを読んでみようと持ち掛けると、読んではみるがただちに引き返してしまう。何かが違うと言って引き返すのである。そして本人の気に入ったものを読めば、何年読んでも同じところに戻っていく。そこからの展開がまったくなく、同じところに戻っていくのである。
 これはブランケンブルクの言う「過度の自明性への自足」に近いものだと思われる。周囲から見ると自足に見えるが、本人はヨーゼフ・Kと同様に、必死であがいている。この必死のあがきが、自足なのである。自足は、自足そのものをつうじて「自己正当化」される。必死のあがきは、あがきそのものによって自己正当化される。
「持続」とは、本人の不断の努力であるが、そこには同時に「自己正当化」が出現する。「自足」とは全力で行われている自己正当化された「停滞」のことである。そしてST君は、ここにはまっている印象を受ける。
 一般には「分裂性妄想」と呼ばれるもので、本人の感覚的確信を通過させなければ、経験が起動せず、感覚的確信を通過すれば、そこから一歩も進むことができない。そのため論文に必要な概括的で全般的な記述は、ST君本人はできないようなのである。
この感覚的確信以外のところは、ごく普通の一般人と同じようにごく普通の社会生活を送ることができる。ただし一般社会人と異なるところは、特異点があり、この特異点にかかわる部分が、本人の能力の発揮の源泉であり、能力の限定の源泉でもある。このタイプは実際には相当数いて、どんなに勉強し本を読んでいても、結局文章は書けない。
 知り合いの精神科医にもこのタイプがいて、膨大な本を読んでいるのに文章は書けない。口頭での発言は際限なく行うことができる。この精神科医は、文章を書こうとすると特異なことが起きた。すべての文章は、同じ文字数(20字)となったり、文章全体のすべての段落が4行ずつになるということが起きた。そうしなければ文章は書けなかった。ところがこの精神科医は、ほとんど他の医師が接点を持てない患者にも接点を作り、ほとんどの医師がお手上げの患者を治したのである。ある種の天才的な治療能力を備えていた。文章を書くさいの奇妙な能力の発現が、同時に天才的な治療能力であるような場面に連動している。
 ST君の場合、この感覚的確信はある種の「超越」の経験である。超越に触れるという場所を通過しなければ、経験は動かず、その場所を通過すれば、まさにそのことによって前に進むことができない。こうしてST君とのかかわりができて6年間も経過してしまった。超越の経験は、あらゆる宗教書には出てくる。だがどの宗教書でもまだ届かないとST君は感じているようである。
さりとて自分で教祖になることはできない。自分で教祖になることは、自分自身を超越することだから、もはや超越への経験ではなく、そこでは超越するものが何もなくなってしまう。みずから超越したものは、もはや自分自身のなかに超越への確信をもつことはない。超越に触れるという確信は、自分自身が超越することを忌避してしまう。ニーチェは、この忌避こそ人間の生きる本能を抑え込んでしまうという思いを抱いていた。そのため自己超越の仕組みを考案し、それを「超人」だと呼んだ。超人への思いには、ニーチェのイエスへの嫉妬と対抗心が出ている。
仕組みはかなり簡単で、苦難や困難や災難に触れると、自分ではどうしようもなければ、「祈り」や「願い」を自分の身の丈を超えたものに向ける。ニーチェは、苦難や困難や災難は終わることがなく避けることもできない。だから苦難を受け続けることを不可避だと考え、それを積極的に受け止めて(能動的ニヒリズム)、苦難を受け続ける自分自身を超えていく(超人思想)ことが必要だと説いている。
 だが超人思想は、超越に触れるという感触を断ち切ってしまう。だから本能的に避けるものが出てくる。この忌避の仕組みをST君が持ち合わせているために、さらにある種の「神経症」が出て来てしまう。
神経症は、言語で自分の確信を繰り返し正当化することである。この正当化が、倫理性を帯びる。ST君によって環境問題が繰り返し持ち出され、環境問題は人類の道徳性の試練だという思いがST君にはある。つまり自分自身を超越しないという自己限定と同型に、環境問題に対しても「禁欲」が道徳的に実行されなければならない、という思いがST君にはある。
 科学技術によって引き起こされた問題は、大半は科学技術の改良によって対応される。プラスティックゴミへの対応は、植物性の製品に代替されれば、やがてバクテリアが分解してくれる。大半の対応は、テクニカルなものである。それを人間の「傲慢」「不遜」だとして、抑制が必要だとST君は考えているようである。別段それに対しては、異論はないが、それが「わざわざ言うほどのことなのか」が分からないのである。そう思う人がいることは否定しないし、そう思いたいという人はそうすればよい、という印象である。だがST君は、まさにそれが「問題の本質」だと考えているようなのである。
 分裂性の病態のダイアグラムのなかに、広範に「神経症性固着」は出現する。分裂性妄想にも、離人症にも、夢幻性病態にも、神経症的な傾向は出てくる。それは言語的な記述によって、自己正当化と自己安定が図られることに起因している。
ST君の場合も、超越に触れるという感覚的確信の経験を付帯的に正当化するために、抑制と道徳性という言語的な正当化の仕組みを備えてしまっている。そしてここでも同じ言い分を繰り返すのである。抑制がかからなければ、正しい道徳性だと感じられないようなのである。はっきりしていることは、この「正しい道徳性」は、論文の良し悪しにかかわる問題ではなく、また論文の必要条件でもないという点である。
先端医療技術でも抑制が必要だという。多くの希望者のいる「臓器移植」にも抑制が必要だと言う。臓器移植の問題は、免疫適合性の点で、細かい検査の必要な問題である。ところがその細かさを一挙に飛び越えて、抑制が必要だと言う。人間であり続けることの可能性をあらゆる点で拡張していくのではなく、人間の本質とは道徳的な抑制だという思いが全面を支配している。それを普遍化可能なように主張に盛り込むことは至難である。
 こうなるとニーチェはもはや読めない。それどころか正直に言えば、読めるものはおそらくほとんどない。経験の振れ幅を自分で限定したために、ごくわずかのことしか対応できないようである。
 ヨーゼフ・Kは、さまざまなあがきをやったあげく、逮捕されて1年近く経過したある日、僧侶から呼び出しを受け、教会の大きな建物(ドーム)の前面で落ち合うように誘いを受ける。勤務中の銀行から抜け出せば、もはや戻ってくるところはどこにもないとヨーゼフ・Kは感じている。それでも行くのである。そして僧侶から「掟の門」の話を聞かされる。
 この話は、最晩年の農夫に仮託して語られる。最晩年に財産を処分して荷造りをして、あの有名な「掟の門」に入ってみたいと一念発起して、農夫は掟の門の前にやってくる。そこには一人の門番がいる。農夫はこの掟の門に入ろうとするが、門番は「今は入れることができないので帰れ」と言う。子供の使いではないのだから、帰れと言われて、そのまま帰るわけにもいかない。そこで門の前で野宿して、次の日も掟の門の前に行ってみる。そうすると前日と同じで、門番は、今は入れられないので帰れという。そしてこれを繰り返し、農夫は門の前で衰弱していく。門番は、農夫の様子を見に近づいていく。農夫は、残された力を振り絞って、門番に聞く。
もう門の中に入れないが、この門のなかに入れば、中には何があるのか。すると門番は答える。「門のなかに入れば、次の門があるだけだ。」農夫は当惑する。そして最後の力を振り絞ってさらに門番に聞いてみる。
長い間、この門の前にいるが、他の誰一人として、この門に入ろうとするものはいない。いったいどうしてなのだと問う。門番は答える。「この門は、お前のためだけの門だからだ。」
 うまく出来すぎている話である。含みが大きすぎて、どのように解釈しても、剰余が大きすぎると感じられる。それでもなお反骨精神が残っていれば、農夫は「そうなると門番、あなたは私のためだけの門番なのか。私の現状は悲惨だが、あなたも同程度に悲惨ではないか」と問いかけることはできると思われる。この話の隠し味は、本当はこの「門番」にあった。門番とは何をする人なのか。
ヨーゼフ・Kは、僧侶のこの「掟の門」の話に猛烈に反発し、そんな話には付き合えないと反論する。僧侶は、望むものは拒まず、去りゆくものは去りゆかせるだけだと答える。そしてヨーゼフ・Kには、もはや戻る所がどこにもなくなったのである。
振り返ってみると、博士論文の指導教官は、この門番に構造的に似ている。筋違いの門に入ろうとする院生に遭遇すると、結局は「この院生のためだけの門番」をやらなければならない。そうするつもりはなくても、構造上そうなってしまう。そしてやっかいなことだが、ヨーゼフ・Kに応対する僧侶も、ヨーゼフ・Kのためだけの門番の役割を担っている。
この場面は、多くの葛藤と挫折を含みながら、現実には「何も起きていない」という事態である。現実は何一つ動いておらず、何も変化はない。そして不毛感、疲れ、後悔ばかりが残る。何も成果のないためだけの門番。この門番は、いったい何をしているのか。正直、こんな門番は長くは続けられない。何も起きていないのに、騒ぎだけは起きる。この騒ぎは一体何をしているのか。
 ST君のような院生には、もはやどうしたらよいのか私にはわからない。おそらくできることはほとんどないのである。一定頻度で、ST君のような院生は出現する。一般社会から見れば、本人の気質と本人の願望との間に、はなはだしい乖離があり、それを埋めることができないように、本人の資質が形成されている。それをなんとかしてくれと、論文指導を持ち込んでくる。ほぼ不可能な課題を突き付けられていることになる。本人に代わって、自分で原稿を代筆したほうが早いという誘惑に駆られる。それをやれば短期的には結果が出るが、おそらく何もかも台無しにしてしまう。テクニカルにこの超越の確信と論文は別の物だと分離して、論文は別の作業として実行できればよいのだが、それもできない。
分裂性妄想は感覚的確信であるために、それじたいを解除することはできない。神経症性の妄想(パラノイア)とは、まったく質が異なる。雰囲気もまったく異なっている。余分なものの余分さの質が異なる。ともにときとして大演説を行うが、大演説の質も違う。パラノイアは世界を語りながら、こっそりと裏側で「「自己正当化」を行っている。いつも世界や国家や社会を批判的に語りながら、裏側に張り付いている「自己正当化」が透けて見える。
ところが分裂性の感覚的確信は、大演説を行っても「一点突破」である。そしてそれがある限り、同じところを通過しながら同じところに戻ってしまい、原稿を書くことはほぼ不可能である。経験を別の場所に誘導しなければ原稿は書けないが、別の場所に移動することをST君本人はまったく望んでおらず、別の場所へと足を向けてもまた同じところに戻ってくるのである。
前任者は、データ処理のような実務的な手続きを推薦していて、それができるならばそうしたほうが良いのである。実際、生命倫理であれば、膨大な文献がある。それを丁寧に文献処理していくことはできる。ひとつひとつ丹念に行う作業である。だがST君は、そんなことはやりたくないとあっさりと放り出してしまった。
実務的な作業を実際にやってみれば、おのずと思いも変化することもあるが、あらかじめそれは拒否されている。ブランケンブルクが、このタイプの患者に日常の手仕事作業を導入しようとしたことがある。ところが夕暮れになってもなにもしていない。そこでどうして作業をしないのかと問うと、本人は「何もしないことを学ぶことも大切だ」と答えたという。感覚的確信の一貫性は、いつも度を越している。なくても済む場所で、なお一貫しているのである。それが一点突破の意味であり、言動は不健全なほど一貫している。健全性とは、少なくても一定の複雑さを維持していることであり、それは本人にとっても予想外の「ゆらぎ」を産み、想定外の可能性に触れることでもある。それがあらかじめ封じられているのが、感覚的確信である。
さりとて小説のように、場面を仮構して物語を紡ぎ出してみる、というのは一般には良い企画だが、おそらくこれをST君は実行することはない。というのもすでにST君は自分で特定の物語の中を生きているからである。ヨーゼフ・Kもすでに物語の中を生きている。
その場合、おそらくすでに現実性のなかでの対応可能性の幅が狭くなっている。またカント研究やヘーゲル研究のような延々と付き合い続ける作業もおそらくできない。というのも例の感覚的確信以外のものを読み続けなければならないからである。そしてそれはST君にとって本意ではない。疎遠なものにかかわり続ける労苦は、おそらくST君にとって耐えがたいのである。このとき学習とは、まったく入る隙間のないところに、無理やり物を捻じ込むような苦行となる。そのため研究以前に、そもそも学習能力に変容が及んでいる。
こうなると指導という位置から見れば、もはやほとんど選択肢は残されていないことがわかる。すでに博士論文を書き上げたFT君にもアドヴァイスをしてくれと頼んでみた。だが結果は同じようなものである。挫折が構造的に約束されたようなプロセスがある。それをカフカは、『審判』だと呼んだ。おそらくそれも「掟の門」と同じような仕組みを備えているのである。
 カフカの作品では、この『審判』と『変身』だけは、作品は完結した。だが多くの作品は、未完で終わっている。区切りの付く仕組みをそもそも活用できない構造が、カフカにはある。決着のつかないプロセス、それも『審判』である。現実には、ヨーゼフ・Kは、逮捕されて丸一年経つ前日に殺害される。そしてこの作品は終わる。死は、決着ではなく、むしろ宙吊りである。だがそのことによって作品は終わることができるのである。

(2019年12月20日)

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