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芸術はどのような運動か

河本英夫

Key words
experience, affection, emergence, environment

KAWAMOTO Hideo ; Arts as movement

東洋大学文学部哲学科 112-8606 文京区白山5-28-20


 身体運動は、多くの場合経験に変化をもたらす。他方、経験そのものが運動を行うこともある。経験のなかには認識も含まれており、意識をつうじた認識では、多くの場合経験は主体と世界とのかかわりという設定で捉えられ、主体はどのように世界を捉えているかが問われる。この問いの総体が、「認識論」と呼ばれる。カント哲学の大半は、ここにかかわっている。
だが認識の手前で経験そのものが作動している基本的な場面がある。経験とは一つの運動であり、認識の出現の手前で、それとして作動していることである。ヘーゲルは、それを『精神現象学』で「途行き」と呼び、ジェームズは「純粋経験」だと呼んだ。経験そのものの作動のモードを作り替え、経験の弾力と可動域を変え再形成していく作業が、哲学や芸術や精神医学の共通の課題となる。この点で、運動とは、まさに経験そのものの本性なのである。


1 経験の作動と情態性

 スイスのベルンの精神科医故ルック・チョンピは、ゾテリア治療(無医薬-環境治療)の設定のなかで、「柔らかい部屋」を導入していた。壁も床もスポンジを張って弾力をもたせ、部屋には刺激の少ない柔らない色彩の絵を掛け、花を飾って、緊張を緩和させるような環境設定を行った。緊張の緩和を治療条件だとしていたのである。スポンジの活用は、触覚性の感覚に働きかけ、通常は使わないままになっている触覚性の部位に働きかける。運動にかかわる感覚の大半は、触覚性のものであり、触覚に変化をもたらして経験をリセットさせる条件を作り出すのである。人間の場合、視覚の優位と言語的な理解を経験の特徴だと考えがちだが、いっさいの感覚の形成の基礎に触覚がある。五感のうち、触覚は五感の一つというより、他の四感覚に対してより根本的だと考えていたのが、「霊魂論」(デ・アニマ)でのアリストテレスである。そして触覚こそ、運動性を内在させている。何かに触れるとき、前方への圧がかからなければ、触覚そのものが成立しない。
チョンピ自身は、精神病理を当時さまざまなかたちで応用されていた「複雑系科学」を活用して、再定式化を試みていた。複雑系は、カオス理論や自己組織化、オートポイエーシスのようなシステム論の総称であり、経験は新たな局面へと自分自身を形成できるという点で、組み立てられた構想である。
複雑系の構想の大きな主張点の一つが、人間は運動のモードについていまだ多くの知識を手にし損ねているというものである。人間になじみの運動は、直線運動と円運動であり、重複的な円運動を組み合わせると「ラセン運動」となり、円運動の起点を複数化すれば、楕円運動となる。アリストテレス以来2500年間、運動の多様性については、人間は思考停止を起こしていたというのが実情である。ここには運動の生成論が、いまだないままだった。
また人間は、運動の分岐が詳細になるシステム的な仕組みをもたないできた。統合失調症も広範性発達障害も、病態としては圧倒的に多様であり、同じ疾病分類枠に配置できるのかどうか不明な場合がよくある。たとえば運動で考えればA4の紙一枚を胸の高さから床に落としてみる。落下の仕方は、そのつど異なっている。落下位置もいくぶんかずれている。ただし落下までの時間は、ほぼ同じである。近代科学は、結果が合うようにあらかじめ「規則性」を定めた議論なので、規則性のもとでの圧倒的な多様性を扱うことができないできた。その多様性を扱うことができるようにしとうというのが、「複雑系」の構想だった。病態が変化していく症例に対して、有効に対応するための道具立てにしようと考えたのである。
チョンピの主著である『感情論理』は、フラクタルな感情生成論であり、その場合の感情とは、根源的な不安や恐れのようなものから、自分自身への違和感のようなものまで広範囲にわたる事象である。この著作の基本的な建付けは、病態のさまざまなレベルで、感情因子は姿を変えて現れてくる、というものである。生成運動のさなかで異なる感情が出現しているように見えながら、実は同じ感情因子がかたちを変えて現れている点を基本にして組み立てられている。感情のモードの変化を追跡することで、病態の多様性を追跡しようとしている。
 ここで言われる感情は、アフェクトであり、情動性の強い感情であって、生存意欲や基本的欲求にかかわる感情である。感情は、進化史的な発生による配置から見れば、世界にかかわる認識と身体運動との間にあって、それじたいが運動性を帯びた認識機能でもある。それが明確なかたちで出ているのが、「情態性」である。
たとえば不安は、世界を彩っている場合、世界に感じ取られている。たんに個々人の内面的な感情の動きではない。情態性とは世界に感じ取られる感情である。山道を車で移動しているとき、眼前の道路に、大小の少なくない石が転がっていたとする。前を行く砂利を積んだダンプが落としたものか、それとも山側からの地崩れで転がった石かは、ただちには判別はできなくても、「尋常でなさの度合いは」ははっきりと感じ分けられる。ゆっくり通り過ぎれば大丈夫だと感じられることもあれば、車を止めて少し様子を見たほうがよいと感じられることもある。それはそのときに感じ取られている「尋常でなさの度合い」によっている。この「度合い」が、「強度性」と呼ばれるものである。強度性は、運動性の感覚-感情連動系であって、ときとして極端な身体運動を引き起こすことがある。ちなみにこの「情態性」は、脳神経学者ダマシオによって、新たな認知科学の用語として再導入されることになった。それが「ソマティック・マーカー」である。
 情態性には、さまざまなモードがある。最も身近に感じられる世界の感情が、「安心」であり、緊急には何もしなくてもかまわないという慣性的な運動状態である。ところが何かのきっかけで「身の丈を超えたもの」や「超越」や「崇高」に触れたりすることで、身体運動が喚起されるような事態に触れてしまうことがある。さらに「緊急性」「駆り立てられていること」「尋常でなさ」のようなものも情態性に含めてよい。背後からのトラックの音が急に加速するように感じられるとき、おのずと道路の端の方に身を寄せる。それと類比的に、世界が自分自身を駆り立てているように感じられれば、もはや身を寄せるところはないが、それでも動かざるをえない。カフカの『審判』(原題は「プロセス」)のヨーゼフ・Kに起きたことである。一般に情態性には、強さの度合いがあり、たとえば強く駆り立てられる場面から、緩やかに駆り立てられるような場面まである。この度合いは、傍にいるものにとっては、緊張の度合いや緊張の度合いの変化として、ただちに感じ取ることができる。
またたとえば「謎に満ちた不思議な面白さ」や「わけがわからないがいくらでも何かはやれそう」という感触を感じさせる環境はある。これらは身体運動に対して、通常以上に多くの選択肢を開いている状態であり、このとき世界は「ワクワクし」「理由のわからない楽しさ」に満ちていることになる。こうした情態性に向けて、多くの場合、芸術は新たな現実性の制作に進むのである。芸術とは、情態性をつうじて、運動への踏み出しを誘導し、経験の局面を変えていく作業である。


2 出現という運動

 物事や意味の出現(創発=エマージェンス)には、運動が含まれている。運動があれば、何かが出現するとは限らないが、出現という事態は、一つのイベントであり、当人にとっても事件である。本人にとっては何が起きているのかわからないが、それでも現実に何かが起きてしまっている。そのときしばしば身体を巻き込んで由来の不明な現実が出現する。
 ドルゥーズが『意味の論理学』を描いたとき、意味の出現を主要な場面として捉えようとしていた。出現した意味は、繰り返され伝達され共有されれば、公共的な「意味」となる。そのため逆に意味の公共化の手前に、多くの剰余に満ちた「言表」が存在することになる。公共的な意味にならないまま、しかしなにか不可思議な言表だと感じさせ、なにか通常の経験の枠には落ちてこない含みをもっていると感じさせる言表である。それらは出現の痕跡を残しながら、意味の手前に留まり続けるのである。
たとえば「純粋な生成変化」のモードには、次のような事例が配置されている。
「5つの夜は、ひとつの夜よりも5倍も暑い。」
「猫はコウモリを食べるかは、コウモリは猫を食べるかに等しい。」
これらは、文法的には間違いではない。構文論的には成立している。また主語-述語関係の論理としても成立している。何か別の事柄をこうした言語的表現で「比喩として」語ろうとしたのであれば、比喩に必要な含みが少なすぎる。あるいは物事が直接的に語られすぎており、端的にそれだけで成立しすぎている。
これらは表現しにくいものの輪郭を結ぶように、語を当てた文ではない。比喩の典型は、「愛は陽ざしを受けて微笑む小石」のように、距離を開きながら異なるものを結びつけることをつうじて、新たな物事の輪郭を制作する場面で成立する。この比喩は、ヨーロッパでも「比喩の典型」としてすでに教科書的な事例となっている。あるいは「菜の花畑で、赤ん坊が泣いている」という文も、現実性を総体として直接的な映像にもたらす比喩である。春先の一面の菜の花が、微風に揺られて黄色い色をチカチカと弾ませている。それは収まりのない小さな胸騒ぎ引き起こすような平面としての運動である。
そうした情景を、形容詞を重ねるのではなく、「赤ん坊が泣いている」と動作で置き換えているのである。作者の中原中也の才能が良く出た比喩である。比喩は、異なるものを一挙に接続させることで、経験を別の局面へと跳躍させる運動である。
 私は、文学部の哲学科に属していることから、軽度発達障害の学生から、さまざまな相談を受けることがある。ときとして哲学に適応できない学生もやってくる。そうした学生は、研究室に入ると、哲学そのものや哲学教員に対して猛烈な反論、異論を繰り出すことがある。その議論のあまりの激しさに研究室の外側の窓が振動しているほどであった。こんなときには発言の意味を理解し、それに相槌を打ったり、思いに共感してはダメである。もちろん反論には何の意味もない。というのも本人は議論しようとしているのではないのである。本人は、潜在的には何とか自分自身の状態を変えたいと感じている。その表層の姿が大演説である。そして大演説してしまう自分自身を変えたいと願っている。
経験の局面を変え、別の局面が出現するような言葉を発しなければならない。30分ほどの学生の大演説の後、一区切りが付いたと思えるタイミングがあった。そのとき本人の名前を挙げて、「セイント・ナオコ(仮)だよね」と呟いてみた。この学生は5分ほどのまるで時間が停止するような沈黙の後、大粒の涙を流し、涙と鼻水が止まらなくなり、打って変わってゆっくりと静かに自分自身の幼少期からのことを語り始めた。本人の思いの籠った大演説に対して、比喩的に「セイント・ナオコ」という語を当てて、別局面を出現させようとしたのである。ここでは比喩を、経験の運動局面を転換するための手法として活用している。
 ところで先に挙げた二つの文は、このタイプの比喩とはまったく性質が異なる。意味の局面を変えるのではなく、むしろ意味そのものが出現する場面にかかわっているからである。暑さという語に対応するある体感をもっていたとする。それは寝苦しいほどの暑さの度合い(強度)である。強度の場合、度合いの変動が数的な比例関係になじみやすく、自動的に数的な比例で表記されていく。度合いの変動は、一つの運動であるが、そのもっとも連動しやすい経験が、数的な比例である。そうなるとこの文は意味を表現しているのではなく、意味が出現する一つのモードを指定している。つまり言葉を意味から組み立てるのではなく、意味とは別の経験の動きが、ときとして意味に類似したかたちをとることを示唆している。
 「猫はコウモリを食べるかは、コウモリが猫をたべるかに等しい」は、この「等しさ」がどのような等しさなのかに依存する。少し極端にリライトしてみる。「食事について言葉で語ることと、言葉を食べることは等しい」という文にしてみる。なにやら奇妙な文であり、場合によっては「言葉のサラダ」と読んでみたくなる。だがこの文も、文法上の破綻はなく、主語-述語関係もしっかりしている。支離滅裂な語の並びではない。つまり言語能力はまったく損傷されていない。ただ何が言われているかが、直接はわからないのである。
 食べることも、話すことも、身体部位で言えば、口腔の運動である。口腔の関与する運動には呼吸の補助運動もあるが、食べることと話すことは、特段に重要な口腔の働きである。いま話をしながら食事を続ける。物を食べながら話すのであり、話しながら物を食べるのである。そのとき物を食べることと同時に言葉も食べており、言葉も食べながら言葉を発している。器官が複数の機能にそのつど分岐しながら、それぞれの機能性に応じて、意味が分岐する。「このサラダは美味しい」と言いながら、そのサラダとサラダについての言葉を食べる。この分岐線では、話すことと食べることが運動として重なりながら、動作は機能分岐の手前を移動している。いま経験がこの「分岐線」そのものの上を作動しているときには、食事について語ることと、言葉を食べることは、まさに「等しい」のである。意味とは、すでに分岐した機能性のもたらす副産物である。そしてときとしてその機能性を理由なく突破してしまう者たちが出現する。芸術は、既存の境界線を突破し、新たな意味の可能性を生み出す作業でもある。


3 身体運動とともにある環境

 芸術作品は、それを通過し、くぐることをつうじて、経験が新たな局面に進むことを願っている。たんに鑑賞するのであれば、美しさとそこに感じられる快を重ね合わせるように作品が作られていく。美しさだけでは、比率を中心としたテクニカルな技術となる。快だけであれば、扇情的になる。美と快が合致するところに最高の芸術が出現すると考えたのは、カントの『判断力批判』である。ところがカントのこの言い分も、いまだ芸術作品を鑑賞する位置から論じられている。芸術が、新たな現実を形成し、新たな経験に踏み出すことに寄与するのであれば、むしろ身体運動を巻き込み、それによって通常の経験の臨界を超え出ていく方がよい。
 身体運動を行いながら芸術作品の鑑賞を行うように設計されたものが、各種「庭園」である。庭園によっては、はじめて見るはずなのに「懐かしさ」という情態性が感じられたり、事前に調査もし、以前にも何度か来たにもかかわらず、はじめてのような新奇さ、劇的さが感じられたりする。
移動のさなかで感じ取られるものは、静止した位置からの鑑賞とはまったく別のものである。ただ移動し、前を通過し、通りすぎるだけのありふれた経験であっても、接近までの時間、同期する時間、遠ざかる時間というように、時間感覚がおのずと活用されてしまう。歩行はターゲットとの残り時間を常に知覚し続ける時間経験でもある。運動し続けるのだから外側に設定された空間軸で距離を捉えているはずがない。運動のさなかの時間を見出したのが、生態心理学者ギブソンの高弟のデヴィット・リーであった。生態心理学は運動のさなかでの知覚を解明しており、アフォーダンスとは基本的に関係はない。
この時間を、計量された時刻の積み上げに解消することはできない。時を刻む時計には、それじたい時間感覚はない。精密に時を刻むAIも、時間的ゾンビである。時間経験をもつものには、ときとして潜在化してしまっている記憶が呼び戻され、記憶そのものが再組織化されたり、別様に形成されたりもする。AIに欠けているのは、選択的に忘れる能力であり、記憶を再編する能力である。そしてこうしたことは時間経験のなかで起きてくる。移動しながらの知覚や経験は、記憶そのものを再組織化するまたとない機会なのである。
大崎晴地という芸大出身のアーティストがいる。故荒川修作や私や、多くの人たちとアイディアを協議しながら、大崎晴地は作品を体験する人たちが、おのずと運動を引き起こし、運動とともにある経験を全面的に更新しようとする作品を作ってきた。初期の傑作の一つが、「エアートンネル」である。日本全国の多くの会場で展示された。
これは4層か5層の布から成る大きな布団のような装置で、一辺が4メートルほどある。そこの内部に空気を送り、ふっくらとさせておく。巨大なコタツ布団のようなものである。最下層の布から入り、その層に開けてある穴を移動しながら探し出す。赤ん坊のハイハイのように下の層と上の層の布の間を動き回り、穴を見つけては、そこから上の層に出ていく。これを一番上の層まで繰り返すのである。布の層ごとに穴の位置は異なっているために、試行錯誤しながら探すしかない。布のなかでは真っ暗なので、運動覚と触覚だけが頼りである。穴が見つかれば、一時的に圧が緩和されるので、上層に出ていくことができる。作品を経験することは、一つのエクササイズなのである。
まずこの作品は、触覚の働きにかかわっている。触覚は、知る働き以上に運動の調整にかかわっている。そして可能な限り無駄な知覚はしない。たとえば足の裏の触覚地図は、歩行に相応しく、無駄な知覚をしないように作り上げられている。足の裏全域で細かく地面を捉えたのでは、もはや歩行という動作もできなくなる。触覚の本性は、積極的で能動的な無視である。無視こそ安定した現実を支えている。これは抑圧的な無視とは異なる。するとこの「エアートンエル」という作品は、触覚性の無視の在り方を変え、組み直し、布の面を移動するごとに圧の感じ方を変えて、経験をリセットすることにかかわっている。精神分析医の十川幸司が述べるように、「トラウマの再編」にも寄与する。何と言っても4度も圧のかかった穴をすり抜けるのである。
また北千十駅の近くの古民家を改修して、「障害の家」と呼ばれる一連の構想の一つが作り上げられた。住む人のいなくなった空き家は、日本全国に夥しくある。将来にわたって誰かが住む予定はなく、いまだ更地にはなっていない家屋である。その家屋を、別様に暮らし、別様に生きるために、改修したのである。柱はあるがほとんど壁はなく、床は飛び飛びにしかない。次の部屋に移動するには、斜面となった畳を昇るか、細い柱を伝っていくしかない。この作品が公開された当時、ただちに評判となり、近所の子供たちのアジトになった。この家屋では、自分の身体の運動で家の活用の仕方を開発していかなければならない。一般の家屋は多くの場合、休む場所であり、休むための装置である。だが幾何学的に設計された家屋は、身体にとって実は座りのよいものではない。身体は、カオス幾何学が示すように、3次元で形成されているのではなく、3次元と4次元の間にあって、たとえば3,14次元のような少数次元で成立している。そして活動や運動の仕方によって、この次元が変化する。こうした家屋のなかで身体そのものの次元の変化を感じとることも、経験の可能性を別様に組織化するための貴重な手掛かりである。実際には、この家屋で無邪気に遊ぶことができるだけである。それだけで良いのである。これまでとは異なる別様の記憶を確保できれば、新たな可能性を確保したことになる。芸術とは、良い思い出を作るだけではなく、記憶を巻き込んで、経験の可能性を拡張する作業なのである。

参考文献

大崎晴地「障害を組みなおす―修復とは別の仕方で」河本英夫、稲垣諭編著『哲学のメタモルフォーゼ』(晃洋書房、2018年)所収
ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』(田中三彦訳、講談社、2003年)
ドゥルーズ『意味の論理学』(岡田弘・宇波彰訳、法政大学出版局、1987年)
デヴィット・リー「視覚情報による行為のタイミング制御」佐々木正人・三嶋博之編訳『アフォーダンスの構想』(東大出版会、2001年)所収
ルック・チョンピ『感情論理』(松本雅彦他訳、学樹書院、1994年)

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