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フェミニズム神経症

河本英夫

2018年11月24日(土)に、私は立命館大学哲学会で、「活動の哲学とオートポイエーシス」という招待講演を行った。この末尾でいわゆる「内在的倫理」と言ってよい倫理の仕組みを導入した。仕組みは簡単なもので、倫理規範や倫理規則を外に設定するのではなく、経験のプロセスのさなかで「倫理」そのものを立ち上げていくやり方である。
講演の最後の場面で、カントの定言命法に倣って、行為の定言命法を設定した。その二番目の事柄にかかわるものでわる。定言命法じたいは3項目に分かれて設定される。
制作行為:つねに別様に新たな経験が可能なように行為せよ。
実践的行為:つねにみずから自身が継続可能なように行為せよ。
認知的行為:つねにどこに選択肢があるかに気づくことができるように行為せよ。
定言命法は、行為者自身が、自分自身に命じるやり方であり、自己立法である。それを設定することは、自己認識の上では自分自身の行為を方向付ける「統制原理」となり、行為として見れば倫理が出現する場所の設定となる。
個々の倫理は、さらに具体的な姿で状況依存的にそのつど具体化されたものとなる。ここでは制作行為(美)、実践的行為(善)、認知的行為(真)という順で、定言命法が設定されている。真善美という伝統的な経験領域の配置は、アリストテレスにもカントにもみられる。それが逆転されて、美善真の順になっている。経験を「形成されていくもの」という点で構想していけば、こうした配置になる。哲学は、何を知りうるか、何を行いうるか、何を希望しうるかという基本的な問いにかかわるが、真なる事態を知るということから、善が導かれ、さらに何が希望できるのかという点で設定された場合、認識という大枠の中に、善や希望が配置されることになる。アリストテレスやカントが行ったのはそうしたことである。
それに対して、行為では、あらかじめ真なるものが確定しない。むしろ真とは最終的に暫定的に確保される行為的経験の副産物である。行為的経験は、いずれにしろ前進しなければならない。そこが起点になるよりない。そこが制作行為の定言命法となる。そこから善に進んでいくことになり、さらに認知的には暫定的な真が確保されるかたちになる。
この倫理の設定は、あらかじめ出発点の外に倫理基準が置かれる形にはならない。むしろ経験というプロセスのさなかで「倫理性」をそのつど出現させていくことになる。そのさいにあらかじめ結果が確保されるようにもならない。あらかじめ前進的に継続可能性ということが確保されているわけではない。継続可能性は、どこかでそのつど確保されなければならないが、そのつど性をもつよりなく、どこかで結果として確保されて確定するようなものではない。その意味で結果から割り当てられる倫理性でもない。その意味で「功利主義」とも異なる。その意味で経験のプロセスに対して、倫理の内在化であり、「内在的倫理」にしかなりようがない。
こうした倫理を考えるさいに、「反実仮想」は思考の幅を広げて行くために欠くことのできない手法である。たとえば「男女差別」はやってはいけない。その原則の幅を吟味するためには、反実仮想は必要に応じて活用することになる。男女差別をなくすという場合には、たとえば「男子トイレ」と「女子トイレ」の区別をなくしてしまうことなのかというように、起きてもいず、起こりそうもないことを考えながら、原則の吟味を行うのである。男女の区別は、生得的には落とすことができないほどの幅で残ってしまう。そうするとそうした区別までなくすということではない。男女の区別はあるが、差別はいけないというとき、差別の範囲が問題となるが、それを確定していくためにも反実仮想という仕組みは手段として有効である。
意図は明白である。反実仮想は選択肢を増やし、経験の振れ幅を大きくして、それぞれの人の自由度をあげることである。個人的な思いとしては、誰でも遠慮なく正面を切って、表現の可能性を創り出していくことである。
11月24日の講演の末尾で、実践的行為の定言命法の事例の場面で、痴漢の例を取り上げ、「相手に明日も期待されるような痴漢」はどうなるのかという事例を用いた。この事例が騒動の発端となった。反実仮想であるから、起こりそうもなく、まず起こらない事例で進むしかない。騒動は予想外の広がりを見せ、さまざまな人間模様が浮かび上がることになった。この文章は、そうした人間模様の多様さを浮かび上がらせるためのものである。私自身が想定もできなかったほどの人間模様が浮かび上がった。
きっかけは、その講演に参加して聞いていた立命館大学の院生(Y、Y)が、ツイッター投稿した文章である。骨子は「相手に望まれるような痴漢をせよ」というものである。これは男女差別の撤廃を主張して、男子トイレと女子トイレの区別をなくせ、という主張に似てくる。反実仮想は、仮定であり、多くの場合仮にそうであればどうなるのかという設定でなければならない。そこを通り越して、定言命法のかたちにすれば、どうみても騒ぎにはなる。
実際に、実行してみればわかるが「相手に望まれるように痴漢を実行す」れば、すでに犯罪ではない。またそれは痴漢でもない。行為そのものの意味合いが変わる。かりに実戦練習として行うようなことになれば、99%は警察行きである。つまり継続可能性を満たしていない。そこで当日は、「痴漢は絶対にダメだ」という話をした。複数回繰り返したと思う。
この主張は多くの人の関心を引いたのか、瞬く間にヒット件数が上がり、そこに朝日新聞京都総支社の記者が混ざりこむことになった。11月26日には、大学宛に取材依頼が来た。おそらく立命の哲学会にも同じ頃、朝日新聞から取材依頼が届いたと思われる。立命は、ただちに対応を余儀なくされたと思われる。
ただしこの投稿は、こうした高度なものではなく、ただ「痴漢」という言葉に反応して、そうした言葉はそもそもが「男女差別」だと思い込んでいる敏感感応性から生じたものである可能性が高い。神経症性の敏感感応である。自分で使わないようにしている言葉を他人が使ったということで反応がおのずと起きるのである。
これは軽度の社会病理である。敏感感応性が起きれば、反射反応であるために経験はそれ以上細かくなることはない。同じ場所で、同じことを繰り返すだけになる。また敏感感応性では、訂正可能性はなくなるので、自分の思いこんだことが「事実」となる。こうして神経症が出現するが、この神経症を増幅させるのが、SNSである。たとえば「ハゲ」という言葉は、お笑い系の芸人が売りネタとして使ったり、それなりの風貌をそなえたジャーナリストがトレードマークとしてつかったりする。他方元国会議員が、自分の運転手に「このハゲ」と呼んだりする。言葉は、使われる状況や環境を離れては意味がない。それにもかかわらず言葉を単独で取り出し、その語の社会的価値を勝手に自分で決めてしまうのである。そこに軽度のイデオロギーが出現し、社会病理が発生する。
SNSの精神医学的特徴は、「演技性人格障害」と「自己愛性人格障害」が水準を切り下げて恒常化することである。情報ネットワークは、それに反応してくれる人の連鎖で成立する。すると偽装してでも、反応のありそうな発信を行ってしまうという欲求に巻き込まれてしまう。事実や内容を超えて、反応を求める方向に向かうので、そこに不可避的に「演技性」が絡まってしまう。「演技性人格障害」は、恒常的に平準化されたものとなる。演技性人格障害の最初の項目が、「注目されていなければ、面白くない」という内容である。要するに注目を浴びるようにおのず事態を組み換えてしまうのである。もう一つの症状であるのが「自己愛性人格障害」である。内容は、自分は社会にとって貴重な人材であり、重要な人たちとかかわるべきであり、本来そうした人たちと交わるべき人間だと確信しているように、自分自身への過大評価と、多くの場合普段は覆い隠されているプライドからなっている。そしてそれを満たそうとすれば、確実に本人にとっての本人自身の余分な作為が生じる。
SNSのネットとしての特徴は、ともかく反応してもらうために、事実かどうか、何が問題になっているのか、事柄として何が話されているのかということ以上に、反応さえ起きれば何でもよいのである。デマやフェイクは、恒常的である。
また時として、ときどき電車の中でも見かけるような光景が起きることがある。電車通路のなかで、スマホからワイヤーで何か音楽を聴いているような女性がいる。30歳前後の眼鏡をかけ髪をポニーテイルのように結わえた小柄のかわいい女性である。電車が駅に近づき、つまずくように停車したとき、この女性の後ろにいた中年男が電車のなかでゆられて、この女性の背中に少し触れた。この中年男は、右手で吊革をもち、左手でカバンを抱えている。この女性は突然振り向き、「テメエー、ナニスンダヨー、ケイサツニツキダスゾ、オリロ」と叫び始めた。周囲にいた人の半分は、何が起きたのか怪訝な面持ちであり、もう半分は「またキレタ」といううんざりした顔である。山手線の電車で時々みかける風景である。起きていることは電車で揺られて背中がぶつかっただけである。
この女性は居場所がなくなってその駅で下車してしまった。スマホで音楽を聴いているのだから、その状態で発声すれば度起こした大音声となる。しかも電車の中で自分だけで「閉鎖系」を作っており、そこが侵害されたと感じれば、度を越した反応が出る。明らかにヒステリー性の反応である。これを情報ヒステリーと呼んでおく。スマホ情報には、情報一般にふさわしい公共性がない。情報と言いながら特殊な閉鎖性を作る。そこに予想外の介入があれば、ほとんど理由も結末も理解を絶した振る舞いが出現する。SNS時代の情報の特徴は、情報量は増えていながら反比例するように視野も経験も狭くなることである。
言葉に対して、敏感感応する場面は、基本的に病理的には「神経症」である。神経症全般は、『精神医学診断表』からは項目としては姿を消し、「人格障害」のひと項目に配置されている。いわゆる社会的な不適合の集合体である。神経症の構造的な特徴は、(1)言語行動や行動一般にことごとく裏面で「自己正当化」が伴っていることであり、(2)言葉の範囲と現実性の範囲がほぼ重なっていることである。自己正当化の構造的な支えができている場面まで進んだものが、神経症性妄想、すなわちパラノイアである。一般に神経症は、フロイト、ラカンとも特定の言葉の抑圧から生じると考えている。現代の神経症の特質は、特定の言葉を抑圧している自分自身への自己正当化に力点が移動している。この自己正当化をつうじて、「演技性人格障害」や「自己愛性人格障害」にこともなげにつながっていく。
実際にこのタイプの軽度精神疾患では、一般的に数学、物理、論理、システム等々の現代では必須の事柄が習得できなくなる。言葉に反応することと経験を作動させることはまったく別のことだからである。しかも訂正を加えながら理解を続けていく循環的な解釈もできなくなる。基本的な能力を犠牲にしながら、はじめて成立する事態である。
このタイプの反応には、私自身、免疫ができていた。30年ほど前にも騒ぎになった部落差別撤廃運動でも、「差別用語」弾圧が起きた。私は小学校時代に、部落出身者の級友が数名いたので、部落差別そのものには基本的、かつ絶対に反対だった。だがにもかかわらず差別用語弾圧、撤廃運動には反対だった。言葉を弾圧して、部落差別がなくなるとは思えなかった。
同じように男女差別も、原則、私は反対である。そのことと言葉を勝手に自分で、差別用語だと決めて、それを弾圧するというのは筋が違うと感じていた。言葉への弾圧は、筋違いである。これは多くの人が薄々感じていることだが、正直にそれを語れないような雰囲気がある。言葉は単独で成立しているのではない。差別用語を自分で勝手に決めて、それで自己主張するという仕組みには、軽度だがすでに病理の予兆がある。
ともかく取材する側は、新聞本来の使命から、国民の知る権利に応じた行動だと言い張ると思われるし、取材した材料の編集権は自分にあると言い張ると思われる。立命からの情報では、その記者は「かなりしつこい」という事前の連絡があった。当事者ではない、報道機関という第三の登場人物がからむことで、事態はいくぶんか複雑化した。
それだけではない。私の所属する哲学科のなかにツイッターを現実感形成の主要なメディアとして活用している人物がいた。これを「もう一人の少年A」と呼んでおく。このもう一人の少年Aはまるで校舎が地震にあって倒壊したかのような動きを始めたのである。ツイッターは、原則独り言であり、誰も反応しなければ見向きもされない独り言である。独り言をつぶやくのはそれぞれの人の裁量であり、そんなものに取り合う必要もないと普段から感じていた。この文章は誰も責任の取りようがないかたちで公表されている。
聞いてもらいたい独り言は、どうしても過剰で極端な発言となる。つまりそこでパフォーマンスするものたちは、半匿名でかつ注目してもらわなければならない。そのため実行するごとに演技性が出てくる。これはツイッターという集合的独り言・ネットワークのシステム的な特性である。トランプ大統領の発信文がどこか演技性じみているのはこのためである。覗き見られる位置から組み立てられた文章だからである。
毎週のように騒ぎを創り出すワイドショーや週刊誌報道は、いずれ消えていくホコリのような情報だと感じていた。ところがそれに敏感に感応して、一緒になって騒ぎを増幅させるような人間が、身近にいたのである。「炎上ビジネス」におのずと便乗する体質は、あらゆる場面に拡散しているようである。
この「もう一人の少年A」は、もちろん善意で必死である。だがどこかおかしいのである。現実感がすれ違っている。しかも完全すれ違いのようにずれ切っている。気持ちのなかに制御できない部分が出現すると、爆発性の挙動となって動きが開始されてしまう。何人も見てきたタイプだが、多くの場合制御するよりは、放置したほうが良い。言葉への敏感感応性と「炎上ヒステリー」的な挙動が前面に出ている。なによりもこの人物の言葉は、どこか長たらしい。ということは本人の発する言葉に、すでに自己正当化がこっそりと含まれてしまっている。これが言葉を長たらしくしている。つまり発言に、神経症性の傾向が陰に陽に出てしまっている。
この件の当事者は、立命の哲学会であり、基本的にはツイッターを流した女子院生と立命館哲学会との関係であり、そこが事案の主要な場所である。だが「もう一人の少年A」は、まさに自分が主役だった。こうした動きから見て、私はこの男の言い分を聞いていれば、確実に対応に失敗すると感じていた。理由は簡単であり、「もう一人の少年A」には、社会常識というものがまるで感じられなかったのである。多くの経験の仕組みが欠落していた。
哲学科には、もう一人ツイッターを良く覗き見している人物がいた。後に、この人物は、2018年11月に突如フェミニストに変貌したということだった。実際には私より、はるかに「危ない人物」で、以前にも研究センターの女性研究助手に眼を付けられて、いやがらせを受けたことがあった。この人物を「アカデミー賞フェミニスト」と呼んでおく。フェミニストを、アカデミー賞を受賞せんとばかりにやっていく人物である。当人はとかく周囲から、いやがらせをしてみたいと感じられ、実際そうした扱いを受け続けたキャラの持ち主である。副業は歌手であり、東山紀之風の顔立ちをしていた。そういえばこのフェミニストはボストンを旅行したとき、およそ複雑でもないボストンの地下鉄で、一人だけ迷子になったこともあった。
今回の問題解決の軸は、立命の院生であるツイッター女子と立命館大学哲学会の協議と、立命館大学哲学会と私との関係、それと第三者として取材申し入れをしている朝日新聞京都総支社への対応である。それ以外は、実際のところすべて雑音であるが、この雑音がいつものように、実際に起きていること以上に問題を膨らませてしまった。ツイッターに敏感反応して、騒ぎを起こし、その騒ぎにのって何かを主張していく者たちである。こうした騒ぎは、プロレスに似ている。作為的に作られたものであることにそれぞれの人たちは気づいていながら、一緒になって騒ぎを創り出すのである。
12月6日付で、立命館哲学会からの「抗議文」という文書が届いた。内容は抗議文だが、つぎはぎの文章であり、しかも公印もない。ともかく立命館の哲学会の議論を収めるために作成されたと思える文書である。実際の手続きとしては、「質問状」を出してこちらの言い分を聞くのが筋であるが、それさえできないほどの稚拙な対応となっている。
それでも一応抗議文であり、立命館哲学会の会長のTさんの意向が入っているので、その意向に応じて、回答しなければならない。
回答は、当人が書くよりは、事情の分かった第三者が書くほうが良い。そのことは世の中に弁護士という職業があることと関連するが、法的な内容を明確にするだけではなく、余分なことを書かず、かつ最低限のことは精確に書き込んでいなければならない。
ともかくも回答書を誰かに書いてもらわなければならない。そこにこのタイプの問題では十分に才能を発揮するM君がいた。彼の書く事務文はある意味で「天才的」だった。

2018年12月13日 立命館大学哲学会殿
東洋大学文学部教授
河本英夫

謝罪文

謹啓

 2018年11月24日、貴学会において講演の機会をあたえていただき感謝しています。
さて、貴学会より「抗議文」を12月6日付けで頂戴いたしました。まずは、この事態を厳粛に受け止め、「抗議文」への回答として、以下のように申し上げたく存じます。
 私の講演「活動の哲学―ドイツ観念論とオートポイエーシス」において、参加者に不快感を与える事例を用いました。このような事例を公の場で発言したことは、偏に私の配慮不足であったと反省しております。私の発言によって不快感を感じられた会場の方々に、書面ではございますが、あらためて謝罪したく存じます。
また、この事例をもとにした私の発言を撤回し、今後、発言の際には細心の注意を払っていきたいと考えております。重ね重ね、会場の方々にお許しを頂ければと願っております。実際、講演後の参加者からの発言についても、その時点では意を酌むことができなかったと、今にして思う次第です。
 私の発言によって、会場の方々のみならず、貴学会にも多大なご迷惑をおかけしたことにも深くお詫びし、謝罪いたしたく存じます。

謹白


 よくもまあペラペラとカンナ屑が燃えるように書けるものだと思うが、過不足なく必要条件が整っている。ある種の高度な才能である。事前に立命のTさんにも原稿を送り、コメントをもらって、Tさんの意向を1行だけ入れて、出来上がった文章である。Tさんの立命での苦労にも報いなければならない。
 こうした騒動が起きれば、自分の出番だとばかりに、突然の存在感を発揮しようとするものたちが出てくる。火事が起きれば、すぐに現場に駆けつけて、消火活動を行うよりは結果として騒動をあおるものたちである。こうした人たちが何人かいたが、基本的には便乗による雑音の増幅である。というのも一切の問題解決にかかわることなく、どこかで面白がっているだけだからである。
それだけではない。バケツに水を汲み、それを火のほうに向けて投げかけるかと思っていると、隣で火に向かって水をかけている人めがけて、水をかけているものがいる。「どうしてそんなことをするんだ」と問いかけると、本人は「彼らの水のかけ方には、誠意がない」という。火を消すのが当面の問題であり、全力でそうするのが筋なのに、水のかけ方の「誠意」を問題にしてしまっている。こんなことをやれば混乱がまずばかりである。
 大学としては、朝日新聞の取材に敏感になった。新聞社にめったなことを書かれたのでは、たまったものではない。そこでこのとき文学部長Eが乗り出して、朝日新聞への予行練習をしようと言い始めた。文学部長は、筋金入りのフェミニストであり、なにをしたいのかおおよそ察しはついたが、話には乗ってみることにした。
2018年12月11日の午後から朝日新聞への事前の予行練習として、Eはいろいろ言ったがいくつか面白い話はあった。学会のなかで「痴漢」の事例を用いたとき、多くの男は笑っていた。そういう男こそ問題なのだと朝日に伝えてほしい、と言った。それはそうなのだが、笑ったのは男だけではない。1、2名の女を除いて、女たちも笑ったのである。このあたりがフェミニズムの難しいところである。フェミニズムが同じ感度と同じ主張で成り立っているわけではない。朝日新聞の記者がどんな記者なのか、むしろ興味がわいた。
 2018年12月14日午後2時に朝日の記者はやってきた。黒のパンツスーツの高身長の記者である。魅力的な女性である。大学の広報課をつうじての取材だから、広報課の職員1名が立ち合い、それとM君にも立ち会ってもらった。言った、言わないで後に問題が起きないように、テープ撮りをした。
朝日新聞も慎重を期さなければならない。ガセネタを掴まされてきたことは何度もあるのだろう。嘘を書いてはいけない。ツイッター情報は、基本的には独り言だから真偽を確定するような話ではない。嘘でも「思い違いだった」で済む場所である。しかも最初から多くの人が反応してくれることを期待している独り言である。新聞報道はそういうわけにはいかない。
ツイッターで流れたような話は事実なのかという朝日の質問に、即座に私は、「そんなことは言っていない」と答えた。それではそのツイッターを発信した女子を訴えろ、と記者は言う。だが「独り言」を訴える理由はない。「フェイクニュース」が世界を飛び交う時代である。実際にフェイクニュースが嵩じて襲撃され、死者まで出たワシントンのハンバーグ屋もある。
大半の情報は捨てなければならない時代でもある。いちいち小さな独り言にかかわっているような局面ではない。しかもツイッターには発信者カワモトヒデオで、かつて「今週の河本英夫」を発信していた人物がいた。当然私自身ではなく、誰なのかわからないが、ツイッターにはこうした人物が登場する。
新聞社は事案の当事者ではなく、報道という第三者機関である。報道機関には事実を述べればよい。それだけである。当事者は、たとえ本人の誤解、事実誤認であっても、「傷ついた」と主張するものがいれば、謝罪することが必要であり、謝罪すればよい。
だが報道機関は、基本的にはネタにしたいのだから、扱いはまったく別である。さらに朝日が立命の広報課から受け取った回答には、(1)性的な事例があった、(2)女性を侮辱するような発言があったということである。朝日の記者は、女性を侮辱するような発言はあったのかと聞いてきた。私は、そんな発言はしていないと回答した。
この質問には本当に驚いた。もともと私は才能のある人間と才能のない人間を区別する性癖や傾向のようなものはあるが、男女差はほとんど関心がない。才能がある人間に、男も女もない。男や女の区別立てをしているようでは、「才能」に触れることはできない。また「痴漢」という語は、警視庁もJRも使っている標準語である。標準語がどうして「性的表現」なのか。敏感感応性を通り越して、なんでも自分の都合のよいように言葉を私有化するイデオロギー性がそこには含まれている。
この場面を少し敷衍しておく。フェミニズムにとって、大切な原理は、「能力の発揮には、男も女もない。この原理に抵触するものは、そのつど訂正が必要となる」というものである。女に対して、男一般を対抗形で配置して、男一般を非難するようなことは、本筋なのだろうか。たとえば女の能力の発現を妨げるものは、本当に男だけなのだろうか。女同士の間での嫉妬や妬みによる妨害や嫌がらせはないのか。個々の問題は入り組んでいる。そうした事情を潜在的に働く力関係として分析するのではなく、勝手に自分で思い込みを述べ、それを公的な見解として述べるようなことが、配慮なく起きる。
女性の自己表現の形態は、今日では相当に幅が広い。国境なき医師団で看護師として勤務する人もいれば、ニュースキャスターとしてテレビ画面に登場し、肩書をAV女優としてアピールするものもいる。自分の性行為の場面を録画してユーチューブーに流して荒稼ぎする女性もいれば、自分の性器を自撮りしてユーチューブーに流す女性もいる。またイスラエル軍の医療従事者として、軍の最前線で働いている日本人女性もいる。
近所のスーパーのパン売り場には、私を見かけるとすぐにやってきて、私に触るオバサンもいる。どうしたわけか、私は高校生の時から、おばさんたちによく触られてきた。この年の卒論では、女子学生から「SM人間生態学」という内容の卒論が提出された。SMクラブでアルバイトをして看板娘になっていたような女子学生である。この卒論も、それまで見えていなかった現実を赤裸々に見えるようにしてくれて、「倒錯」という精神医学的な考察まで付されている。こういう時代に、自分を女性一般の代表だとみなし、「女性が侮辱された」という僭称を行うことは、不自然ではないのだろうか。
 朝日新聞の女性記者は、立命の広報を訴えろと迫ってきた。それぞれの人間がそれぞれに感じ取っていることが現実であり、訴えるような話ではない。挑発も半分入っているのだろうが、取り合うような話ではない。
 かつて『ユリイカ』の喫煙特集に、私は喫煙の問題は、喫煙を犯罪のように扱う人間と、死んでも喫煙を続けるという人間に、両極化する問題だと書いたことがある。その翌月の朝日の論壇時評では、私は喫煙擁護の代表のような書かれ方をした。捉え方に隔たりがあることは、しばしば起きることであり、咎め立てするようなことでもない。捉え方が一つに決まる方がおかしいのである。
 朝日新聞の記者は、記事にするかどうかわからないと言う。私は「記事にするのであれば、内在的倫理と反実仮想」について精確に書いてくれと告げた。この記者は、「相手に明日も希望されるように行為せよ」という文を、基本的には女と女のかかわりとして受け止めていたように思われる。女と女の間のいじめや嫌がらせを基本にして考えていたように思われる。そこから女と男、男と男等々への可能性を考えていたのであろう。それはかなり重要な論点である。だがこれでは議論がかみ合うはずがない。
 私は、最後に「言葉は、最低10年は通じるものでなければならない」と付け加えてその日の取材は終わった。


2018年12月19日に立命からの連絡がきた。以下の内容である。

河本英夫様

 本日、授業後のミーティングで、お届けいただいた書簡を、出席者全員で確認しました。おかげさまで、これで、当該学生も納得しました。そして、河本さんに、その旨の書簡を再度お送りするということになりました(もう少しお待ちください)。
 こちらで作成したいくつかの文書、そして、いただいた書簡は、学会で保存しますが、基本的に、外部に出すことはない、という点でも合意しました。
 たいへん心苦しい状態でしたが、どうやら落着したようです。お礼申し上げます。
 
 新聞については、その後の状況を承知していません。ひょっとすると、新たな火種になるかもしれませんが、こちらでは見通せません。しかし、まずは、以上、ご報告申し上げます。




 やはり立命も朝日新聞の報道を気にかけていた。新聞社はそれはそれで国民の知る権利を前面に掲げれば、どうしても誤解を招かないようにしなければならない。
こうして事態は落ち着きを見せ始めたが、あと残された課題は、これに便乗して騒ぎを起こしてきたものたちへの対応である。
 ツイッターを覗き見している二人の人物は、すでに現実感がズレていると感じられた。2018年に早稲田で起きたW事件(学内調査委員会で懲戒免職が確定)のことを盛んに取り上げていた。情報で現実感を作る人間は、どこか完全にすれ違う。これを治しておかなければならない。そうでなければ彼らは何も分からなくなってしまう。
早稲田で学内調査委員会が作られる前に、通常であれば周囲に「人物」と言えるほどの者がいれば、Wを呼び、同時に相手の女子学生を呼び、一席設けて、女子学生に言いたいだけ言わせて、Wに謝らせて、それでチャラにしてもらうのが筋である。
これを実行できるだけのものがWの周辺にはいなかった。Wの問題は、周囲にこうした「人物」がいないことであり、いたとしてもWを助けようとはしていないことである。情報化社会は、人間を小粒にするのだろうか。
ツイッター人間たちには、こうした「人物」というような現実感がまるでなかった。情報とは別に、現実の動きがまるで感じ取れないという印象だった。現実のなかに、数学、物理、身体、システム、ゲシュタルト、動き等々の要素がまるで感じられない。現実性の9割はこうした要素からなるが、これらを情報は扱うことはできない。ということは情報では、多くのことが語られることもなく見落とされてしまう。
 ともかく「もう一人の少年A」には対応が必要だった。というのも「敏感感応性」が病理にちかい形で出ているように思われたのである。そこで「もう一人の少年A」、M君、「アカデミー賞フェミニスト」に、同じメールを送ることにした。以下がその内容である。時間的な順序はずれるが、今回の騒動に目鼻が付き始めたころには、すでに考えていたことであり、その時期に書かれたものである。予期のなかで、今回の騒動は12月14日朝には私のなかではほぼ決着していた。朝日の取材の当日の朝のことである。だがこの事案を教育と教訓の場所としても活用するつもりだった。以下がメールの内容である。


もう一人の少年A、M君、アカデミー賞フェミニスト
このたびは立命館の件でお手数をおかけしました。
立命の抗議文への回答は、M君の作ってくれた謝罪文にT君からの希望を1行だけ入れて、送付しました。(ファイル)

今回の事案で、一番労力を費やしたのは、おそらく立命のT君と同僚のKさんだろうと思います。四苦八苦した「抗議文」で、E学部長(本人の専門はフェミニズムです)に見せたら、グスイ文章だと言っていましたので、切り張りして作ったのでしょう。

この件は、すべて立命に戻りました。

今日の朝日新聞は、第三者の取材でので、いずれにしろ当事者ではありません。当事者ではないものには、それなりの対応をして終わりにします。

今回の件で、「もう一人の少年A」は一生懸命やってくれたのですが、ことごとく筋違いだと感じました。それはツイッター現実性、敏感感応性、行動という、一定頻度の人たちに見られる行動に含まれているある厄介さにかかわっています。

(1)この経験の動きには、個々の他者が存在していません。情報と自分の思いと余分とも思える動きしかないようなのです。たとえばE学部長が、どういう思いで物を言っているのか、言葉ではなく学部長の経験の動きをとらなければならないのです。言葉ではなく、経験の動きをとる、ということが「経験を動かす」ことの一つの重要な要素です。
11日火曜日に学部長と話したときに、Eは、「立命の講演会で、私が出した痴漢の例で、ほとんどの男が笑っていた、そういう男こそ問題なのだと朝日に伝えてほしい」と言っていました。私がこんなことを朝日に言うはずがないのですが、12月から突然フェミニストに変わったアカデミー賞フェミニストなら、言うかもしれません。朝日の取材への予備練習と言いながら、Eがなにをしたいのかは最初からかなり明確でした。
言葉ではなく、経験の動きをとらなければならないと思われます。これはかなりの訓練が必要です。言葉と経験の間に隙間を見出し、隙間のなかにある選択肢を見つけて、応答しなければならないからです。自分の思いが固着性をもって強く残るようでは、経験は動かないのです。

(2)同時に、個々人の思いとは独立に動いてしまっている「制度」「社会」「組織」への感度が、「もう一人の少年A」の場合、ろくに形成されていないと感じられました。これはSNSで現実感を形成している人間にしばしば見られるものです。SNSはエクストラであって、現実はまったく異なった動きをしていることははっきりしているのです。
かつて科学史家のSが、駒場の教授時代に、ある女性に強引に交際を迫り(腕を掴んで説得し)、その後この女性が大学当局に訴えて、駒場に調査委員会(制度的対応)が設置され、委員会の結論が出そうになった時、Sは、弁護士を立てて争いました。(法的対応)懲戒免職か停職3か月かを競って、結局停職となり、この事実は実名入りで、いくつかの新聞で報道されました。Sの履歴書には、賞罰がつくことになったのです。S本人は、それを程よい休養だと考え、元気一杯でした。
こうした社会的現実、法的現実、制度的現実を区別しながら捉えることが必要で、ツイッター情報は、受け取った鼻から捨てるのがふさわしいタイプの情報です。
今年の早稲田の件は、学内で調査委員会が立ち上がって以降、局面を変えています。
ガセネタ情報は山のようにあります。ワイドショー、週刊誌(コノハゲ等々)で毎週騒ぎが起きています。週刊現代のT教授(竹中)の件がどうなるのかはわかりません。
しかし学内調査委員会は、事実の確定をしなければなりません。学内調査委員会は、制度的対応であり、SNS情報とはまったく異なる性格です。
制度に対応するには、制度の履歴、制度の仕組み、制度の弾力や感度を掴まなければなりません。
この場面では、ともかく判断を停止し、動かないことが必要で、何が起きるのか選択肢を広げて感じ取っていかなければなりません。「もう一人の少年A」には制度的対応能力が欠けていると思えます。
たとえば大学は、法人と教学に分かれて、法人は資金の用意、インフラの整備等々を行い、教学は用意された資金で、個々の計画を立案・実行します。教員の採用の場面で、雇用権は法人にあり、個々の教員の選択権は教学(教授会)にあります。
法人に対応する組織が、組合であり、教学では教授会がかなり大きな決定権を持ちますが、現在では学長室が大きな権限をもっています。かつて文学部では、英コミの人事が教授会で否決され、その後法人が前理事長の知り合いを連れてくる、ということが起きて、教授会がもめにもめたことがあります。理事長は、職務上、個々の教員の選択に関与してはならないのです。この関与を認めれば、理事長は教授会を無視して、自分の意中の人を連れてくればよいことになります。
小さな事件とは言えないほどの事件がありました。学内重点化研究計画が法人決定されて、その後、前理事長が、M君に白羽の矢を立てて、教学の事案に前理事長が関与しようとしたのです。本当にM君にとっては、いい迷惑な話で、それでもM君はうまく乗り切ったと思います(腰痛という代償はありました)。当然のことですが、学長室は前理事長の動きに猛反発しました。
こうしたことが制度の動きで、「もう一人の少年A」はこうしたことを感じ取るためには、判断停止、動かないことが必要です。

(3)各領域でのレベル差の見極めが大切です。「もう一人の少年A」は情報の範囲はとても広いのに、本人の経験の範囲がとても狭いと感じられます。それは経験がSNS情報と自分の思いから成り、個々の他者、制度のような領域が決定的に欠落し、その分だけ、他者一般や制度と任意につながり、SNS連想ゲームのように経験が動いてしまっているからです。
「もう一人の少年A」は、立命への回答書は、私(河本)の印鑑を突いて出せ、と2度メールで伝えてきました。自分の述べることが自分の本意であることを伝えるために、「もう一人の少年A」は印鑑が必要だと感じたのかもしれません。これが自分の思いだけの動きになっている経験の狭さです。
回答書は、立命への回答書です。立命が公印を突いて抗議文を送ってくれば、こちらも実印を突いて返します。三文印で送られてくれば、三文印で回答します。立命の抗議文には、いろいろな理由で印鑑はありません。その意を汲んで、こちらも印鑑なしで回答しなければなりません。こういうレベル差が、「もう一人の少年A」にはわからないようなのです。自分の思いだけなのです。
相手が望んでいるレベルで対応することが必要で、自分の思いを伝えることは要求されていないのです。たとえば学会の発表では、聴衆が聞きたい、知りたいと思っているところに対応しなければならず、自分の思いを述べることだけが必要とされているのではありません。最低限、注は必要であり、相手の思いに対応しなければならないようなのです。ここの場面が、「もう一人の少年A」が懸命にやっていながら、ことごとく筋違いになる場面です。

長くなりましたが、2週間の騒ぎを通過した後のリセットになればと考えています。

河本英夫
(2018年12月14日)


 おそらく「もう一人の少年A」には、手がかかると予想される。簡単に人間は変わったりはしないからである。ここまで現実感がズレてしまえば、何年もかけなければ調整できはしない。SNSを覗いて分かったようなことを言う人間が、そう簡単に変われるとは思えない。社会生活に必要な多くの現実感が欠けているのである。2,3年様子を見るしかないのが実情である。少し極端な精神性もある。部分的には敏感感応性が入り、その部分に固着がある。
しかも広範な領域に神経症気質が出ている。「性的なこと」については、言葉にしてはならないという過度の抑制が働いている。おそらくそれは立命のツイッター女子と共有するものでもある。
多くの手直しが必要でもある。ただしこうしたタイプの事案には、私は何度も直面してきている。実際にこうした課題にはすでに場数が踏んである。最初に3か月様子をみる。次にその人物の15年後を考えてみるのである。この人物は言葉に反応し、特定の領域で固着が起きている。
 多くの人間模様が浮かび上がり、しかも「集合的独り言」というネットワークが扱いにくい代物であることもはっきりと感じられた。実際にこれは「演技性人格障害」という病理の土壌にもなりうる。それと同時に、ある種の言葉に抑圧をかけて抑制しようとする「言語への圧力」が陰に陽にかかる可能性がある。これは社会病理としての「神経症」である。1970年代に「差別用語撤廃」が大々的に叫ばれて、多くの言葉が日本語から失われた。今度は「性差別用語の弾圧」が陰に陽に起きる。
言葉の問題ではないことは多くの人は気づいているはずだが、それにもかかわらず焦点化すれば「言葉」が問題となり、それを抑制するのである。この抑制は、集団性を帯びれば、一つの政治的傾向を生む。ある政党の青年組織には、こうした問題を政治課題にしようとする動きもある。政治としての言論抑圧は、それとしてやっかいな課題である。そしてイデオロギー的な背景として、ある種の政治組織が動いている。それが今回の問題を難しくしている。
ネットワークを最終的に「誠意」の問題に持っていきたい人間もいる。だが「集合的独り言」ネットワークに、事実誤認と粉飾を織り交ぜて発信を続けるものに、「誠意」はあるのか。新聞報道のネタにしたいために、京都から東京にまでやってくる人間に、「誠意」はあるのか。「誠意」とは異なる仕組みで動いている人間に、「誠意をもって対応する」ことは不自然ではないのか。
 集合的ネットワークに騒ぎが生じたぐらいで、もみ消そうとする人間も出てきた。もみ消しに値するほどの事実はない。事実がないものは、やがて現実のなかから消え去っていく。ありもしない事実をもみ消す必要もない。でっち上げられた偽装事実は、やがて消えていく。
 この騒ぎに便乗して、自分のフェミニズムをさらに広めようとするものもいる。それはそれで結構なことだが、男女差別をことごとくターゲットとして騒ぎにし、抑制的な対応をするのではなく、むしろ男女差別のようなことが、問題として小さな問題だと感じられるほどの現実を創り出した方が良い。たとえば才能を発揮できる場所を多く用意して、能力を発揮できる機会を増やしたほうが良いのである。才能の発揮に男も女もない。
実際にこの女子学生が、自分の内面の機微を語り、それまで届かなかったような場面まで届くような自己表現を形成するのであれば、無条件に私は応援したいと思う。そのことと性差別用語を勝手に自分で作り上げ、事実誤認とデマを振りまき、騒ぎとして自己主張することとはなんの関係もない。ただの独り言がこれだけの騒ぎになる。それがSNS時代の社会である。
 集合的独り言ネットワークに、事実誤認と粉飾をまき散らし続けた女子院生は、どうなるのだろう。キャリアにバイアスがかからないで済むことは難しいのだろうが、致命的にならないことを願っている。

(2019年1月5日)

追記
立命の女子院生(Y.Y)が以下のような独り言をつぶやいている。

今年度の立命館大学哲学会の冊子『立命館哲学』第30集が出来上がりました。昨年、私がツイッターに書いたように、講演中に招聘した講演者による女性差別発言があったため、例年掲載されるはずの講演原稿は掲載しないという対応がなされました。(続く)

この件について立命のTさんに問い合わせてみた。以下がその返信である。

こちらこそ、ご無沙汰しております。
 さて、またYさんがtwitterに書いたのですね。
 まず、すでにお知らせしたように、今年度の『立命館哲学』には、ご講演の原稿を載せることができませんでしたが、来年度に掲載させていただく予定です。
 また、学内での掲示については、あのお手紙をいただいてから、写真に写っている「報告」を作成し、哲学・倫理学専攻の共同研究室のドア横に掲示し、その後(一ヶ月ぐらい後だったか)、撤去しました(現在はもちろん掲示されていません)。共同研究室を頻繁に利用する専攻の学生の一部は読んだと思いますが、他の専攻の学生たちや教員たちは、哲学・倫理学専攻の掲示にほとんど関心を示さない(つまり読んでいない)だろうと推測します。Yさんはわざわざ写真をtwitterに掲載して目立たせようとしたのだろうと推測します。

 ここには大きな問題ではないが、いくつもの小さな問題が含まれている。この女子学生には、すでに固着が起きており、同じことを何度も同じ調子で語り続けている。経験はワンパターンとなり、誤謬と事実の違いはほとんど眼中に無く、同じことを繰り返すのである。発信は、すでに「売名行為」の局面に入っている。内容はないのに、自分を注目してほしいのである。フェミニズ神経症がすでに出ている。経験をその場その場で拡張するのではなく、ただ自分の主張を聞いてほしいのである。注目されていなければ面白くないというごく単純な「演技性人格障害」の初期症状も出ている。
おそらくこのタイプの人間には、周囲は重要なことは何も話さなくなる。そして本人はそうした現実に気づきようがないのである。そして数年後には、多くのことがわからなくなる。本人だけは一貫した主張をしたつもりになっている。そう思い続けることはできる。そして多くのことがわからないのである。これはすでに「神経症性の妄想」の入り口である。

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