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自然知能―――職人の哲学:ダ・ヴィンチ

河本英夫

 人工知能(AI)というとき、人間の知能を数学や論理に置き換えて、コンピュータ上でプログラム化し、それを自動的に発展させていくやり方をとる。ほとんどが人間の知能の移し入れであり、人間の代わりにコンピュータが動き、マシンが作業を代行してくれる。イチゴの最盛期には、イチゴの農家は大変な思いでイチゴを出荷している。イチゴは、大きな葉っぱの影に隠れていて、長時間腰をかがめるようにして探し出し摘み取っていく。この作業は現在大型機械で代行されている。センサーが葉っぱの影のイチゴを見つけ、指になぞらえた先端機器で触ってみて熟度を判定し、適合すれば摘み取りトラックの荷台に置いていく。これをすべて自動機械がやってくれる。過酷な労働をかわりにやってくれる点では、ありがたいことである。
だがこうした風景じたいは、すでに見慣れたものである。コンビニのおにぎりはロボットが握っており、車の製造のかなりの部分はロボットが行ってくれる。人間の能力をマシンに置き換えていくことは、機械化の一環としてどんどん高度になる。それは間違いない。工作機械は、日本的な頭脳の集積でもある。細かく精確な作業を黙々とこなしてくれる機械は、それじたい感動的でもある。
 人間の能力をコンピュータに移し入れ、労働を機械化していく。この作業は、人間的知能の一つの発現のしかたである。だがそこで実行されようとしていることは、目覚ましさ、予想以上の出来事、画期的というような印象はあるが、同時になにか狭くて小さな道に進んでいる印象を受ける。ことに情報関連の技術革新は、速度と量の度合いを巡って大幅な展開を見せている。しかしプロセス的イノヴェーションがほとんどで、一挙に大量に短時間でという仕組みの革新である。これは「生産性の局面」が変わるタイプのイノヴェーションではないように思える。むしろこれによって視野と経験の制約が起きているようにも見える。
知能は、一般的に考えれば、人間に限ったものではない。植物や動物にもそれぞれ固有の能力があり、さらにいえば自然界にも固有の能力がある。ただし多くの場合、人間と同じタイプの能力ではない。そのことは人間の文明の最初から気づかれていたことであり、たとえば体調の維持のために有効な植物を見出し、それを栽培して「薬草」として活用したり、特殊な鉱物を含む岩石から、特定の物質を抽出して役立てるような作業を持続的にやってきている。中国や日本では、これらは「本草学」と呼ばれている。人間にただちに役立つものを見出す作業は、目的は分かりやすく、作業もただちに役立つものに収斂していく。
しかし自然界の知能は、およそ人間にただちに役に立つようには作られてはいない。しかも人間に役立とうと形成されてきたわけでもない。人間にただちに役立つ回路を選んでいくと、「人間」という枝は、少しずつ改良を重ねながらどんどんと狭い道に入り込んでいくだろうという予想が立つ。
 進化の閉回路 進化論的に考えると、進化の枝は先端では分岐していく。そしてどんどんと細い道筋に入っていく。そのとき学習能力があれば、他の枝の基本的な能力を読み解き、活用可能な形に置き換えることができれば、自分自身の選択肢を広げていくことができる。進化とは気が付いたときには、おのずと自分自身の選択肢が減っていく仕組みのことである。そのことはひとたび出現したものは、自分自身の維持の方向にだけ推移していくために、新たな可能性を自動的に減らしていく方向に進んでいくからである。人間はつねに人間になり続けるという仕組みのなかに、おのずと先端化していく構造を持ち合わせている。言ってみれば、人間はどこまでも先鋭的に狭く人間になり続けるのである。
人間(ホモ=サピエンス)の歴史も、進化として見たとき、すでに細く限定され、次第にすぼんでいく閉回路の近くに来ている。比喩的に言えば、たとえば情報化が進めば情報化に寄与する方向にだけ現実性の変化のバアイスはかかる。情報化は急速で汎用性があり、言ってみれば経済合理性に過度に合致している。そのためその方向へのバアイスは、自然で合理的なものとなる。そしてそれ以外の現実性に対して、傍らを通り過ぎられていくということが起きる。ここで起きていることは、特定の能力だけを過度に活用することである。これは進化論で言う「過形成」と同じタイプのものである。大鹿のツノが、さらに大きくなっていく場合に似ている。
特定の能力の活用だけに限定されれば、総体として能力一般の発現可能性は誰にとっても制約され、さらに能力の拡張も筋違いの回路に入っていく。進化の分岐点の最先端にいたる能力をそれ単独で活用し続ければ、どんどんと閉回路はさらに細く進行して行く。人工知能の展開もそうした閉回路に進んでいく一つの隘路だと考えることができる。
能力の発現 個々人の能力の発現と、種もしくは種間の進化的な展開見通しにそれほど厳密なつながりが見出せるわけではない。手掛かりになる原理が存在するとすれば、ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」という個体と系統のつながりを示す原理であるとか、ハーバード・スペンサーの言うような「進化とは総体の差異の増大である」というような基軸を置いて考えてみるぐらいのことしかできない。いすれも人間の進化の可能性を考えるには、かろうじて目安になるかという程度のものである。ヘッケルの場合、発生を考えるための指標となる原理ではあるが、個体発生の延長上にさらに新たな個体の出現や個体の展開可能性を考えていくための手掛かりとはなりにくい。スペンサーの多様化という基準は、病的な変異も奇形の出現もすべてそれとしてみれば「多様化」には該当するのだから、基準そのものが大外から当たりすぎている。あまりにも外から適用される基準は、あらゆることに当てはまりすぎる。進化の基準を導くことは容易ではないが、衰退の道筋を想定することは、それよりも少し簡単な見通しをもつことができる。
特定能力の活用だけであれば、能力全般の活性化の可能性を抑えてしまうことは、ありそうな動向の一つである。このことは各種の動物の個体が、できうるだけ早く成長した機能をもつことへとつながるように、成長過程を加速する場面に見られる。哺乳動物は生れ落ちてただちに歩くことができるようになり、母乳を求めて自分で移動できるようになることを求められる。可能な限り早く成人になるということは、できるだけ早く特定の適応形態を獲得するということである。これを「特殊適応」と呼んでおく。これに対して人間(ポモ=サピエンス)にみられる傾向は、自然界の掟を破るようなところがある。つまり特殊適応を可能な限り先送りして、自分自身を可能性の宝庫に留め続けることである。特定の技能に特化することは、こうした自分自身を可能性の宝庫に留めることをおのずと自分で放棄していることに近い。すると前進という仕組みのなかに、一歩進めば新たな選択肢がさらに獲得されるという事態がなければ、前進とは狭隘化の別名ともなる。
自然哲学 そこで人工知能全盛の時代にこそ、「自然知能」の活用の仕方を再度回復しておくことが望まれる。そうした場面でなおさらに人間の能力を異なる方向で選択肢を広げていくやり方があると考えられる。それが「自然知能」研究である。実際には、18世紀末から19世紀初頭にかけてすでにドイツとイギリスでは、「自然哲学」というかたちで行われてきた企てが、こうした構想の前史となる。
シェリングは、初期の構想を「自然哲学」と呼び、意識をもった人間がすでに思い起こすことのできなくなった過去を「先験的過去」だと配置していた。意識の対象として自然を知る場面以前に、すでにして捉えられている自然がある。それを思い起こすことのできない過去だと呼んだのである。意識の出現以前に成立し、意識が出現することで思い起こせなくなっている過去こそ自然だというのである。この思い起こせない過去を思い起こすようにして経験の可能性の範囲を広げていく仕方が、「自然哲学」である。シェリングは、精神の躍動を渦巻や竜巻をモデルとして考えようとしている。自然の中にみずからの前史を見出すところに、思い起こせない過去を直観するという仕組みが導入されている。意識は内部に多くの選択肢を含んだかなり優秀なシステムであるが、同時に自己安定化と自己正当化(一般には自己意識と呼ばれる)の仕組みを備えているために、渦巻や竜巻のように、自分自身の総体を作り替えていく仕組みはもはや失っている。
またダーウィンのような博物学のもとで植物や動物の知能を研究してきたものにとっても、多くの自然知能のアイディアが見られる。自然知能の研究は、基本的には人間とは異なるタイプの知能の研究であり、その知能が人間の選択肢を広げてくれれば、新たなタイプの現実性が形成される。ダーウィンが関心を持った自然界の運動の一つが、つるまきの上昇運動である。螺旋状に上るつるまきは、茎そのものが回転運動しているのか、回転運動は一定の幅で行われるのか、筒や樹に巻き付いたときに、巻きつかれた筒や樹を引っこ抜くとどうなるのかなど、条件を変えて調べ上げている。一般的にはつるまきは、上昇して上っていく自分の体重を支える仕組みである。回転を付ける仕組みは、一般的に考えれば回転する部分の外側の細胞が増長し、内側の細胞が収縮することでカーブを作り出すことができる。うまくカーブを作り出すことができれば、その後はそれを固定しなければならない。蔓が木製化して固化するのである。螺旋状の回転運動は、おそらく人間の精神のなかにはなく、言語的な定式化にもなじまない。こうした自然界に固有の運動のモードを取り出すことで、人間にとっての選択肢を広げていくことが自然哲学の課題となる。
 職人の哲学 自然知能の開発では、実は職人的な能力が問われる。職人の能力こそ要なのだが、それがどのようなものなのかの考察がほとんどなされないままであった前史がある。科学技術は、人類的な普遍性をもつ。そのため時代を経て、あるいは国や文化を超えてきわめて理解しやすい。科学技術史の記述では、成功し、普遍化された技術と、科学法則が中心となって議論される。そのため職人の技能や関心の向け方に、多くの場合注意が向くことはなかったのである。
 科学法則の基本は、「仮設演繹法」である。理論的な仮説を立て、それがどのように個々の場面で吟味されるかというかたちで論じられることが多い。また科学的な理論仮説とは別建てで、自然観と呼ばれるほどの大枠が持ち出されることもある。有機的自然観、機械的自然観というような「観」の付く大枠が持ち出されて議論されるのである。これが科学の読み取りである。学校教育の現場でこうした教え方をするために、それに慣れ切った思考回路でもある。
それに対して、職人の哲学は、言語と視覚に依存する理論知(観照知)とは異なり、身体、身体行為、道具等々が不可分にかかわる知の形態だと考えて進んでいく。世界の多様性、人間の多様性に対応していくためには、それじたいで多様化する仕組みを備えた知でなければならない。その一つのやり方が「職人の哲学」である。言語は、人類の行った最大の発明の一つであり、ホモ=サピエンスの最大の特徴でもある。誰しも言語についてはそれを受容したり、拒否したりする選択はない。気が付いたときには、すでに身についている。しかもやっかいなことにひとたび言語が身についてしまえば、言語が習得される以前には戻ることができない。小さな技能でも同じようなことが起きる。自転車に乗ることができるようになれば、もはや乗れなかった自分に戻ることができないのである。技能は、ひとたびそれが獲得されればみずからの過去を再編してしまう。
しかしこの言語の発明という内実は、言語そのものの仕組みによって大幅に制約を受けている。正直に言えば、この言語のおかげで人間は自分の能力の展開可能性を大幅に制限されているのではないか、私は疑っている。
言葉は基本的に線形のかたちをしている。主語、述語、目的語、補語のように順次並んでいる。これは言語が音声言語で開始したことでいやおうなく出現した特質であり、時間経過の中に順次配置することによって言語の仕組みがかたち作られていることによる。そして言語は、その限りで線型にならざるをえない。音声の時系列的な差異の組み合わせが言語である以上、言語は半ば必然的に「線形」である。経験や物事で線形に進行している領域はごくわずかである。思考回路で、感覚が動き、感情も情感も動いているとき、言語表現とともに動いているはずだが、言語的に汲み取ることのできる線形の領域は比較的狭い。そのため言語には、それを活用するたびに経験の範囲を狭めてしまうところがある。
一般に現在人間が手にしている理論的、科学的な自然観とは、要約しやすい議論のことである。そして学習しやすい議論のことである。あらかじめ学習のコストが下げられるように形成されているのが、理論知である。そのことは、マッハのいう「科学は思考経済にしたがう」という言明にもあらわれており、ゲーテが「因果性とはたんなる擬人観である」と言ったことにも表れている。そのとき「理解」とは粗い要約のことであり、理論的理解とは自分の枠内に、世界の現実を閉じ込めることである。こうした動向は言語的に定式化された規則や数学的に定式化された多くの規則に、そのまま当てはまっている。
それらに比べて、職人的な行為は、まったく別様な進み方をした。物を作ることはほとんど小さな偶然に付き纏われている。予想したような結果がでないことはごく普通のことであり、予想外の素晴らしい結果が出ることもある。どのように作り慣れた工芸品でも、そのつど1回勝負である。理論知とはまったく異なる仕組みで経験は進んでいく。だがこれらはほとんど中心的なテーマとなることもなく、内実に注意が向くこともなかった。しかしおそらくこれでは核心的な見落としが起きてしまう。
伝統 ヨーロッパの伝統で見れば、職人の技能は基本的に身分的に見れば、下位の者、場合によっては奴隷によって行われてきた。医学で見れば、内科医はアリストテレスやガレノスの本を読み、解釈を行うことで「大学での講義」が成立している。それに対して外科医は、手術を行い、散髪や按摩もやり、馬の蹄の打ち付けも行った。そして店の外に、赤と青の二重螺旋の宣伝用の看板を掲げていた。この看板が現在でも床屋に残っている。
高級な知識は、言語をつうじて学ばれ、眼と耳から吸収されるものだと思い込まれていた時代である。それに対して職人の知識は、身体を動かし、触覚性の感度を活用しながら形成されていく知識である。知は伝統的に眼と言語から吸収されるものが高級であり、身体を動かしながら実行されるものは下級なのである。この雰囲気は、日本の大学でも残り続けており、理学部は高級であり、工学部はそれよりも劣る。理論は大切だが、フィールド調査は劣るというように、思い込みのような通念がある。理学部数学科と文学部哲学科では、幼いころから箸と鉛筆より重たいものを持ったことがない、というようなカッコよさがある。それに比べれば、職人的な学問は輝きが悪い。
また別の側面がある。職人の技術は、ほとんどの場合「無名」である。デカルトやニュートンのような法則の定立者の名前は残っていない。継承され、受け継がれていく知能や技能は、誰の所有物でもない。ところが職人のなかには、継承して自明化していく技能には容易に落ちてこないようなものがいる。歴史の不連続点のように歴史に組み込まれないままになるような技能は、一般的には「名人芸」であり、場合によっては人類の財産である「天才」とも呼ばれる。たしかに技能のなかにはどうしてこんなことまでできるのかというようなものがある。だがそうしたときには現在の人間の学習の仕方が狭すぎるのだと考えていくことができる。日本に残る伝統工芸や無形文化財も類似した難しさに直面することがある。後継者は容易には育たない。そうなると一人だけの名人芸のような形となる。歴史的に見れば、歴史の不連続点となる。そうなると世間的には天才的な能力だと呼ばれる。
人類が、文化の歴史を通じてうまく学び継承できないできた知の形態があり、技能の形態がある。それが職人の技能であり、職人の哲学である。職人は、現実にはほとんどが無名で終わる。無名だから悪いわけではない。成功する技能は、他の人たちも実行できるのであり、技能の開発者は、基本的に匿名化し、匿名化とはその技能が人類の経験に組み込まれていくことである。
一般的に考え直すと、日本は職人的な技能で、つねに新たな価値を作り続けてきた。極限化を含む近代科学的な思考方法の延長上で、新たな開発を行うことは、それほど日本人の資質に合うわけではない。極限の世界は、数式的に定式化され、最初から普遍化可能な位置で形成されている。おそらく日本人は、こうした思考方法で展開可能な能力をそれほど持ち合わせてはいない。むしろ小さな工夫の積み上げの延長上で、偶然を含みながらさまざまに展開していく能力に向いている。小さな工夫の蓄積の延長上で獲得されるものは、一挙に理論化されるような理論構想とは異なる。またそれは知りわかり、応用できるような情報的な知能ではない。ここでの構想は、自然知能の応用と職人的な技能の接点で、人間の能力の拡張を図っていくことである。

 ダ・ヴィンチ・システム(1452-1519)

ここではダ・ヴィンチ・システム(1452-1519年)を取り上げる。ダ・ヴィンチは誰でも知っている天才的な画家であり、一度ダ・ヴィンチの絵を見れば、たとえ署名が無くても、ダ・ヴィンチの絵はそれとしてわかる。絵画史のなかに不連続点を創り出すほどの画家である。
ダ・ヴィンチは「万学の天才」だと言われ、そう称賛される。それは事実である。だが天才は、地震や津波のような「天災」とは異なり、たんにいくつかの偶然の重なって生じたり、特異な能力だけで生じるものではない。ダ・ヴィンチは、デッサンの能力は抜群であり、歴史のなかの不連続点になるほど際立った才能を発揮している。しかもダ・ヴィンチの遅筆は有名である。いったい何をしていたのだろう。
デッサンの能力が優れているだけで、「万学の天才」に成ることができるわけではない。そうであればただ絵のうまい人に留まる。むしろ経験の仕方や物事の捉え方に、それ以前とは異なる局面が出現し、さらにそうした事態が、多くの領域で展開可能性をもたなければならない。事実、天文、機械学、力学、水理学と多くの領域での考察をダ・ヴィンチは行っている。それらにみられるいくつかの特徴を取り出してみたいと思う。
ダ・ヴィンチは不思議な才能である。一度でも絵をつうじてダ・ヴィンチに触れたことのあるものは、この才能について機会を見て思いを描いておきたいと感じることが多い。美術史家であれば一度は手掛けておきたい対象である。しかしダ・ヴィンチ自身はこの才能を生かさず、ろくに絵を描かないで手稿を書き続けている。しかも残された手稿は膨大であり、しかも世界各地に散らばっている。売りに出れば高値で取引される。マイクロソフト社のビル・ゲイツも手稿のごく一部を所有している。この手稿群には、同じテーマを何度も扱ったものも多く、美術史家にとっては、ゲンナリするほどの量であり、科学史家にとっては、何が目新しく、何が同時代のものを写し取っただけなのかが判然としない「困った草稿」である。
しかもそこでの言語的な表記が、とても名文とはいえないような入り組み方をしている。正直に言えば、何を描きたくて延々と描き続けているのかが良く分からない部分が多い。同時代の文献で見ても、ダ・ヴィンチの文章は読みやすい文章ではない。おそらく人文書を読み、人文的な伝統の中で文章を書く訓練をほとんど積んでいない文章である。それだけではなくおそらく文章を書き残すことで、まったく別のことをやってしまった文章なのである。
ダ・ヴィンチが膨大な手稿を残していることは、以前より知られていた。だがファクシミリ版で多くの人が見ることができるようになったのは、1960年頃からである。しかもそうした手稿も読者用に整理されているわけではない。ダ・ヴィンチ自身は、何冊もの著作にして公刊したいと思い続けていた。著作群の構想をもっていた節もある。だが草稿を遺産相続し、弟子のメルツィが手を入れて編集し、成書になったのは『絵画論』の1冊だけである。これは19世紀初頭にバチカンの図書館で発見され、「ウルビーノ草稿」と呼ばれていた。
手稿の内実は、ダ・ヴィンチ自身が将来何冊もの著作にしたいと考えていた膨大なメモである。遺稿のように整理され、出版までは至らなかった草稿のことではなく、そのつど考えてきたことを書き留めたメモの類である。こうした手稿を残すほどの猛烈な勉強をしたようで、ラテン語やギリシャ語の基本単語集も自分で作っている。(『トリヴルツィオ手稿』1487-1491年)人体解剖図を延々と詳細に描いた『解剖手稿』(1485-1516年)や『鳥の飛翔に関する手稿』(1505-1506年)のようにまとまったテーマでの手稿もあるが、多くは、そのつど関心の向いたテーマで、書き連ねたものである。ダ・ヴィンチ自身30歳を超えたころから猛烈に勉強を始め、ともかくも書き残したのである。最初期の草稿だとみなせるのが、『パリ草稿B』であり、ここには軍事、機械技術、鳥の観察等々の思いのままに気づいたことを書き留めている。
そしてこうした草稿が膨大な量、存在する。出版する場合でも、たとえ本人が手を入れたとしても莫大な時間がかかる。こうした手稿は、それぞれの編集に当たったものが、少しずつ編集してきたものも多い。そのためダ・ヴィンチ自身の草稿の実態像がどのようなものであったかを見極めることは容易でなさそうに見える。そうした作業は、校定、編集という気の遠くなるような作業となる。精確に言えば、困惑するような草稿なのである。
メモの取り方も執念が違うと感じさせる。項目ごとに短く書くような書き方ではない。それだとアフォリズムという書式があり、内容のまとまった事柄を短文で書き連ねることもできる。パスカルの『パンセ』がそうした書き方になっており、ニーチェもウイットゲンシュタインもそうした書き方を好んだ。ダ・ヴィンチの場合、アフォリズム形式で考えをまとめたのではなく、ともかくも注意の向いた事柄をなんでもメモに残した。そんなやり方でもやれてしまうのかと思うほどの作業である。
ダ・ヴィンチ自身10歳の時にベロッキオの工房に丁稚奉公し、職人の履歴を開始している。一般的な意味で、学校での学習はしていない。そもそも著述家になるような訓練は積んでいない。そうした異質な履歴を歩みながら、それでもメモを書き続けている。そこでの作業を横目で見ながら、ダ・ヴィンチの行ったシステム的な思考法、作業方法、経験の仕方を取り出したいと思う。それがダ・ヴィンチ・システムである。あれほどの絵を描く能力をもち、しかもろくに絵を描かず、代金をもらっても簡単には絵を渡さなかったダ・ヴィンチが実行し続けたこと、それがダ・ヴィンチ・システムである。
ダ・ヴィンチの個人史 ダ・ヴィンチ自身は、嫡子ではなく、正規の法的な夫婦から生まれてはいない。一般的な高等教育は受けていない。学校教育で学べるような知識を身に付けていない。また幼少期から、職人の徒弟修業を始め、その時の親方(マイスター)であるベロッキオ自身が、驚くほどのデッサンの才能を示している。そうした環境のなかで腕を磨きながら、膨大な手稿を残した。本人は正規教育を受けていないことで、自分は「無学」だと言い続けてもいる。そして経験を手本にして学んだと語ってもいる。
気質的にはダ・ヴィンチには何でも面白がる変質的な傾向があった。男色の行為が頻繁に行われた場所近くを徘徊し、2度不審人物として当局に訴えられている。晩年に「鳥の夢」について、いつでも思い起こそうとすれば思い起こせる夢だと語ったことから、精神分析医のフロイトが敏感に反応して、正嫡子でなかった生い立ちを織り交ぜながら、ダ・ヴィンチの「無意識の抑圧された欲望」について語ったことがある。
ダ・ヴィンチは自分自身に抑圧をかけるようなタイプではなく、抑制的な人間ではない。つまり精神分析がターゲットとする人物像からはほぼ外れている。実際にやや卑猥な言語表現や男女の交接図も描いているが、それらには人間についての物理的関心が前景に出ていて、性的事柄に情動的に反応している様子がない。精神分析系の人たちは、こうしたことをいつものように誤解してしまう。人間関係で言えば、10歳の時から養子縁組をして身近で養育していた通称「サライ」も奇妙な取り合わせである。夕食会に連れていけば、他人の家の物品、器物を壊したり、小金をくすねるような盗癖に近い性向があった子供である。このサライを終生ごく近くに置いている。困惑のなかの溺愛というダ・ヴィンチの態度がかなりはっきりと出ている。ここでも精神分析的な議論は、「少年愛」に引っ張られてしまう。むしろ少々人間の枠から外れた素質が、ダ・ヴィンチにとってはこのうえない楽しみであったと思われる。
また人体像を描くために、頻繁に死体解剖所に出入りして、出入り禁止にもなっている。信憑性ははっきりしないが、評伝家のヴァザーリの描くところによれば、カブトムシを捕まえて表面をメッキ加工し、周囲の人に見せて驚く様子を楽しんでもいる。面白いものを探しだすと、ともかくもさらに一歩進んで面白くなるように何かをやっていくタイプである。
冗談も多く、寓話も少なくても30編ちかく書いている。イソップを手本にして書いているようにも思えるが、自分の思いを綴ったものが多い。寓話とは、小さな物語形式を使って教訓や示唆をそっと込めていく語りである。たとえば鷹が小さな羊を捉えて空高く飛び立つのをみて、普通の鳥が鷹の振る舞いを真似してみた。すると足の爪が羊の毛に引っかかってしまって、もがけばもがくほど足が絡まって身動きできなくなる。そして羊飼いに捉えられてしまう。こういう話を押しつけがましい教訓を述べないまま物語とするのが成功する寓話である。
ダ・ヴィンチにも動物を使った場面を描いたものがいくつもある。たとえば「淫蕩――蝙蝠はそのとめどを知らぬ淫蕩のため自然のおきてたる男女の道にしたがわず、ゆきあたりばったり、雄は雄、雌は雌と交わる」(『手記』127P)。こういう小話はそれほどうまいとは思えないが、それでも思い浮かぶたびに書き記していくのである。
ダ・ヴィンチは、毎日、経験を軽くして冗談やファンタジーを思い浮かべて経験を広げ、他方テクニカルに作業をする場面では、別人のように集中して、次々とさらに一歩進むための道筋を探し出そうとしている。繰り返し気の落ち込むような選択を通過している。経験の拡張の場面では、集中度を緩和して弾力を高め、作業に取り掛かると前に進むための選択肢を考案する。このファンタジーに満ちた快活さと集中した技能作業の落差が、凄まじいのである。おそらく経験の資質からすれば、「分裂気質」である。
実際ダ・ヴィンチの自然観察は、こんな場面を捉えようとしている。「人間が植物や石を認めないからといって、われわれは植物や石の徳が彼らにないというのだろうか。そんなことはない。われわれは植物が言葉や人間の文字の助けなくして、おのれのなかに高尚さをもっているということをよく認めるであろう」(『絵画論』「科学について」)。こんなふうに物には物の固有の能力が備わっていることに注意を向けている。
あるいは壷に水を入れて壷を動かすと、水の表面が波立ち、水が跳ね返る。こんな事実に注意がむき、どうしてそうなるのかを考えようとしている。水は表面で空気に触れている。この空気に触れている場所で、水には摩擦運動に類似した作用が働く。慣性運動という基本法則がまだない時期だから、力学的には相当無理な説明だが、物の固有性を捉えようとするとき、そのもの固有の仕組みを考えようとしているのである。これは一般法則を応用して、物に割り当てられる変数の値を指定するような解明ではない。一般法則のもとでの応用事例を一つ増やすようなまなざしではない。言ってみれば、物の個体性を捉えようとすれば、物そのものの固有の仕組みを取り出すしかない。これは見かけ上物理学に似ている。だが演繹法則から解明するのではないのだから、むしろ物がそれとしてみずからである仕組みを解明しようとしていることになる。
一般的に見れば、近代科学法則が確立されて以降、もはや誰であれこうしたまなざしをもつことができなくなってしまった。近代科学法則のもとでは、個物は固有の変数として相対的な配置をあてえられるだけである。それらの相互は差異として捉えられる。だが個物は、それとして個体である。ここにダ・ヴィンチのまなざしが向かっている。個体は世界の不連続点として、際限のない深さをもつのである。個体は、物、植物、動物であれ、それぞれがやはり固有性をもつ。この固有性に届くように、ダ・ヴィンチはまなざしを向けようとしている。
ダ・ヴィンチは30歳を超えてから、ギリシャ語、ラテン語を独学で学び、多くの本を読んでいる。当時の大学の専修科目であるリベラルアーツ(自由七科)である、文法、修辞学、弁証論の三科と、算術、天文学、幾何学、音楽の四科うち、ダ・ヴィンチは算術、天文学、幾何学にはことに強い関心を示している。同時代で見れば、大学の自由七科に対して、冶金術、建築術、裁縫術、農業、商業、航海術、軍事術を「機械七科」とする実業社会の専門分野が成立していた。それらに付け加えて、からくり術、医術、狩猟術を付け加えることもできる。それらにはダ・ヴィンチは多大な関心を示している。
時代的に先行する世代で見ると、線遠近法で建物を描いたブルネルスキ(1377-1466)がいて、すでにフィレンツェのドームの半円球状の天井を作り上げていた。またタッコラ(ヤコプの通称、1381-1458)は、多くの回転式機械や作業器具の図録を残している。ギベルティ(1381-1455)も同じように多くの図録を残している。だが何と言っても、アルベルティ(1404-1472)とフランチェスコ・ディ・ジョルジョは、ダ・ヴィンチに先行する世代のなかでも「万学の天才」と呼んでよいほどの広範な才能と仕事ぶりを示していた。彼らには絵画論、芸術論、建築論と多方面の作業を行い、実際に数冊の著作がある。万学の天才と言えるほどのモデルは、同時代もしくは少し先行する時代にすでに存在していた。とすると多くの領域のことに関心を示し、それぞれの領域でなにがしかの成果を出した程度のことを、ダ・ヴィンチに固有の功績や才能の資質だと考えることはできない。少なくともそれぞれの領域で、ダ・ヴィンチは先行するものとはまったく別のことを実行したのである。
ミラノのロドヴィーコ・スフォルツァのところでの仕事を求めて、ダ・ヴィンチが「自薦状」を書いており、そこでは兵器や橋の建造方法、濠の水を抜く方法、岩や要塞を破壊する方法、大砲の構想、地下通路の作り方、戦車、白砲、軽火器、投石器、射石砲を作ることができると述べている。
少なくても30歳前後で、こうした実践的、実用的な器具、道具の作成を行う用意があったとみてよい。こうした請負仕事で得られる報酬を主として稼ぎの糧としていて、絵を描くことはそれの一部だったと考えるのが実情に近いであろう。
実用的な道具や器具を描くさいのデッサンや絵を描く才能は、存分に発揮されている。デッサンの能力が並外れており、器具や機械を描いてもその場その場で天性の「画家」だったのである。そのことはタッコラの描く絵が、ほんのメモ程度の走り画きであったのに対して、ダ・ヴィンチの描く絵は、実物以上に本物なのである。
ダ・ヴィンチの描いた手稿のなかのかなりの部分は、同時代や先行する時代に残された図版の写し取りであることが、今日では判明している。だがどこからどのように引き継いできたのかは、詳細なところはわからない。誰であれ、同時代に継承されたものを踏み板として、キャリアを始めるしかない。同時代の水準を引き受けながら、そこからともかくも前に進んでみる。落下傘のような飛行物体も、タッコラに見える。4角錘にひもを付けてぶら下がると落下傘のようにうまく落ちてくれるようである。実際に同じようなものを作り実験してみたものがいる。地上近くまでは、落下傘と同様にうまく落下できるようである。そうした先行事例をもとに図柄を描いてみたようである。
一般的に考え直しても、この常軌を超えた手稿が、何を行っていたのかは、簡単には配置をあたえ評価することは難しくなる。後にガリレイやニュートンによって基本形が作られる「近代科学」につながるような記述は無数にあり、それを取り出して、先駆者のように語ることはできる。そのやり方では、過度に近代科学の前史に配置しすぎるのである。だがダ・ヴィンチのようなタイプは、配置をあたえて評価するような仕方では、うまく理解することはできない。
ダ・ヴィンチの遅筆は本当に有名である。筆を取れば半日以上は集中し続けることができ、そしてまた考え込む。いったいどこに時間がかかっているのだろう。作品に取り掛かると容易には終ることができない。あれだけの技術をもちながら、描いた絵画はごく僅かである。謝礼金を受け取っても依頼者に絵を引き渡そうとはしない。依頼者は最後にはダ・ヴィンチから奪うように作品を取り上げるしかなく、実際そうなっているようである。
この遅筆の理由は、現在ダ・ヴィンチの絵のX線分析でかなりのところ明らかになっている。ダ・ヴィンチの絵には下絵がなく、下絵に合わせて色を付けるというような画き方ではないようである。また絵筆の跡がない。指の指紋はいくつか出てくる。絵筆の跡がないのであればいったいどうやって絵を描いたのだろう。当然絵筆で画いたはずだが、跡が残らないように画いたのである。
色は、12層になっている。つまり薄い色を付けてそれを何層も重ね、その最後にかたちがくっきりと出てくるように描いたことになる。色を薄くするには、色素を多めの油で薄める。それをキャンバス全体に塗り、層にしていく。それを12回繰り返す。一回一回油が乾くまで待たなければならない。油が乾かないまま次の層を付け足すと、下の層の色が濁ったり動いたりする。そのつど乾くのをまって長時間の作業を行う。こうやってできた絵が、いまにも表情の動きそうなモナ・リザの顔であったり、陰影の度合いがまるで微分のようになだらかに変化していく衣服の折りたたまれた起伏であったりする。形に色を付けるのではなく、色合いの細かな変化の連なりから形が浮かび上がってくるように描いていくのである。こんなことは、誰にも真似はできはしない。
 絵を描く合間や、油が乾く合間には、かなりの時間が空いている。また絵を描かなかった時期もかなりある。その時間をダ・ヴィンチは自然学研究に使っている。精確に言えば、勉強の合間に、絵を描いたというのに近い。
残された膨大なデッサンも、同じ題材についての繰り返しが数多く含まれている。そのつど徹底的になにかを考えている。だがいったい何を考えているのだろう。「知恵は経験の娘である。」(『手記』「科学論」)典拠や書籍からではなく、経験だけから学び取っていく。さらに「自然は、経験のなかにいまだかつて存在したことのない無限の理法に満ちている。」(同上)書かれた理説や憶測からではなく、自然そのものから学ぶ。こうしたルネッサンスの一般祖形である、「経験」と「自然」の重視は、ダ・ヴィンチの手稿のいたるところから取り出すことができる。しかし何を経験することなのか、自然をどう捉えることなのか。デッザンの技術以前になにか人並みはずれた経験をしているのでなければ、あれほどの作品を生み出すことはできない。
ダ・ヴィンチ自身は、絵で巨額の支払いを受ける利害を除けば、あまり絵を描くことに関心がなかったように見える。事実、本人が描いたとはっきりわかるものは以下である。

「受胎告知」(1472-1475)
「アルノ川の風景」(1473)
「衣襞の習作」(1470)
「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」(1474-1476)
「聖ヒエロニムス」(1480-1482)
「三博士礼拝」(1481-1482)
「岩窟の聖母」(1483-86)
「白貂を抱く婦人」(1490)
「最後の晩餐」(1495-98)
「モナ・リザ」(1503-06)
「聖アンアと聖母子」(1510頃)
「洗礼者ヨハネ」(1513-16)

これ以外にも、部分的にダ・ヴィンチが描いたのではないかと推測、推定されるものが、約40点ほどある。同時代の先輩ボッチチェリのヴィーナス関連だけでも70点、後輩のミケランジェロの250-300点に比べれば、測定誤差に留まる。ほとんど絵は描かなかったということに近い。ではダ・ヴィンチは何をしていたのか。著作計画を立てて、手稿を書き続けていた。そのなかのごく一部を法定相続人で弟子のメルツィが編集し、『絵画論』として公刊されている。はっきりと著作として出されているのは、この1冊だけである。他の手稿は、売り払うか、無くなってしまうか、行方不明になっており、現在ダ・ヴィンチの手稿として確認されているものは、ほぼ半分だろうと言われている。まだ出てくる可能性がある。

手稿群

ウィンザー手稿(1475-1519) 馬、植物の素描集
アトランティコ手稿(1478-1519) 歯車、機械のデザイン
アランデル手稿(1478-1519)[大英博物館、未公開]
解剖手稿(1485-1516)
トリヴルツィオ手稿(1487-1491) ギリシャ語、ラテン語の私家版の単語集
パリ手稿B(アッシュバーナム手稿Iを含む、1487-1491)
フォースター手稿(1487-1491)
パリ手稿C(1490-1492)
パリ手稿A(アッシュバーナム手稿Ⅱを含む、1490-1493)
マドリッド手稿I(1491-1494)
フォースター手稿III(1493-1494)
パリ手稿H(1493-1495)
マドリッド手稿I(1493-1501)
パリ手稿M(1495-1501)
パリ手稿L(1497-1505)
パリ手稿K(1503-1506)
マドリッド手稿II(1503-1506)
フォースター手稿I(1505-1506)
鳥の飛翔に関する手稿(1505-1506)
レスター手稿(1505-1509)(一部はビル・ゲイツ所有)
パリ手稿D(1508-1509)
パリ手稿F(1508-1509)
パリ手稿G(1510-1516)
パリ手稿E(1513-1515)

手稿には、同時代に他人によって描かれていたものを写したり、自分の草稿を写した部分もあり、そのつど考えたことを後に編集できるように書き残したと思われるが、自分で編集している様子はない。1960年頃から、各所蔵者がファクシミリ版を公開し始めて、内実を知ることができるようになった。1980年代には日本で多くの翻訳が公刊されて、手稿の全体像を知ることができるようになった。1980年代と2008年前後(『ダ・ヴィンチ・コード』が公刊されたとき)の2度ブームのようにダ・ヴィンチ関連の出版が行われた。
全貌を全体的に見ると、美術史家から見れば、うんざりするほど散漫な書き溜めであり、科学史家からすると、アリストテレスの枠内にとどまりながら、近代科学につながる多くのアイディアを書き残したものだと配置される。ダ・ヴィンチは、勉強は、ほぼ独学である。そして膨大なメモを残したのである。ただこうした人物は、同時代で見ても珍しくはない。しかしそこで踏み込んだもの、さらには見出したものが、ダ・ヴィンチの場合破格だった。
 職人的知の特質 理論的構想はどのようなものであれ、実際の手続き的経験の手掛かりでしかない。手続き的経験は、現に何かを実行することであり、その実行のさなかで次の行為の可能性へと向けて進んでいくことである。行為の継続が可能なように次の選択肢へと進んでいく。
手続き的経験は、ひとまとまりの単位をもつが、それは物の性質に依存することもあれば、身体動作のまとまりに対応することもある。手続き的経験は、事物と身体的行為の連動から成立しており、認識も言語的理解も付帯的に活用されるだけである。
 ダ・ヴィンチの手稿を解説して、ダ・ヴィンチは物の運動を機械として見ており、「機械論」であるという主張も、魂の働きを優先した「有機体論」であるという主張も、いくらでも持ち出すことはでき、従来もすでにさんざん言われてきたが、実は手続き経験にとっては、どちらでもかまわない。
手続き的経験では、物の見方、考え方が争われているわけではない。またそれを問題にしているわけではない。手続き的経験では、手続きが前に進むことができるかどうかが行為の基準であり、前に進むためには、機械の動きも魂の働きの比喩も活用する。手続き的経験では、前進/停滞のコードが基本であり、真/偽は末端の派生的な事象である。
 職人は、理論的説明を求めたりはしない。物事を説明することは、職人の仕事ではない。説明のための概念的な枠組みは、作業を進めるための手掛かりの一つであり、ある意味で一つの比喩である。ダ・ヴィンチの草稿のなかにアリストテレスの痕跡を見出したり、後に展開されるガリレイやデカルトの萌芽的な兆しを見出すことは実際に難しいことではない。手続き的経験は、自分の経験が実際に前に進むことができるかどうかだけを問題にしており、それがどのような意味をもつかは、評論家がやればよいことである。ここでは行為者と観察者の分離がはっきりとでてくる。
歴史的な配置をあたえることは、理解のための便利な手法であり、配置をあたえてわかることは初級者のやることである。理論的な枠とは、地図のようなもので、地図は現場のなかで動き回るための手掛かりであり、地図から現場の現実を導き出すことができるわけではない。
 手続き的行為の系列の反復が生じた場合には、すでに手続き的行為に「変数」が出現しており、同じ作業が繰り返し行われているように見える。変数はそのつど細かく変動するが、定型を求めてしまうとただ同じことを繰り返しているだけになる。つまり変数が定数に個体化され、固定される。このとき別様にもやれるかどうかの試行錯誤が求められる。定数を変数に置き換えてみて、別様にできることの可能性を探る。
また一回限りしか成功しないような事象もある。一回限りという場面で、いわゆる「名人芸」が出現する。理論的に言えば、「奇跡的偶然」だが、誰にとっても何が起きたかを明示することはできない。だが類似した事象を同じように作り出すことはできる。ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」は、現在ではルーブルとロンドン・ナショナル・ギャラリーにあり、ほぼ同じ構図で、同じような大きさである。1506年に報酬をめぐる訴訟が行われており、その影響かと考えられるが、細かいことはわからない。「聖アンアと聖母子」も、ルーブルとロンドン・ナショナル・ギャラリーにあり、構図も人物の表情も大幅に異なる。
同じことの繰り返しのなかにあるとき、定数を変数に置き換えて、別様にして見ることの可能性を考案してみる。反復的な出来事の系列に、さらに変数が出現してくれば、行為も経験も別様にリセットされる。既存の出来事の系列は、新たな変数のもとで、再編され組み直される。再編としての記憶が働いている。記憶は、そのつどの手続き的経験のなかで、繰り返し再形成される。
 手続き的経験によって作られる事象の系列には、さまざまなレベルとモードがある。また個々の事象と事象系列の間には、分析が行き届かないほど多くのモードがある。事象の系列は、植物の根から水が汲みあげられ葉から水滴になり、地下から山頂に水が昇り雨になって落ちてくるように、同型の動きが出現する場合には、それぞれはアナロジーとなる。
アナロジーは、共通の基盤も不要であり、かつどこかに行きつくのではない。二つの事象間の系列の関係は、「隠喩的」である。隠喩のヨーロッパでの代表的な事例は、「愛は日差しを受けてほほ笑む小石」というものである。異質なものがそれとして親和性をもつ。そのことにはそれ以上の理由はない。
 
1 ダ・ヴィンチは何をしていたのか

 ダ・ヴィンチの仕事のなかには、大きく分けると、3つの構造的な柱がある。本職が画家である限り、視覚像を描くことが、あらゆる場面での仕事の成果である。そのとき(1)すでに見えていることの条件を取り出す。これは「光と影の現象学」となる。だが言葉で記述される現象学とは異なり、視覚像(絵、デッサン)によって現象学の成果は示される。ここには派生的に多くの見ることそのもののエクササイズが含まれる。
(2)物事のうち、「動き」をその物事の本性だと考え、動きを捉えようとしている。機械の動きは、機械や道具のデッサンとなり、自然物の動きはそのものの本性を表すものとなる。ところが渦巻のような動きの本性も、言語や数学で語られるのではなく、絵やデッサンのような視覚像で表現される。視覚像は、動きの「断片」しか捉えることができない。断片の切り取りが、動くことの全貌を感じさせることができるように、断片化を行う。いまにも動き出しそうな馬の姿、いまにも動き出しそうな人間の表情、蠢いている植物等々のように断片を取り出すのである。断片と動きの全貌は、部分-全体関係にも、要素‐複合体関係にもならず、比喩的に言えば、「動きとその微分」の関係にしかならない。この断片の切り取り、すなわち動きの微分の作業は局面を変更しながら、積み上げられている。これが膨大なデッサンである。
(3)動きの視覚像は、通常見ているだけでは実行できはしない。物の知覚が成立するのは、持続的に見ることができる場合である。いま馬が前足を跳ね上げて、後ろ脚だけで立ち、ゆっくりと前足を降ろして四つ足で歩き始める一連の場面を想定する。一つ一つ思い起こすことはできるが、明確な像を視覚的に想起しようとすると、特定の場面だけが思い浮かぶ。想起される視覚像は、いつも特定の場面に限定されている。昨日の夕食の風景を思い起こしてみる。特定の風景が浮かぶ。5分前の風景も5分後の風景もあったはずである。だが特定の風景にすでに限定されている。ひとつながりの事象のなかから、想起イメージを取り出すことで、実際の現実よりもさらに「現実的な像」を取り出す。これは最高の写実である。
ダ・ヴィンチのデッサンは、基本的には想起イメージで描かれている。モナ・リザも岩窟の聖母も、想起イメージである。つまり女性のありうべき表情を出現させたのである。想起イメージにさまざまな変形をかけることで、人体の筋肉の仕組みや飛行機の模型や多くの道具を描くことができた。手稿のなかには多くの道具のデッサンが含まれている。だがダ・ヴィンチは、一つ一つ自分で作ってみたわけではない。また作るという仕事は、自分の仕事だと感じている様子がない。実際彫刻家をひややかに見ている。
すべて視覚像で描き、イメージ像を創り出している。これは現代的に言えば、作家が設計図を描くことや、絵コンテを次々と描いてみることに近い。通常の原作者の絵コンテと異なるのは、個々の絵コンテが、絶品と言ってよいほどうまいことである。そしてこれによって「イメージ・ファンタジー」という固有の仕組みを作り出した。ダ・ヴィンチは、科学、哲学、芸術領域での「イメージ・ファンタジスト」だったのである。
ファンタジストの経験の仕組みは、どのような理論言語もただ前に進むための手掛かりとして活用する自在さをもつこと、見えないものを見えるようにするための多くの技法を開発すること、イメージの延長上でいまだないものに視覚的なかたちをあたえることである。そしてこれを大規模に一貫して行って見せたのである。
 見えていることの現象学 見えていることは生きていることの地続きの現実性である。物の認識の場面で、物をどのように見るかではなく、すでに成立している物の見え姿(物の現われ)を問うたのが、現象学である。現われは、認知科学的には、意味記憶ではなく、手続き記憶に依存している。自転車の乗り方のように、自動的に作動するさいの記憶である。そのため現われは、おのずと現れてしまっているのであり、見ることによって構成しているのではない。意識が生き生きと働くことと、現われが成立していることは、すでに地続きである。構成以前にすでに成立している事象がある。それが現れである。現われは知覚が働いていることと地続きだから、現われのさなかで現われにともなう基本的な構造を明らかにしていくしかない。これは現われが出現していることのさなかで現われの特質を分析することであり、現われの外に出て現われを説明することではない。これが現象学的には「内視」と呼ばれる固有の反省の仕方である。そして現れてしまっている事象に内的に隙間を拓き、記述していく。これが「現象学的還元」と呼ばれるものである。こうした現われに含まれた基本的な構造的仕組みを明らかにするのが現象学の課題となる。
 ところで闇の中では、物は現れるのだろうか。闇の中でも物がそこに存在することの感触はある。闇の中で手を伸ばせば手は物に触れるだろうという予期はある。だが現われとして、物が現れているのではない。夜明け前には、視野の全景は青みがかっている。青の感触は、どこか沈んだものである。物は青みがかって沈んでいる。光のなかに物がくっきりと姿を現すと、物は光を照り返すように輝いていく。現われのなかには多くの感覚的な感触が浸透している。物は知覚によって捉えられるだけではなく、知覚的な現われが成立する場面で、すでに多くの要件が関与していることがわかる。
見ることの内在的条件ではなく、すでに見えてしまっていることの成立の条件を詳細に追跡すること、すなわち知覚の成立条件を詳細に追跡することは、現象学の成立環境を明るみに出すことでもある。それは物の見え姿を別様に捉えることでもあり、物の現われをさらに別様に追跡することでもある。現象学は、すでに成立している事象の内的な分析である。しかし事象そのものの成立には、実は多くの条件がすでに関与している。感覚の形成の延長上に、明確で安定した知覚が、最終的な副産物用のように形成されてきたのが実情に近い。
光(可視的な明るさ)は物が見えることの条件でもあり、見えることにキメをあたえ、見えることの細やかさを形成する。光は、見えることの大外の条件でもあり、内的に見えることのキメを創り出す素材的要素でもある。光のもとで視覚は形成される。因みに物とは光を遮るものであり、闇とは可視的な暗さである。可視的な明るさとしての光には、多くのモードが含まれている。それが見えていることの感触の違いを創り出している。この場合、光は粒子でも波動でもない。光が何であるかにかかわる仮説は、見えていることのごく一部しか明るみに出すことしかできない。また理論仮説は見えていることの詳細さに踏み出すこともない。つまり光が粒子さとして、そこからどのように風景の圧倒的な多様性と細かさが成立するのか、明らかになる仕組みがないのである。
物の知覚では、物のさまざまな見え姿(射影)と物そのものの二重に分節した次元的浸透が起きている。それが物の一面的な現われと対象そのものの区分と連動となっている。だがこの場合、物がそれとして物であることは知覚以前に感じ取られており、物がそれとして存在していることも感じ取られている。
物の知覚の手前で、知覚を成立させる広大な裾野がある。そのことを眼が光のなかにいることの成育歴と呼んでもよく、ゲーテに倣って「眼が光によって光へと形成されること」だと呼んでもよい。見えるということが成立することのごく一部が、物をすでに焦点化し、物に注意を限定したときの物の見え姿、すなわち知覚である。知覚の出現は、光のなかで生きることの末端を言い表したものである。知覚以前に、物がそれとして見えるようになることの自然性を支える場所がある。それが「光」である。光のもとでの注意の焦点化が「物」である。
しかも物というとき、多くの場合基本的には簡単には崩れない「個物」(剛体)が想定されている。だが物のように見えるものには、たとえば流れゆく雲、渦を巻く川の流れ、歩行する人の衣服、芽を出す植物,落下する水滴等々も含まれる。そこで通常物を見て個物を捉えき、個物の境界の変化を物だと知覚するのである。物とは、みずからひとまとまりであることを形成した結果である。だから物がひとまとまりであることは「物の活動の派生的な副産物」でもある。輪郭を描くというのは、最後の末端で成立していることである。つまり物がそれとして物である活動そのものをどのようにして描けばよいのか、という問題が同時に出現してくる。たとえば物の輪郭を描くかわりに、光と影の落差の度合いの変化を面として描いてみる。その落差の度合い(強度性)の変化が系列だってつながっているところに事物が出現する。それが物である。これは物がそれとして見える条件を追跡していることになる。見えること、見えてしまっていることの出現の条件である。物がそれとして見えるというのはある意味で、眼と光の奇跡なのであり、この軌跡が出現する仕組みの方から、物を描くことはできる。物とはこの奇跡の末端の副産物なのである。この出現の仕組みをもっとも象徴的に示している事象が、光であり色である。こんな場所から物を描こうとすると写実ではすまず、各種技法にも解消されない試行錯誤が必要となる。


  物の境界では、度合いの違いは、無限量に発散する。だから境界から物を描こうとする。物の境界が無限量に発散するのは、剛体が基本事例となっている。だが渦巻のように、水の中から水の動きが繰り返し出現するような場合の物では、そもそも明確な境界はない。境界から捉えるというのは、眼の限界でもある。物がそれとして物である場合には、光と影の落差の度合いは、際限なく多様で、この落差の系列が物の姿となる。この「光と影の落差の度合いの系列」が、作家のモードとなる。つまり絵の文体である。
ダ・ヴィンチは人並外れて、この度合いの系列が細かった。光と影の落差は、そのため描く人ごとに固有性があり、新たなモードはまだまだこれから開発できる。光と影の分散の新たなモードは、アニメでも開発され、新海誠は新たな陰影を創り出した。コマーシャル画像1枚で、署名がなくても新海誠の作品は、それとしてわかる。光のなかにある事物には、影がやどる。光のなかに分散し、影として感覚されているものをそれとして取り出したのである。白い牛乳をかき混ぜると、内から黒が出現することがある。だから白の中には黒が内在していると言ってもよい。光(可視的な明るさ)のなかには、闇(可視的な暗さ)が含まれている。それが視野のなかに分散的に存在する。新海誠が作り出したのは、誰でも感じ取っている分散する影を、表現として取り出したことである。明るさのなかに闇は局在する。
 このことは最近のダ・ヴィンチの作品についてのX線分析でも、事情が詳細にわかってきた。完成された絵の奥には通常下絵が描かれている。対象の全体の輪郭を白黒で描き、物のかたちを描いて、そこに色を付けていくとうのが普通の手順である。人間の眼では、かたちを捉えることが知覚の本性だからである。ところがX線で調べると、ダ・ヴィンチの場合、下絵らしきものがないのである。するとかたちを描きそこに色を付けていくのではなく、色や陰影の度合いからかたちを出現させていくことになる。
技法としては、薄い色に大量の油を混ぜ、色の度合いを変えながら、何度も塗りなおす。油の層は12層にも及ぶようである。油はそのつど乾くまで待たなければ混ざってしまう。それぞれの層の油が乾くまで、数週間、場合によっては数カ月かかる。それを12回繰り返すのである。そして色の度合いや陰影の度合いの傾斜と配分から物のかたちが出現すように描いていく。物のかたちとはこの度合いの派生的な結果であり、人間の眼は結果を見ることに最大の特質と長所があるのだから、眼で見れば形がみえてくるように描いていくのである。光を受ける人間の顔は、反射光でいくぶん透明になる。かたちに色が付いているのではなく、反射光をまとうことで透明感が生じる。するとダ・ヴィンチの絵にはこの透明感まで描かれていることがわかる。おそらく薄く色を付けるさいに混ぜていく油の量を調整しているのだと思われる。
 こうしてみると実際に絵にする場合には、個々の描く技術が問題になる。誰にも真似できないような技術が発揮されている。実際に絵を描くさいの工夫の回路、思考の回路は、部分的にそれとして絵にあらわれでるが、工夫の回路は、言語で書き残さなければ、描かれた絵だけが残るだけになる。教育的な配慮で言えば、ある種の経験の仕方を表現しているのが手稿である。そのとき物を見る訓練を徹底的に行い、それを図柄にデッサンしていくための「規則」にして系列を創り出している。そこには論理的な体系性も基礎から応用にいたる積み上げもなく、ただダ・ヴィンチが気づいたことが、無作為の系列のように配置されているのである。

不透明な物体を照らす光には4種類ある。すなわち地上に存在する大気の光のように「普遍的な光」、それから太陽の光や窓、扉その他の開口部から入る光のように「部分的な光」、3番目は反射光であり、4番目は布や紙など、ガラスや水晶ほどには透明でない物つまり「半透明な物体を通過する光」のことで、これらの半透明な物体はそれらを照らす光と物体のあいだに何もないのと同様に効果をもたらす。(パリ手稿G)

影は光の減少である。
原初的な影とは、陰った物体の表面に生じる影のことである。それは光が照らすことのできない物体の側面のことである。
派生的な影とは、陰った物体から離れて大気を透過して進む影のことである。
反射的な影とは、照らされた表面に囲まれた影のことである。
単純な影とは、光源をなす光がどこにも見えない影のことである。
単純な影は、光に照らされた物体の境界からそれをわかつ線のうちに生じる。(パリ手稿C)

遠近法の3つの性質とはいかなるものであるか。第1は眼から 遠ざかるにつれて物体が縮小する(それゆえ縮小遠近法ともいう)原則に沿うものである。
第2は眼から遠ざかるにつれて色彩が変化する性質をさしている。
第3にして最後のものは、遠くにある物体ほどかたちをぼやかして仕上げねばならないということにかかわっている。これらは、それぞれ線遠近法、色彩遠近法、ぼかしの遠近法と名付けることができよう。(アッシュバーナム手稿I )

眼の前にある物体がその像を眼に送ってくるとすれば、眼もまたその対象に自らの像を送っている。事物と眼は、その像を送ることでそのいずれかの一部が失われるということはない。したがって、それ自体の像を大気のなかに送りだす性質をもつというよりは、大気がそのなかに諸事物の像を引き寄せ、かつ取り込むのであり、それが光に照らされたこの大気の力であり性質であると考えることができる。(アトランティコ手稿)

大気の背後には闇があり、にもかかわらずそれが青に見えることは、経験の示すところである。乾いた薪で少量の煙を作り、その煙に太陽光線が当たるようにして、煙の背後に太陽を照り返さない黒いビロードの布を置くと、眼と黒布の間にある煙は非常に美しい青色に見えるであろう。黒いビロードの代わりに白い布を置くと、煙が多すぎれば青い色が生じず、少なければ完全な青い色にはならないことがわかる。それゆえ、ほどよい分量の煙が美しい青を作るのである。(レスター手稿)

 2番目の文章が、遠近法の新たな定式化と呼ばれるものである。遠くなれば、線が縮小するという線遠近法は、建築家のブルネルフスキーにはっきりと出てくる。色彩遠近法では、遠ざかるにつれて淡い色合いを帯びてくることである。ぼかし遠近は、ダ・ヴィンチの絵ではっきりと「遠近法」として確立されたもので、遠景は大まかな輪郭としてしか捉えられず、近景は密に詳細なキメをもっていることである。絵のなかでは、遠くの山は大まかな線で描かれ、手前の人物や物は詳細に描かれている。描く線の混み合い方に落差がある。また5番目の文章の光と物の間に煙を置くようなやり方は、間に置かれた「もや」「かすみ」「曇り」でも同じように実験してみることができ、一般的には「媒体」の効果と呼ばれるものであり、媒体によっては、新たな色彩の出現を導くことができる。これらは色彩についての実験現象学を作り出す。実際に後にゲーテがそれを実行した。

 動きを描く 動きをみるさいに、ダ・ヴィンチは規則性を求めようとはしない。視覚像としてくっきりした場面が描けるようにすることが、そのものの本性的な在り方に届くように場面を切り取ることを繰り返している。活用しているのは、動きの中での物と周囲との働き合いである。そのためおよそ人間の眼では見えるとは思えないものをくっきりと見ている。しかも厄介なことにダ・ヴィンチの記述に沿って、見ることを学べば、見えるようになるということではない。またアナロジーで動きを接続するある種の発見法も活用される。ミクロコスモスとマクロコスモスの同型性は、外延的で概念的なフレームのことではなく、多くの場面で出現するアナロジー的同型性である。大いなる連鎖の中で、「運動の連鎖」を活用し、この連鎖のモードが多くの領域で同型性を備えている。なぜ物の動きには「同型性」が見えるのか。これは眼そのものの本能であり、眼が眼であることの遺伝子でもある。アナロジーは、それ以上に理由付けが効かない。アナロジーで活用される類比の連鎖は、出発点もなければ、行く先もない現実性の基本的な成り立ちである。

水がわずかな運動で水面のわずか下に空気を押し込むと、空気はひとりであまり急激にでなく沈められるが、その空気と等しい重さの水を身にまとうて水面に帰って来、水の上に半球形をなして止まる。(水泡)。しかしもしかかる空気が急激に沈められるとしたら、それは急激に水の外にもどるが、水中でおこなわれる運動の距離に比例して自分の重さに圧されて水の外へ踊り出し、急激に水面を被って、飛沫を破って、飛沫を生む、
                  (Del moto e misura delle acque)

 空中を降下する水滴の各側面は水滴の運動と反対に運動して、各末端からその上部の中心に向かう円形で、連続的な波をつくりだす。こういう波は周辺の中心に打ちかえさないで、その円の中心に沈んで奥深く入り、下側から出て、さきにそこから降ったところ、すなわちもっとも高い箇所にふたたびたちかえり、ここであらためて円形の波を再び生じて、あらためてその中心に沈むのである。
                  (Del moto e misura delle acque)

大きな水流の真中に生じる渦巻は往々ひじょうにたくさんあるが、流れの終わりに近づけば近づくほど大きくなる、それは逆流する水塊が、一番速い流れの中に衝撃をあたえたのちに、その水塊によって水面につくりだされるのである。
                  (Del moto e misura delle acque)

 自己の重さに従う自然の流れとは反対に水脈を通して水を動かすところの原因こそ、あらゆる種族の生物体の中のあらゆる水液に同じ作用を起こさすものなのである。ちょうど低い血が高く昇って額の傷から滴り落ちるように、海のどん底から山のてっぺんに昇り、そこでじぶんの水脈の傷口を見出し、そこを流れて、低い海へと、もどるのである。
                   (アランデル手稿)

 これらの文章で描かれていることは、水の動きの細部であり、しかもどのように丹念に水の動きを見続けようと、見えてこないような局面まで描かれている。ダ・ヴィンチが「動き」そのものをイメージ化している可能性が高い。あるいは絵をうまく描くようになるためには、その程度の詳細さで「見る」ことの訓練を積みなさい、というメッセージなのかもしれない。およそ近代科学的なまなざしとは異なる位置で実行されている観察である。
近代科学 こうした手法と近代科学との違いを対比的に考えてみる。たとえば後にベルヌーイによって「流体力学」が定式化されるが、運動・位置・圧力・内部エネルギーのも4変数で、保存という発想のもとで定式化されている。圧力が上がれば速度は低下し、圧力が下がれば速度はあがる」というような、変数間の関数を定式したものである。
関数的関係は、関係そのもの(関数)と、個々の個別変数で作られており、個別変数に特定の値を入れると特定事態が表記され、関数(普遍)と特殊(割り当て)の関係を示している。ダ・ヴィンチの記述は、個々の断片の系列を示しており、近代科学とは異なる定式化の仕方になっている。
 変数の抽出に、近代科学の仕組みが凝縮している。変数そのものは、ある種の極限化、理念化によってはじめて抽出できる。測定をつうじて何かを測る。測られている当のものは、つねに断片であり、一面である。それを極限化をつうじて取り出すのである。ガリレイやデカルトにはっきりと示されるこうした極限化の手続きは、現実のなかに理念を取り出すやり方である。
極限が現実のなかにある。もっともはっきりとしたかたちで出てくるのが、「時間」と「空間」である。一切の運動とは独立の時間は、一つの理念的な極限であり、一切の物とは独立の空間も、一つの理念的な極限である。実際には、そうした時間や空間は存在しない。だが理念的な純粋形として取り出すことはできる。フッサールが、ガリレオに見られる「理念化」として定式化したものである。取り出された理念を座標軸のようにあらかじめ張り出しておけば、出発点に枠を設定することができる。外側の枠の設定は、デカルトの開発した「解析幾何学」(X-Y座標)で詳細に扱うことができる。理念化とともに、理念的に取り出された座標軸は、測定によって個々の値を指定することができる。理念的に取り出された座標軸は、測定科学と一つになって近代科学の基本形を形成している。今日では、こうした座標軸の張り出しが自明のことになっているので、何が基本的な変数なのかを問うていくのである。その変数こそ、測定に適い、数量化可能なものである。たとえば水の運動で見れば、圧力は単独の変数であるかどうかは微妙な問題である。だが測定値として変数の値を取り出すことができれば、固有変数となる。こんな仕方で変数を取り出すことができれば、さらに変数間の関係として、関数を設定することができる。近代科学は、極限化による変数の設定、測定による変数の数値的割り当て、数学的関数との整合化で成り立っている。
こうして関数的、関係的世界像が取り出される。こうした関数的世界把握には、多くの利点があった。個々の事実の寄せ集めから一般的法則を導くとする「帰納の原理」の欠陥を補う点にある。帰納原理とは、たとえば「「リンゴ」の本性を知ろうとすれば、世界中から各種リンゴを集めてきて、共通の性質を本性として取り出すような場面に見られる。共通の性質は、多くのリンゴから抽出されるので、リンゴが多様化すればするほど、共通の性質は乏しくなる。最も普遍的な原理は、最も内容の少ないものになってしまう。これでは物事の認識として優れた手法ではない。そこでまず味や臭いや色や光沢について、変数を取り出し、個々のリンゴが変数の値として割り当てられるような変数としておく。変数間である明示的な関係が取り出されれば、この関係をリンゴの本性だとし、個々のリンゴは変数ごとに割り当てられた個別的な値を取るというように組み立てることができる。関数形式は、個別性とともに普遍性を表現する仕組みとなる。新カント派で数学的認識を基礎として認識論を組み立てたマールブルク学派のカッシラーがそうした主張をしている。こうして関数的認識が、科学的探究の方向付けと同時に、近代科学の主要な認識ともなっていった。
 画家としてのダ・ヴィンチの行ったことは、動きの全貌が予期として感じ取れるように断片を切りだすことであった。そこには次の局面ではどのような変化になるかが感じ取れるように断片を取り出すこと、次の局面に動きの別の局面が現れれば、持続的にそれを描いていく手続き的な予期を形成するように一つ一つを描くこと、手続き的予期のなかでそれを裏切り、そこから外れていくような断片が生じた場合には、その変化が含まれるような断片を切り出すことが含まれている。
 ちなみにベルクソンが、近代科学的な生命の記述への批判を行ったとき、生命の動きを時間軸で押さえて、そのつどの空間的な図柄が描写され、それを大量に早回しにすると、アニメの動きにしかならないという点を骨子にしている。そこから生命には、科学的な記述ではとらえられないとする限界設定の議論を行っていた。テクニカルには、この議論には方向性の筋のまずさが含まれている。各描写の幅を十分に狭くしてデジタル的に記述すれば、どのような生命体でも生命らしく動いて見える。またアニメもアニメらしい動きがある。アニメの動きを生命的ではない、といえるだけの理由は今日ではもはやない。アニメの方が変化率の大きさを課題に表現するために、むしろ生命的だともいえる。変化率の大きいものをさらに拡大し、小さなものを縮小する技法がアニメでは頻繁に活用される。ベルクソンの主張は、動きの固有性にどのようにして迫れるのかという課題設定だったのだが、そのことと時間空間形式とは、直接関連がない。アニメでも時間幅を十分に短くすれば、ビデオ・ライヴと同様の生命の動きは作ることができるのである。
 このことに関連して、ニ、三のことに触れておきたい。第一に個体と典型的な動作との関連は、全体―部分関係の生成する関係である。記号論的に言えば、換喩(メトニミー)ではない。いつも赤い帽子を被っている女の子を「赤頭巾」と呼ぶときには、部分で全体を指標している。これが換喩の典型例である。ところがヘビが脱皮をする動作は、頻繁に起こることではなく、ヘビにもっとも不可欠な動作であるかどうかもはっきりしない。伝統的な文法用語では、提喩(シネクドケー)に近いのだろう。白波で海を指標し、白帆で舟を指標するように、階層の異なる概念レベルを接続するさいに生じるのが提喩である。いまにして思えば、二〇世紀の構造主義は、比喩の典型例を隠喩と換喩に絞込み、提喩を換喩の一変形態にしてしまっている。レヴィ=ストロースにもラカンにもこの傾向は見られる。だが生成し変貌する個体や、明確な輪郭をもって個体化することはない世界や神について、ある局面を切り取ろうとすると、その局面と全体との関連は換喩にはならない。こうした局面を切り取るためには、全体と部分との変動し続ける関連が見えていなければならない。そのとき全体は予期としてそのつど捉えられ、そのさなかで部分を切り取るために、部分-全体関係こそ変化し続けることになる。これに対応する言語的な道具立ては、現時点では見当たらないというのが実情である。
このときその局面に働くのは「注意」であって、知覚ではない。知覚はすでに見えているものが何であるかを知る能力であり、それに対して、何かが見えるようになる実践的場面で働くのが注意である。注意は現実をそれとして成立させる。一挙に何かが見えてくるとき、その局面に注意が働いたのである。
ダ・ヴィンチが視覚の人であることはしばしば語られる。だがダ・ヴィンチに典型的なのは、変動する部分-全体のなかで、そのつど予期された全体をもっとも際立たせる局面を探り当てる注意能力であり、実はこれがまだ死後500年近く経過しても継承できていない特異技能なのである。注意能力は、感じ取り、盗み、実際に自分で行ってみるしかない能力であり、通常の学習のように学ぶことはできない。
 第二に、こうしたなかでダ・ヴィンチ特有の見え方をしたのが、運動である。たとえば馬の歩く姿をイメージしてみる。歩く動作には反復がある。その反復のなかにも差異がある。現在ではこれは常識になっている。では反復する一つ一つの動作を取り出してみる。反復するものには、開始があり、動きの継続があり、終りがあり、終りと重なった次の始まりがある。この三要素は反復する動きの基本であり、そのまま物語の三要素である。
つまり動作を一まとまりのものだと見ることに通常慣れてしまっている。それが物語の働きである。しかし止まっているものが動きを開始すること、動き続けるものが動きの起伏をもちつづけること、動いているものが止まることは、動きの変化であって物語風の反復運動の記述ではない。するとかりに一まとまりの見える運動であっても、そこには連続した運動そのもののなかに変化が含まれている。この動きのなかの変化(一般には変化率=強度)が、個々の個体性をもっとも際立せるように切り取るのである。これは簡単には数学的形式には落ちてこない。
変化率は、十分な時間をかければ測定可能になるが、変化率そのものは直接感じ取られる。それをドゥルーズが「強度性」の中心に据えた。すなわち変化率は、運動性の感覚のことであって、感覚はそれじたいで作動するさいに、この変化率につねに反応している。変化率を感じとれば、誰であれ何かを行うように迫られる。だが強度を描くだけであれば、実はそれほど難しい課題ではない。ちなみにデュシャンの「処女から花嫁への移行」「急速な裸体たちによって横切られた王と王女」「階段を下りる裸体No2」をこの順で見ていってほしい。強度の度合いがはっきりと感じ取れる。
しかしダ・ヴィンチの課題は別のところにあった。どの運動の変化の局面(変化率)を切り取れば、もっとも馬らしいのか。ここにダ・ヴィンチの注意が向いている。変化率と個体性との内的かかわりが問題になっている。イギリス王室ウィンザー城所蔵のデッサン集を見る限り、馬の素描がもっとも多い。何度も何度もこの内的かかわりを探り当てようと、馬を描いている。ダ・ヴィンチの直面した課題は、強度性の感知の一歩先にある。強度が個体性と釣りあう局面を探り当てるような課題なのである。
これを一般的に言い直すと、馬の動きでは、動きそのものの全貌はそのつど変化し続けている。極端に言えば、馬は一歩ごとに異なる走りをしている。すると断片としてどこをどのように切り取るかによって、次の一歩の予期が変化してくる。部分の動きの変化と全貌の変化が連動している。この連動を捕まえるためには、多くの断片を描いていくしかない。たとえばこの場面をさらに極端に示すためには、渦巻の出現を考えてみれば、渦巻の全体的運動はそのつど変化し、渦巻の姿はそのつど作られていく。それを変わりゆく全貌を予期させるように静止画像を描くのである。部分が変化することと全体の変化は連動し、その変化の予期が断片に含まれるように描いていく。
また人物を捉えるさいには、特定の表情を描くのではなく、表情の変化の一断片を描いている。それが精神の運動を捉えるさいのもっとも有効なやり方だと、ダ・ヴィンチは確信していた。実際『岩窟の聖母』の女性の表情や、モナ・リザの表情は、紛れのない強烈な印象をあたえるが、なんの表情なのかがよく分からない。いわくありげな不思議な表情だが、なんの表情なのかがわからないのである。だが間違いなく内面の蠢きは感じ取れる。ミケランジェロの人物の表情は、多様だが定型の表情を描いている。典型的な表情であるため、実は劇画の表情に近いのである。つまり形としての表情が描かれていることになる。ミケランジェロの人物は、典型的な表情はあるのに、情感の動きがない。
 運動は、物とならび、第一次的な感覚直観である。運動が何であるかがわからなくてもそれとして感覚的に直観されている。わかる以前にすでに対応しているのが運動である。この対応は、基本的には身体運動とともにある。その対応を「見る」という行為に集約させた行為が、「鑑賞」である。そのため鑑賞には、多くの運動性の感覚が浸透してしまう。そうした事態を描こうとしたのである。


ファンタスティックなイメージ像 動きの継続にダ・ヴィンチはこよなく関心を示した。あるいはそこにしか関心がなかった。マドリッド手稿では、多くの道具や機材を描いた。同時代にまだ無かったものも多くを描いている。そして実際に工房で一つ一つ試作してみた様子はなく、試作したというデータもない。とすると動きのイメージを喚起するものをデッサンとして、次々と描いてみたというに近い。ダ・ヴィンチの図柄は、基本的にイメージ像である。しかも現物を見て描くよりもはるかに鮮明に描いている。
  自然界のなかに何かモデルケースを取り出し、それに変形をかけて、特定の像に作り上げていく手続きを踏んでいる。人間の知能のなかから出てくるものは、範囲は相当に限定されている。辺境にあるものが辺境を拡大するだけに留まる必要もない。自然界にあるものから人間の知能とは異なるものを見出し、それに変形をかけて、人間の世界を拡張していく。これが人間そのもの、人間の能力そのものを拡張することでもある。認識の可能性の拡張の条件の手続き的なやり方として、人間とは異なる能力を自然界に見出し、それを人間の能力と接続可能にすることで、人間の環境そのものに多くの多様な知能を出現させていくことができる。これこそ「自然知能」である。

 これはダ・ヴィンチ方式の「ガルーン」だと考えてよい。類似したものを実際に制作することはできる。半円盤の羽を二つ重ねて、回転させて浮くようにする機械である。羽に傾斜と含らみの変化をつけて、通り過ぎていく風を羽で回転運動に代え、この回転運動で上昇する構想だと思われる。回転運動で推進力を作る動物はいない。スクリューのような回転運動で尾鰭を回転させ、前に進む魚はいない。このダ・ヴィンチ式ガルーンは、植物由来なのかとも思える。タンポポのようなフワフワの花が、風に乗って回転運動しながらしばらくの間、大気中を飛んでいくことがある。そのイメージと直進運動するものが回転運動に変換されるピストン式歯車があれば、こうした図柄までは到達できる。ただし当時の技術水準では、類似したガルーンを制作しても、実際に飛び上がることは難しい。ガルーン以前にはヘリコプターがこの仕事を担っていた。空を飛ぶという仕組みのなかに回転運動を入れたアイディアとしておそらく人類最初期の構想だと思われる。
 また大きな楓のような羽を作り、この羽をはばたかせることができれば、この羽自体が宙を舞い飛んでいくようなものも描いている。羽をはばたかせるために、梃の原理を使い、反対方向で人間が竿を押さえにかかっているような図柄である。漫画やアニメのなかに出てきてもおかしくない図柄だが、この巨大な楓がひとたび舞い上がれば、いくつものやりかたで人間をそれに結び付けて大気の中に引き上げることはできる。ただし滑らかに落下することは相当に難しい。現代的な飛行機でも同じ事情があり、大気中で速度をあげれば物体は持ち上がり、大気に浮くことはできるが、速度を緩めながらソフト・ランディングすることは容易ではない。

 おそらくこうしたやり方でも、規則性と展開可能性を引き出すことができる。飛行機械の図柄をAIに記憶させて、系列を形成し、自由に組み合わせて次のデザインを作るプログラムにしておくと、AIは自動的になんらかの図柄を作り出してくれる。それはAIが言葉を組み合わせて俳句を作ることに似ている。これは規則の別様の活用である。
またたとえば数多く描かれている馬の動きの系列をAI分析に掛け、ダ・ヴィンチに見えている馬の動きの特徴を取り出すこともできる。数学的な定式化とは異なる仕方での規則性は現在のAIの水準でも取り出すことができる。
AIは、数学の計算でも人間の規則運用とは別のことを行っている。正しく結果を出すことと、オペレーションの仕組みとはまったく別のものである。数学的規則や言語的判断が、むしろ人間の能力を抑え込んでいる面が多々ある。それを捨てることがどうすることなのかもわからない。だが現実に数学や言語とは別のかたちでオペレーションを実行できる。その一つの事例をダ・ヴィンチが作り出してもいる。ある意味で、ダ・ヴィンチの膨大なデッサンはAI的なのである。
たとえば数十のダ・ヴィンチの描いた馬の動きをAIに読み込ませ、そこからさらに次の動きを描かせてみる。途方もない動きは自動的に廃棄され、残ったものは馬の動きの系列として系列化する。この系列こそダ・ヴィンチ的な馬の動きの規則なのである。規則は数学的に定式化されることとは別の仕方で、現実化することができる。ダ・ヴィンチは、近代科学へのつながる前史の一部を形成したというより、まったく異なる科学の方向へと踏み出していた、と考えた方が実情に近い。

   2 エクササイズとしての経験――探求の方法論的な原理

見ることのエクササイズ=規則の成り立ち 物を見るためには、訓練が必要である。眼を開けてみれば見えるようになるというのはありえないことである。人間の眼は見えるものしか見えない。とすると見えるようになるためには多くの訓練が必要になる。この見る訓練を兼ねた物事の在り方についての記述が、ダ・ヴィンチの繰り返し行ったことである。実益としては、絵を詳細に描くためには、見えることの範囲を拡張しておくことが必要であり、そこに物事と物事の運動の本性が含まれるように見ていくのである。

土煙は土であって重さを持つから、たとえ微細なために容易に舞い上がって、大気と混じり合うとしても、おのずと下の方に戻ろうとする傾向を持つ。その最も高く上昇した部分は、最も微細な土からなるので、その個所は最も見分けが付きにくく、ほとんど大気の色と同じく見えるだろう。空中で土煙と混じり合った硝煙は、ある程度の高さまで上昇すると、暗い雲のように見え、その煙の頂は、土煙の頂よりもはっきりと見えるだろう。硝煙は青みがかった色となり、土煙は土の色を帯びるだろう。光の射し込む側から見ると、この大気と硝煙と土煙の混じり合った煙は、その反対側から見るよりも、はるかに明るく見えるだろう。
       (『絵画論』119頁)

ここで活用されている要素は、土煙の重さ、大気との混合(硝煙の出現)、煙の頂点、硝煙の色と光である。こうしたやり方が科学的方法である。方法に従ってみるものは、方法の枠内でしか物事が見えない。一般には、見ようとするとき、見えるものしか見ないというのはごく普通のことであり、注意は関心に応じてそのつど限定されている。またこの動きは、到達する目的にも、開始の条件にも制約されない。ということは動きには、それ固有の「自然性」があり、それは開始条件にも到達する帰結にも解消されないような「自然性」があることになる。この自然性は、見ようとすればそのつど注意の位置を変えていかなければならないことを意味する。
「土煙の下に戻ろうとする傾向」を「傾向的本性」として知ることが課されているのではなく、まさに上りながら落ちようとする動きを感じ取り、イメージすることが目指されている。ここでは科学的な説明を目指しているのではなく、動きのそれとしてあることを詳細に捉えようとしている。そのイメージは、部分的には「どのようにそれを描くか」に向けられている。画家であり続けることの延長上に、自然観察があり動きの「自然性」に届かせようとする事柄の本性の探求がある。
 さらに「傾向」という語をそれとして実体化してはいけない。この語の内実は、運動の可能性を含んだ運動の方向性のことなのだから、語から実際の運動が見えてくるようになんらかの「プログラム」的なまなざしを形成する必要が生じる。
 これはある意味では規則性の取り出しではあるが、そこで探求されようとしているのは「動きの規則性」であり、出発点の条件や帰結、あるいは外側に張り出した座標軸に沿う分析ではない。また語に含意された意味内容ではない。たとえ語が概念だとしても、概念によって事態が捉えられるわけではない。語とは、起きている運動の一つの指標なのである。この意味では、近代科学ともアリストテレス自然学とも大幅に異なる。見かけ上、ダ・ヴィンチの記述では、しばしばアリストテレスの用語が用いられ、事象の解明も運動の起きる諸要素の関連を詳細に描くものであるようにも見える。だが動きの記述は、それじたい動く姿の記述であり、動かす原因や動きの結果に結びつけるようなものではない。動きはどこかに向かうわけでもなく、なんらかの動因によってもたらされたものでもない。また動きを外側に張り出された座標軸に映し出された指標で捉えるものではない。動きはそれじたいで動きであり、その記述は慣性の法則を中心とした「近代科学」に似てくる。だからダ・ヴィンチの記述は近代科学への移り行きを示す移行期にあると考えたくなる。多くの論者がそう言っている。一つの物事を関連する事象との連動で捉えるやり方は、アリストテレス的である。だからその点では、近代以前の手法を採用しているようにも見える。ここに解釈の陥穽がある。枠の中に配置して物事をわかろうとする最も怠惰で粗雑な解釈手法が、見え隠れしている。
ダ・ヴィンチの解明しようとした「規則」は、そもそも成り立ちを異にした規則性なのである。近代科学は、基本的には座標軸の科学である。座標軸が取り出せるという確信は、現実のさなかに極限事態を取り出すことで成り立っている。ダ・ヴィンチにはそうした発想がそもそもない。また目的や開始条件に合うように事象を切り取っていく意図もない。いったいそれでは何を行っているのか。
 ダ・ヴィンチのなかに「植物の動き」に関連した規則の取り出しがある。それは11の命題に分けられている。ダ・ヴィンチの草稿のなかでは、例外的に草稿をまとめようとした記述でもあり、取り上げる。
第二命題。樹木の枝先に生える若枝は、上の方に生えるものより、下の方に生えるものの方が大きくなる。
第三命題。樹木の中心部に向かって伸びるすべての若枝は、過剰な影のために短期間で枯れる。
第四命題。樹木の上端部の近くにある枝ほど、元気があって恵まれている。その原因は、大気と太陽にある。
第五命題。樹木の枝分かれは、親枝に対して互いに等しい角度をなす。
第六命題。だが、側方に伸びる枝は、年を経るにつれて、新しい枝分かれの角度が鈍角になる。
第七命題。枝分かれする枝が細かくなるほど、側方に伸びる枝は斜めになる。
第八命題。二股になった枝の太さを合わせると、その親枝の太さになる。
第九命題。幹から枝分かれするたびに、枝どうしが衝突しないようにと、枝は次第に斜めに曲がっていく。
第10命題。同じような太さで枝分かれして行く枝ほど、その曲がり方は斜めになる。
第11命題。葉の付け根は、常にその枝の下に自らの痕跡を残す。樹木が年老いて樹皮がひび割れて剥落するまで、それは枝とともに成長する。

 この分析の仕方のなかにダ・ヴィンチの固有性が良く出ている。総体としてこのまなざしが向かっているのは、精確に植物を描くために、植物らしさ、植物の本性らしさをともかくも捉えることである。ひとたび植物らしさを捉えれば、個々の植物の写生はその植物らしさが含まれるように固有性を描くことができる。ここでは植物の枝の出かたや枝形成一般の規則性を取り出そうとはしていない。むしろ枝の出方や枝の枝ぶりに細かく注意を向けていき、注意の焦点をずらしながら「注意点」と呼ぶべきものを書き連ねていくのである。この注意の向け方の移動が、ダ・ヴィンチの特徴なのである。そのため場合によっては、何度も同じようなことを描くという作業を倦むことなく続けることになる。注意の移動は、対象の全体的な輪郭が定まるまで続いている。
 方法論的原理 そのなかに第八命題のような観察記録がこっそりと含まれてしまう。親枝から枝分かれした複数の枝の太さを比較すると、小枝の太さの総和は親枝の太さと同じになるという記述が行われている。親枝の太さと小枝の太さの総和が完全に同じになることはありえないのだが、力学で見られる比率配分が枝分かれでも起きているという観察記録である。量化可能な水準に規則性が見いだされている以上、近代科学的な定式化に類比させて配置的に受け取り、評価することもできる。だがおそらくダ・ヴィンチにはそうした思いも意図もなくむしろ「連続性のもとでの配分」という発想から出ていると思われる。
こうした原理は、通常の科学法則とは異なる。直接科学法則を示しているのでもない。量的な記述を行っており、近代の科学法則のような装いをもっているが、量の関係として事象を表そうとしているのではない。量として記述するには、数値が割り当てられる座標軸が取り出される必要がある。座標軸そのものはある種の極限化、理念化を行わなければ、取り出すことができない。
いささか重複があるが述べておいたほうが良い。他に何もない「時間」や「空間」を、現実のさなかに取り出す操作が行われるのでなければ、本当のところ「量的」記述はできない。こういう極限化や理念化を、フッサールは『ヨーロッパ諸科学の危機』で、「理念化」と呼んだ。そしてこのオペレーションを近代科学の最大の特徴だと指摘したのである。これは人類が開発した知的操作のなかでも、最大のものの一つで、驚くほどの効果があった。
たとえば「圧」という変数を設定してみる。圧は一般的には動いているものの接点で及ぼしあう関係の一つの指標である。静止している状態は、均衡状態のことで、机の上に物が乗っている場合、物が机に及ぼす圧力と机が物に及ぼす圧力は等しく、釣り合っている。これが作用=反作用の法則で、静止とは速度ゼロの運動であり、均衡状態にあることである。圧は運動しあう物体の運動速度や物の重さに関連するが、それでも「圧力」という変数を取り出すことはできる。こうした変数を取り出す作業が、理念化である。そしてダ・ヴィンチの記述のなかには、こうした理念化を経た様子はまったくない。変数を取り出しそこに量的な配置をあたえるような手続きは、採用されていない。だから枝の面積の話も定性的な特徴の取り出しであり、見かけ上量的な規則が取り出されているように見える場合でも、定性的な記述である。それでもダ・ヴィンチの記述のなかには、ある種の洞察は間違いなく含まれている。それは近代科学とは、性質の異なる規則性なのである。
こうした規則性を配置をあたえるように特徴づけるなら、これはカント的に言えば、探求を方向付ける「統制原理」である。そう特徴づけるのがもっとも座りがよいように思われる。カントによれば統制原理は、実際の現実性のなかで直接作動している原理ではない。つまり現実を構成する必要条件となる原理ではない。むしろまなざしや注意を方向付け、後の探求の視野を開いていくための方法的な原理である。そのためカントでは、「構成原理」に対置されて、「統制原理」だと呼ばれている。おそらくダ・ヴィンチの行ったことは、こうした統制原理をそれぞれの領域で見出していくことだった。
 統制原理にも多くのレベル差がある。たとえば「自然は無駄をしない」(アリストテレス)という命題も、統制原理だが、抽象度がとても高い。あらゆる領域に当てはまっていると感じられるような原理であり、また例外もたくさんありそうな原理である。遺伝子(DNA)は進化論的な継承のなかで受け継がれてきたものであり、何に使われているかが実際よく分からないものがたくさんある。ゲノムのなかのDNAの量で見ると、両生類あたりが最大のDNAが含まれており、それ以降DNAの総量が増えているわけではない。遺伝的情報だけではなく、遺伝子のオペレーションや全体の維持に関与しているDNAも、ゲノムのなかには含まれており、場合によっては何の役に立っているのかわからないようなDNAもある。そのため動物ではすでに「遺伝子編集」の作業はかなり広範に行われている。DNAのなかにはかなり多くの「無駄」があると考えてよい。
またDNAから情報を受け取り、タンパク質を合成したとき、実はかなり多くのタンパク質は使い物にならず誤ったタンパク質であることが判明している。合成された2割から3割のタンパク質はまがい物であるというデータもある。自然界は、無駄に満ち溢れている、というのも現実のなかの紛れもない事実なのである。それでも「自然は無駄をしない」という原理は、原理として維持される。たとえばまがい物のタンパク質ができたとき、それらを再度分解して再活用する仕組みがあるに違いない、という発想そのものは次の局面で新たな問いに導き、新たな探求課題を開いてくれるからである。
「自然は無駄をしない」という原理の力学版が、最小作用の原理である。たとえば光が異なる媒質(空気から水のように)を通過するさいには、最短時間で進むように光は界面で屈折する。
そしてこうした事情から、ダ・ヴィンの記述は、時として近代科学的な法則の姿に近い記述を生んでおり、繰り返しそうした指摘が行われてきた理由にもなっている。つまりダ・ヴィンチは100年早すぎた科学の発見者だった、と言いたくなる部分が多々見られるのである。
ところが詳細に見ると、やはり近代科学的な定式化とはかなり性格が異なる。するとこの点でも近代科学とは異なる作業をダ・ヴィンチは実行していたと考えた方が実情に近い。統制原理としての「連続性のもとでの配分」は、実は人体の解剖図でも何度も活用されており、ダ・ヴィンチの描いた解剖図は、人の身体にしてはしばしばあまりにも整いすぎているのである。左右バランスも整いすぎており、頭蓋骨も整った頭蓋骨が描かれている。解剖図に含まれる「性交」図も、男女のバランスが良すぎる。このことは絵画にも適応されており、髭だらけのダ・ヴィンチ自身の自画像とモナ・リザの顔の比率的な輪郭がそっくりだという分析もなされた。見え姿は異なろうとも、配分されたものの比率はそれとして維持されているという直観的な確信がある。
ダ・ヴィンチの活用した「統制原理」は、物事に注意を向け、さらに詳細なまなざしを向けていくための手掛かりとなる指針であった。そしてときとしてそれは、記述した事柄の証明にも活用されている。
 こうした統制原理はダ・ヴィンチ自身が明示的に示さないかたちで、実際に活用されていることがわかる。そのなかには、「動きの相関的連動」のような原理もある。これは「鳥の飛翔に関する手稿」ではっきりと出てくる。鳥が上昇したり、下降したりするさいに、翼や頭部や尾がどのように連動しながら動いていくかを細かく観察しようとしている。飛翔は、鳥個体と風の関係のなかで飛翔という動作を取り出すのである。空気の動きをどのように鳥が活用し、動きのかたちを変えるさいには、鳥の全身のなかのどの部分がどのように連動するかに、ダ・ヴィンチの注意が向いている。

 風が右翼ないし左翼の側から鳥を打つならば、鳥はその風に打たれる翼の先端を、風の下か上に入れる必要がある。その移動の幅は、翼の先端部の厚さと同じ程度で良い。この移動が風の下になされるならば、鳥は嘴を風の方に向けるし、風の上になされるのであれば、鳥は尾をその風の方に向けるだろう。そしてこの時、鳥の体が裏返しになる危険が生じるが、自然は鳥の体重が両翼の広がる位置より低くなるようにして、それを防いでいる。
     (『鳥の飛翔に関する手稿』49頁)

尾は・・種類の運動をする。ある場合は水平であり、この状態の時、鳥は水平に進む。ある場合にはその両端を等しく下げている。これは鳥の下降の時に生じる。だが尾が下げられ、その左側が右側より低くなっている時には、鳥は右側に旋回しながら上昇するだろう。この証明はここではしない。そして下げた尾の右端が左端よりも低いならば、鳥は左側に旋回するだろう。そしてもし上げた尾の両端のうち左側が右側より高いならば、鳥の頭は右側に回るだろう。更にもし上げた尾の両端のうち右の部分が左の部分より高くなるとすれば、鳥は左側に旋回するだろう。
             (『鳥の飛翔に関する手稿』71頁)

 いずれもダ・ヴィンチの観察の特質が良く出ている。おそらくよほど遅く飛ぶ鳥を見て描いたか、そもそも見えないものを見て力学的に可能な観察を行ったかである。遅く飛ぶ鳥の代表が、ただ浮かんでいる鳥のことだが、空気の揚力を受けて浮いたままであるという着想はダ・ヴィンチにはない。空中で揚力を受けて静止している現象は、不思議な運動である。ダ・ヴィンチも見ていたはずなのだが、それが飛ぶことの基本形の一つだとは考えていなかったのだと思える。自然状態とは動きの中での各部位の相関的連動のことであり、そこに最大の利点がある。
 また歯車と歯車の連動や歯車とピストンとの連動は、ダ・ヴィンチが夥しく描いたものの一つであり、さまざまなかたちで数年に一度は復元モデルが作られている。螺旋的なネジ巻きのように限りなくイメージを喚起するものも描いている。螺旋階段のようにネジが上昇していくのである。これが何に活用されるのかはわからない。だがここでもダ・ヴィンチに見えているものは、相当に異なっている。

 車の歯車について

歯車は、ピニオン(動かされる側の小歯車)を回転させるに当たって、一様な力で働き続けるのではない。というのは、歯の底部でピニオンの歯の先端部に力を与えることもあれば歯の先端部でピニオンの歯の底部に力を与えることもあるからである。この故に、歯車の力は、その中心からさまざまなに異なった距離において働きかけるので、その力はさまざまな効力で働きかけることになる。このために、時計の歩みは、歯車が完全に作動した場合でも、等速運動とはならないはずである。
              (『マドリッド手稿』第Ⅳ巻、8頁)

 歯車と小さな歯車が接触するさいには、平均的、要約的に見れば、一定の運動が伝えられる。歯車の精度を上げれば、運動の伝達は少ない振れ幅で実行される。だが歯車の精度を上げても、さまざまな接点で生じる運動の伝達では、強く伝わることもあれば、弱くしか伝わらないこともある。それは歯車の歯の面と面が接点のどこで最も強く接触するかが、いくぶんかそのつど異なるからである。運動の伝達は、大きくなることもあれば、小さくなることもある。だが平均値を取れば、ほぼ一様な動きをしている。この平均値の手前の小さな振れ幅のことを述べている。「運動の伝達は平均からつねにずれることを含んで行われる」という事態が、捉えられていることになる。これは歯車の技術的な改良を方向付けるとともに、運動の伝達にはそもそも一様性から外れるような可能性が内在していることも含まれている。現代的に言えば、運動の伝達には「ゆらぎ」が含まれていることになる。そして運動が、そのつど非規則的に振れ幅をもって変化しながら動きを継続していく場合には、「カオス運動」となる。おそらくダ・ヴィンチの記述の関心は、「永久運動」が不可能であることの理由付けの一つだと考えていたのだと思われる。永久運動の不可能さの裏面が、運動そのものの内在的な多様性である。
 おそらくダ・ヴィンチの残した膨大な手稿には、こうした方法的な原理が多数含まれており、時代を経て、そのつど新たな局面で読み直してみると、別様な原理がこっそりと書き込まれていたことに気づくことになるような草稿群なのである。
 職人の技能は、なによりも創り出すこと(制作)に向かっており、より新たな現実を出現させる方向に向かっている。そしてどこを改良すればよいのか(実践的調整)への関心に方向付けられてもいる。その副産物として、ときとして科学法則に類似した記述も書き残されている。制作(美)、実践的調整(善)、正しい規則(真)というこの配置は、真善美という2000年以上にわたって続く知の配置を、逆転させるものだったのである。


文献

ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(杉浦民平訳、岩波文庫、1999年)
ダ・ヴィンチ『絵画の書』(斎藤泰弘訳、岩波書店、2014年)
ダ・ヴィンチ(クレイトン、フィロ編著)『解剖手稿A』(森田義之、小森もり子訳、グラフィック社、2018年)
ダ・ヴィンチ(マリノーニ復刻)『鳥の飛翔に関する手稿』(谷一郎、小野健一、斎藤泰弘訳、岩波書店、1979年)
ダ・ヴィンチ『パリ手稿』(裾分一弘他訳、岩波書店、1989-1995年)
ダ・ヴィンチ『マドリッド手稿』(小野健一他訳、岩波書店、1975年)
ダ・ヴィンチ『素描集(ウインザー手稿)』(細井雄介他訳、朝倉書店、1996年)
ダ・ヴィンチ『素描集 風景、植物および水の習作』(裾分一弘他訳、岩波書店、1985年)
ダ・ヴィンチ『トリヴルツィオ手稿』(小野健一他訳、岩波書店、1985年)
ダ・ヴィンチ『アトランティコ手稿』(裾分一弘他訳、岩波書店、1973年)

アルベルティ『絵画論』(三輪福松訳、中央公論美術出版、平成23年)
アルベルティ『建築論』(相川浩訳、中央公論美術出版、1982年)
アルベルティ『芸術論』(森雅彦編著、中央公論美術出版、平成23年)
池上英洋『ダ・ヴィンチの遺言』(角川書店、2006年)
池上英洋『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』(東京堂出版、2007年)
池上英洋『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(小学館、2007年)
池上俊一(監修)『原典 ルネサンス自然学』(名古屋大学出版局、2017年)
ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』(平川祐弘他訳、白水社、1982年)
岡田温司他『レオナルド・ダ・ヴィンチ 白貂を抱く貴婦人』(ブレーントラスト、2001年)
小佐野重利他『レオナルド・ダ・ヴィンチ展――天才の肖像』(TBSテレビ、2013年)
ガルッツィイ『ダ・ヴィンチとルネッサンスの発明家たち』(石川清他訳、2001年)
カプラ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿を解読する』(千葉啓恵訳、一灯社、2016年)
ゲルプ『ダ・ヴィンチになる!』(リードくみ子訳、TBSブリタニカ、2000年)
児島喜久雄『レオナルド研究』(岩波書店、1952年)
斎藤泰弘『ダ・ヴィンチ絵画の謎』(中公新書、2017年)
斎藤泰弘『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎――天才の素顔』(岩波書店、1987年)
ジョルジョ(フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ)『建築論』(日高健一郎訳、中央公論社、1991年)
下村寅太郎『レオナルド研究 著作集5』(みすず書房、1992年)
ジル『ルネサンスの工学者たち』(山田慶児訳、以分社、2005年)
スー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の素描と手稿』(森田義之監訳、小林もり子訳、西村書店、2012年)
裾分一弘『レオナルド・ダ・ヴィンチ 手稿による自伝』(中央公論美術出版、1986年)
裾分一弘監修『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と作品』(東京美術、2006年)
裾分一弘『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』(中央公論美術出版、平成16年)
ダーウィン『よじのぼり植物』(渡辺仁訳、北森出版、1991年)
タッディ『ダ・ヴィンチが発明したロボット』(松井貴子訳、二見書房、2009年)
ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 全絵画作品・素描集』(Taschen、2004年)
田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界像』(東北大学出版会、2005年)
ドラッツィオー『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密』(上野真弓訳、河出書房新社、2016年)
長尾重武『建築家レオナルド・だ・ヴィンチ』(中央公論社、1994年)
ニコル『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 飛翔する精神の軌跡』(越川倫明他訳、白水社、2009年)
ファネッリ『ブルネスキ 新しい空間の創造者7』(児嶋由枝訳、東京書籍、1994年)
フロイト「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出」(『フロイト著作集3』所収、高橋義孝他訳、人文書院、1987年)
フェルトハウス『技術者・発明家 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(山崎俊雄、国分義司訳、岩崎美術社、1974年)
毎日新聞社事業本部他『レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想』(毎日新聞社、2011年)
松浦和也『アリストテレスの時空論』(知泉書館、2018年)



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